★最初に注目したいのは、1節の『イエスを試そうとして』という言葉です。これを大前提として読まなくてはなりません。 つまり、『ファリサイ派とサドカイ派の人々』は、イエスさまに教えを請うという姿勢ではありません。更に、心から『天からのしるしを』知りたいということでもありません。彼らの目的は、『イエスを試そうとして』、イエスさまを罠に掛けることにあります。 このような場面は福音書の中で繰り返されています。 ★『天からのしるし』とは、2〜3節にありますように、天候や月・星を観て、明日を予測することです。もし、イエスさまが、このようなことをなさり、明日を預言されたら、イエスは星占いをする者だ、異端だと批判したことでしょう。旧約聖書では、明確にこれが禁止されています。勿論、天気予報のことではありません。星占いのことです。 もし、イエスさまが、律法で禁止されているから、星占いは出来ないと言ったならば、イエスにはその能力がないと批判するでしょう。当時の民衆の間では、星占いは大流行でした。ユダヤ人の中にも、民間信仰としての星占いは存在しましたが、なにしろ律法では死罪に当たりますから、発展せず、原始的な段階に止まっていました。そこに、ギリシャの天文学と結び付いた星占いが入ってきましたから、大流行しました。 どちらを答えてもイエスさまに不利になるように仕掛けられた罠に過ぎません。このような悪意ある問いは福音書の中で繰り返されています。 ★もし、『ファリサイ派とサドカイ派の人々』が、この流行を苦々しく思っていたのならば、正面から、それこそ律法の箇所を上げて、異端だと批判すればよろしいでしょう。むしろ、しなくてはならないでしょう。しかし、それでは民衆に嫌われますから、自分たちでは何も言わずに、イエスさまを利用しようとしています。 ★そもそもこれが罪でしょう。心底、明日に不安を覚えて、私たちはどうなるのでしょうと問い、或いは願ったのならば、神さまも応えてくれるかも知れません。しかし、初めっから、願っても祈ってもいません。むしろ、批判するために、問いがあります。 これが、『ファリサイ派とサドカイ派の人々』の現実であり、深い罪です。彼らは、律法に詳しく、律法を自家薬籠中のものとしています。上手に自分の利益のために用います。自由自在に用います。 誰かが、真剣に悩み、聖書に照らしてどのようにしたら良いのでしょうかと質問したならば、彼らはその深い知識で、たちどころに、依頼人に有利に働く聖書個所を引用することが出来ます。そして、たっぷりと謝礼を貰います。 ところが、彼らには、真摯に聖書に聞く姿勢などありません。全くありません。今日の、悪徳弁護士のようなものです。その専門的知識で、悪党、人殺しのためにだって、聖書を引用出来ます。 先日も申しましたように、「悪魔もその目的のためには聖書引用する … シェイクスピア『ベニスの商人』」です。 ★私たちも、先ずこの点で我が身を振り返り、反省しなくてはなりません。心から、聖書に聞いているのかという点です。本当に心から答えを求めているのかという点です。 初めから期待する答えがあり、その望み通りに答えが与えられると、満足し、違っていると、そんなものは当てにならないと退けるのではないかということです。 私は毎朝のように天気予報を見ます。望ましい予報だと満足します。望ましくない予報になっていると、別の予報を見ます。まあ、大きい違いはありませんが、予想最高気温が1度くらいは違います。降雨確率も、やや違います。 望ましい方を選んで、よしよし、と言います。 ★天気予報くらいならば、大した罪はありません。しかし、運勢でも、法事に関しても同じことです。 遠藤周作が、当時人気だった「新宿の母」と呼ばれた占い師について書いています。この人は、手相占いを求める女性に、必ずのように答えます。 「あなたは、とても良い物を持っているのに、周囲の人にはそれが理解出来ていないようです。とても損をして来ました」。 このように答えると、ほぼ100%の女性が、「当たっている。その通りだ。この占い師は本物だ」と思うそうです。 どちらが先かは定かではありませんが、この手口は、統一原理のマニュアルにあります。私が説得して脱会出来た女性に貰った物ですので、間違いなく本物です。 そこには、手相そのものや、インチキ商品を売りつける手口についてのマニュアルがあります。 ★私がある意味感心したのは、先ず、相手を褒めることと書いてあります。カモになる人の姿形でも良いし、それが見つからなければ玄関の装飾について、それもなければ、猫を褒めろと書いてあります。猫がいなかったらどうしましょうという質問には、何かしら探し、見つけなさいとあります。 動機が悪いのですが、少し見習った方が良いかも知れません。悪いところを探すことは簡単です。なかなか見つからない良いところを探すのは、努力だし、大事かも知れません。 ついでに申しますと、統一原理には、讃美のシャワーという言葉があります。誰かが訪ねて来たら、或いは、インチキ商売という困難な疲れる仕事から帰って来たら、みんなで出迎え、歓迎、感謝、讃美の言葉を、それこそシャワーのようにたっぷりと浴びせるのです。このことも、動機は悪いのですが、教会は少し見習った方が良いかも知れません。 ★聖書に戻ります。1節が未だ残っています。 『天からのしるしを見せてほしいと願った』 具体的には、終末の徴です。マタイ福音書ですと24章に詳しく描かれています。その時に改めて学びますので、ここでは簡単に触れておきます。 ユダヤ人は、ローマ帝国の支配下に置かれています。当時の人からしたら、ローマは絶対の存在に見えます。いつかは滅ぶとはとても思えません。自分たちがローマを追い出す程の力を持つことが出来るとは信じられません。何度も何度も繰り返し、血気盛んな若者が武装蜂起しましたが、全く壊滅させられます。蜂の一刺しにもなりません。 そういう思いが強くなり、終末思想が盛んになりました。自分たちの手では出来ないからこそ、神さまの業に期待します。それは仕方がないし、当然でしょう。 ★終末を待ち望む人は、その徴を求めます。何とか予徴だけでも見つけたいのです。これを利用して、『ファリサイ派とサドカイ派の人々』は、イエスさまに徴を求めました。本当に知りたいからではありません。もし、イエスさまが徴を見せたら、これが徴だと言ったならば、直ちにローマに告発するでしょう。イエスは反乱を企んでいると。ローマの滅亡を呪詛していると。 これは、日本でも平安時代から、使われた手口です。 徴を見せないと、イエスはローマ帝国に迎合していると民衆に喧伝するでしょう。これが、罠です。 ★罠であることは明らかです。それならば、イエスさまはファリサイ人に、「あなた方はどう思うのか」と聞いたら良いと考えます。問いに対して問いで返すのは、律法学者たちの常套手段です。争論術の手口です。ファリサイ派、律法学者はこれに長けています。勿論、イエスさまが知らないはずはありません。マタイ福音書でも、イエスさまが問いに問いで返す場面があります。しかしイエスさまは、ここでは敢えてその手法を用いずに、2〜3節のように答えられました。 … 「あなたたちは、夕方には『夕焼けだから、晴れだ』と言い、 3:朝には『朝焼けで雲が低いから、今日は嵐だ』と言う。 このように空模様を見分けることは知っているのに、 時代のしるしは見ることができないのか。』 … これを、問いに対して問いで返す争論術の変形だと見ることも出来ますでしょう。しかし、それがイエスさまの本意ではありません。 むしろ、まんまと罠にかかるかのように、徴は既にあると答えられます。ファリサイ派ならば、この言葉を歪めて、イエスはローマ帝国滅亡の徴は存在すると言ったと指摘するかも知れません。 ★3節の後半だけもう一度読みます。 『空模様を見分けることは知っているのに、時代のしるしは見ることができないのか。』 イエスさまは、既に徴はあると仰っています。 人々は、それを見ないし見たくないのです。与えられている徴は見ません。全くの矛盾です。徴を求めているのに、徴を見ないのです。何故なら、見たい徴、望ましい徴があるからです。先ほど申しました天気予報と同じです。見たい天気予報、望ましい天気予報があるからです。 ★元に戻ります。4節の前半。 『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる』 何しろ大事なことは、イエスさまが間違いなく、このように言われた、マタイ福音書をもマルコ福音書も、これを記録しているという事実そのものです。ルカも直接的ではありませんが、同じ意味を記しています。 『よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる』のです。 『しるしを欲しがる』のは『よこしま』だと言ったら間違いでしょうか。間違いではないと思います。 ★にも拘わらず、教会の内外に、この『よこしま』が横行しています。徴を求め、徴を与えます。キリスト教系の新興宗教、インチキ宗教は、この徴が、『よこしま』が、大好きです。 マタイ福音書24章で説教する時に譲ると申しましたが、2箇所だけ引用します。注釈はしません。 … 弟子たちがやって来て、ひそかに言った。 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。 また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 4:イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 5:わたしの名を名乗る者が大勢現れ、 『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。 … … 23:そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、 信じてはならない。 24:偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、 できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 … ★4節後半。 『ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。』 『ヨナのしるし』とは、ヨナ書のことでしょう。何時か読みたいと願います。肝心なことはその時に譲ります。 今日は、結論だけを申します。悪意ある預言は退けられます。預言は、愛に裏付けられたものでなくてはなりません。愛がないならば預言しないことです。愛がないならば聖書を引用しないことです。 ★ところで、偽預言者を見分ける方法は存在します。割と簡単です。 昔、『一休さん』というテレビアニメの番組がありました。大変人気で、繰り返し再放送されました。 その1話です。一休さんの偽物が出ました。一休さんと奉行の新右衛門さんは、これを暴き、懲らしめに行きます。 ところが、偽物の正体を晴らすのは簡単ではありません。何故なら、本物にそっくりだからです。姿形だけではなく、話の内容がそっくりなのです。一休さんのとんち話を全て押さえていて、そっくりに真似ますから、なかなか違いを指摘出来ません。 ★偽物を見分ける方法がありました。それは、本物を100%コピー出来ていない所を見つけることではありません。逆です。本物が決して言わないことを、偽一休は言います。これが相違点です。本物が決して言わないこととは、「だからお金を出しなさい」です。 このことは、偽の信仰、偽の教会にこそ当て嵌まります。 偽の信仰、偽の教会だって、聖書の言葉をそっくりと真似ます。真似ることが出来ます。偽物が本物を真似ることは難しくありません。本物の教会と寸分違わない説教だって出来ます。難しくありません。 しかし、彼らは、聖書に書いていないことを付け加えます。何年何月、世界が滅びる、そんなことは聖書に書いてありません。説教の後に、だから献金しなさい、そんなことは聖書に書いてありません。 |