★この箇所は、先祖の言い伝え、つまりユダヤ教の伝統的な慣習や、当時の様々な決まり事を背景にしていますから、いちいち、説明を始めればキリがありません。説教原稿を書くためのメモを作っている段階で、もう既に、いつもの説教の紙数になってしまった程です。しかし、そのような細々したことに精通すれば、この箇所を理解出来るかと言えば、そうでもありません。 そこで細かいことは思い切って省略し、全体的なことだけをお話したいと考えます。 ★私は、秋田・福島・島根と、長く地方の教会で働いてまいりました。松江は県庁所在地ですし、小さいながらもむしろ都会型の教会でしたが、秋田の大曲、福島の白河は、小さい町で、東北特有の風土・人情そして様々な慣習が、なお色濃く残っていました。 このような地で伝道・牧会する時には、冠婚葬祭が常に問題になります。婚葬だけでなく、冠も祭も、現実的な問題としてありました。冠については、教会員が叙勲される、その祝賀の会に牧師も出席を求められるような事が起こります。教会関係施設に対してお祝いを差し上げなければならないこともありました。 祭では、町内のお祭りに寄付を求められる、子供たちが友だちと一緒に御神輿を牽いて遊びたいとか、そういう問題が起こります。婚については、申し上げる迄もないでしょう。 しかし、この三つはお祝いごとですから深刻な問題になることはありません。何とか折り合いが付きます。 ★一番現実的な問題になるのは、葬です。 葬儀屋さんが主導するような葬儀にもいろいろと問題があります。彼等がキリスト教式と考えているものは、実に紛い物で、任せているととんでもない羽目になる場合がありました。何しろ、カトリックとプロテスタントの違いも理解されていません。 しかしそれも、牧師がその実態を心得ていれば何とかなります。最も軋轢を生むのは、地域の人々が葬儀に深く関わる場合です。 極端な例としてはこんな事がありました。前夜式の執行される故人の自宅にまいりますと、何と遺骸には手甲脚絆、三途の川の渡し賃まで用意されています。胸元には、鋏がありました。これは魔除けです。 まあこのくらい勘違いが甚だしければかえって、キリスト教式は違いますよと説明出来るのですが、生半可な知識を持っている人がいたりするとややこしい。実に面倒です。或る時は、親戚筋の人に猛反発されました。この人はクリスチャンではありません。以前に他の教会で経験した時にはこうだったと主張して譲らないのです。 ★確かに事柄が冠婚葬祭のこととなりますと、異常な迄に関心を持っていて、知識をひけらかす人がいます。教会の外にも中にもいます。 また、困るのは、プロテスタント教会には、確固としたマニュアルなど存在しないという点です。しかし、どちらでも良いと答えると、不信を持たれてしまいます。頼りない牧師だと思われます。 牧師が、まるで決まり切ったことであるように、確信を持っているかのように、「このようにして貰います」と言わなければ、葬儀で立ち働く人々は不安です。その結果、一度経験した人は、今度はその経験を絶対と思い込みます。牧師はこう言っていた。あの教会ではこうだった。これが絶対になります。 私は、結婚式の度毎に、新郎と新婦とどちらが右手でどちらが左だったか、分からなくなります。指輪を填める指も分からなくなります。しかし、ここで迷ったりすると、確実に信頼を失います。困ったものです。 結論、人は冠婚葬祭のような日常から離れたことを行うに際して、融通が利きません。決まり切ったことを決まり切ったように行うことを求めます。そうでないと不安だし、不信を覚えます。その結果、冠婚葬祭はとことんまで儀式化します。儀式でないと有難みが消えます。焼香、献花、弔辞、本当はキリスト教式などは存在しません。存在しないのに、絶対であるかのように受け止められ、困ったことに、教会の数程儀式が生まれます。 ★少し話が脱線傾向ですが、もうちょっと続けます。 地方の教会で現実的な問題の一つに、仏壇・神棚のことがあります。 昔ながらの嫁の立場というものは、東北では、現在でもなくなった訳ではありません。教会に通っていながら、仏壇・神棚を守らなければならないという矛盾に苦しみ、相談してくる人があります。嫁が教会に通うことを許しているくらいですから、頑固な姑というのではありません。むしろ、物分かりの良い、優しい姑に数えられるのでしょう。教会に通ってもかまわないから、仏さんのことだけはちゃんとして欲しいと、この姑さんは望みます。そこに矛盾があるなどとは思っても見ません。 そんなことは当たり前でしょう。教会に通うも通わないも本人の意思でしょうと言う人には通じない話かも知れませんが、これも現実です。 嫁の信仰というものを、それなりに重んじて、教会に通ってもかまわないから、仏さんのことだけはちゃんとして欲しいと考える姑さん、これを全く退けることはなかなか難しいのです。全く対立したならば、教会に通うことさえままならないかも知れません。 ★私は、このような場合、次のように答えていました。お姑さんが、例えばダイヤモンドの指輪を持っていて宝物のように大事にしていたとします。私たちの信仰から見れば、そんなものは何の価値もありませんが、まさか、捨てたり焼いたりはしないでしょう。もしそれが二束三文の安物だとしても同じことです。 古い骨董価値のある仏像や掛け軸などは、私たちの信仰から見れば、何の価値もないどころか、偶像に当たるものですが、これも、まさか、捨てたり焼いたりはしないでしょう。 仏壇も神棚も、同様に考えるべきでしょう。私たちの信仰から見れば、そんなものは何の価値もありませんが、それをお姑さんが大事に思っていることは事実なのです。だから、大事に守ってあげたらよろしいでしょう。但し、拝んではなりません。 これは、焼香、献花、弔辞、にも通じることです。 ★ところが、今度はこれが一人歩きしました。「牧師は、仏壇・神棚を大事にしなさいと言った」となりました。そういうことではありません。ここまでは良いが、ここからは行けないという線引きは出来はしません。 冠婚葬祭全てについて、キリスト教式ではこうだ、ではなくて、もし、キリスト教式が存在するならば、それは、一人一人が自分の置かれた状況の中で、真摯に、自分の胸に問い、神さまに問いながら判断するべきです。自分で判断しないで、規則がこうだからと決まりごとを持ち出しては、真の問題解決にはなりません。 決まりでは追いつきません。どのように向かい合うか、根本姿勢が問われるのです。 ★ちょっと変則的ですが、マタイ福音書19章をご覧下さい。数ヶ月後に読むことになる箇所ですが、この際に読んでしまいます。この出来こと自体が、今日の箇所を読み取る格好の注解になるでしょう。マタイ福音書19章1〜12節。 『1:イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。 群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。 2:ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、 律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。 3:イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。 4:彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。 5:イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、 このような掟をモーセは書いたのだ。 6:しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。 7:それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、 8:二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。 9:従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10:家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。 11:イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、 妻に対して姦通の罪を犯すことになる。 12:夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」』 ★結論部分だけを申します。当時律法学者の間で、離婚の規定を巡って理解の相違がありました。一番厳しい読み方をする者は、律法にある『妻に不都合があった場合』という離婚の規定について、妥当するのは不貞を働いた場合だけだと考えました。 逆は、フライパンを焦がしただけでも不都合は不都合だと言います。 このマタイ19章で本当に問題にされているのは、離婚の是非ではありません。律法学者は、今日の悪徳弁護士のように、顧客の要望に併せて、聖書や先祖の言い伝えから、離婚容認の聖句を探すことが出来るし、逆に離婚禁止の聖句を探すことが出来きます。つまり、自分に都合の良い、恣意的な読み方をします。『悪魔もその目的のためには聖書を引用する』、シェイクスピア『ベニスの商人』です。 律法学者は離婚を認めたけれども、イエスさまは認めなかったという話ではありません。 イエスさまは、聖書を法律のように読むのではなくて、もっと根本的な意味を探りなさい、神さまの御心を聞きなさいと仰っているのです。 ★離婚を禁止する法律を作れば神さまの御心に従ったことになるとか、その逆だとかという話ではありません。他のどんな問題でもそうです。自分の都合の良いように聖書を読むこと、自分の都合の良いように、規則を持ち出すことが、問題とされているのです。 またローマカトリックや他の教派では、聖書の読み方を初め、様々な事柄が、既に決められていて、それに従うことが、そも敬虔な信仰的な生き方だとされるのですが、福音主義の教会では、そのように、人間の行動のいちいちを規定するようなことはしません。それは、福音主義の教会が野放図だからではなくて、形式的に規則に従うのではなく、御心を探り、自分で決断して、良い道を選び取ることこそが大事だと考えるのです。 今、福音主義の教会ではと申しましたが、純福音主義を標榜する教会では、ローマカトリックに戻ったように、あれをしなさいこれをしてはならない、この聖書が語る意味は、かくかくしかじかですと、全部決められているかのようです。 ★さて、やっと今日の箇所を見ます。 細かい説明はかえって話をややこしくするだけですから、省略致します。ここで真に問題として取り上げられていることは、唯一つのことです。それは、御言葉・ここではむしろ律法にどのような姿勢で向かい合っているかです。 うるさいけれども守らなければならない義務、それでは真に御言葉に聞いたことにはなりません。上手く利用すれば、それで人に付け入ることが出来る、それでは、御言葉を石礫として用いていることになります。 ★この箇所で直接的に取り上げられているのは、手を洗うことと、父と母とを敬うと言うこととです。手を洗う、衛生観念からすれば大事なことです。それが何時の間にか、神聖な儀式的になり、最初の目的は何処かに行ってしまったのでしょう。このような儀式化・形骸化こそ、御言葉を忘れるということです。 一方、父と母とを敬うことは十戒にも記されているように、律法の中でも中心的なものです。このような大事なことも、手を洗うことと同様に、儀式化・形骸化されています。そして、重要な事柄と些末な事柄とが、同じくらい奉られる、これが、儀式化・形骸化の極まりです。偶像崇拝です。 宗教、教会は、儀式化・形骸化と絶えず闘っていなければなりません。だからこそ、常に、新しく御言葉に聞く礼拝を守り、祈らなければなりません。礼拝・祈りは、決して形骸化された儀式であってはなりません。礼拝・祈りこそが、教会の形骸化を防ぐ手立てなのです。 私たちの教会は、その建物・形・組織は、創世記で人間が創造された時のように、泥人形のようなものです。神さまの息を吹き入れられていないならば、泥人形に過ぎません。 神さまの息を呼吸して、初めて教会となります。 ★さて、未だ触れていない大事な事柄があります。今日の説教題でもあります。 17〜18節を改めて読みます。 『17:すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。 18:しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。』 ここも細かいことを説明する必要はありません。要は、形式に拘っていては、本質を見誤り、見えて来ないものがあるということです。また、真に守るべきこと、絶対に退けるべきものがあるということです。退けなくてはならないものの一覧が、19節です。 『悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、 心から出て来るからである。』 これらの悪・穢れに比べれば、『手を洗わずに食事を』するなどの禁忌は、ものの数ではありません。 ですから、形式、上辺、決まり事にのみ拘り続ける人は、8〜9節となります。 『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。 9:人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』 |