†2節から16節までの長い朗読でしたが、13節以下を中心にして読みます。13節。 『神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。』 『なつめやし』は、聖書時代から、今日のイスラエルでも、貴重な作物だそうです。とても甘く美味しく、カロリーも栄養もあります。今日でも、これを主食とする人々が存在します。聖書の時代だったら、『なつめやし』は一財産です。良い木が一本あれば、家族が生活出来るくらいに値打ちがありました。 イスラエル旅行から帰った牧師に、お土産として貰って食べたことがあります。美味しいとは思いませんでしたが、確かに、甘く、栄養がありそうです。 インターネットに、写真が出ていました。普通に街路樹で見るような椰子の木に、実にたわわに、実が生っています。見事を通り超して凄まじいばかりに、実が生っています。 ちょっと他のものに比較することさえ出来ません。鈴生りとは、こういうことを言うのでしょうか。 †ここのところが肝心なことです。 『なつめやし』は、実に見事にたわわに、実を生らせます。 この様子が、子どもや孫ひ孫に恵まれ、大家族を形成し、豊かに平和に暮らす様に、準えられています。『なつめやし』については、15節で、改めて読みます。 †『レバノンの杉』、これは旧約聖書の歴史書に頻繁に出て来ます。 聖書にありますように、良い香りがすることもあり、上質の建築材として用いられます。日本なら、檜でしょうか。高さが40メートル以上にもなるそうです。そして、姿が美しい。正に、偉容を誇ると言う姿です。 また、『レバノンの杉』から、ミイラを作るのに用いられる防腐剤が取れるそうです。樹齢が長く、3000年を超えると証明されている木が、現在3本あるそうです。 このようなことから、『レバノンの杉』は、分かり易く言えば、不老長寿の象徴です。 †『神に従う人はなつめやしのように茂り レバノンの杉のようにそびえます。』 『神に従う人』には、このように、健康・長寿の祝福が約束されています。単純と言えば単純ですが、『神に従う人は』子孫に恵まれ、健康で長生きする、そういう単純・素朴な信仰が、言い表されています。 †14節を読みます。 『主の家に植えられ わたしたちの神の庭に茂ります。』 『レバノンの杉』が、『主の家に植えられ、神の庭に茂』るということではありません。『レバノンの杉』に準えられる『神に従う人』が、『主の家に植えられ、神の庭に茂』ります。『神に従う人』は、『主の家に植えられ、神の庭に茂』る『なつめやし』であり、『レバノンの杉』なのです。 †『主の家に植えられ、神の庭に茂』るとは、具体的にはどういうことなのか、それは、2〜4節に描かれています。 『いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 3:朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 4:十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。』 『主の家に植えられ、神の庭に茂』る『なつめやし』のように実を生らせ、『レバノンの杉』のように、屹立するということは、2〜4節に描かれているように、神を讃美することです。今日で言うならば、教会で礼拝を守る人のことです。 †15節。 『白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし』 主の家に植えられ、神の庭に茂』る『神に従う人』は、 『白髪になってもなお実を結』ぶことが出来るそうです。 これは、文字通りには、子どもをもうけることでしょうか。流石に、子どもは無理としたら、孫のことでしょうか。それに限らず、ますます栄えると言うことでしょうか。 つい先日読んでいたユダヤ人社会を舞台にした小説では、77歳にして、精力旺盛で、若い女性と結ばれる人が登場しました。 子どもが出来たとは描いてありませんが。 †新約聖書ですと、『実を結』ぶとは、信仰の実のことです。 私たちに当て嵌めて考えれば、福音を宣べ伝え、洗礼を受ける者を産み出すことであり、信仰の実践としての愛を産み出すことです。 私たちは、大原則として、旧約聖書をキリスト預言として受け止めますから、詩編そのものの意図から多少飛躍して、これを解釈することは、間違いでは無いと考えます。 『主の家に植えられ、神の庭に茂』る『なつめやし』、『レバノンの杉』つまり、信仰者は、教会の中でこそ、根付き成長し、豊かに実を付けます。 また、多くの果樹がそうであるように、老木こそ、沢山の豊かな実を生らすのです。 †15節の後半と16節の最初を読みます。 『命に溢れ、いきいきとし 16 述べ伝えるでしょう』。 これも、私たちの教会、私たちの信仰に当て嵌めて読むことが許されるでしょう。 『白髪になってもなお実を結び 命に溢れ、いきいきとし』 『宣べ伝える』ことが出来ます。むしろ、『白髪になって』からこそです。 †ところで、何を宣べ伝えるのか。16節の後半。 『わたしの岩と頼む主は正しい方 御もとには不正がない、と。』 これは、信仰告白です。 5〜12節には、悪が栄え、神に逆らう者がはびこるように見えようとも、必ず神さまは正義を成し遂げられるという確信です。 †宣べ伝える、伝道と言いますと、先ず青年伝道を思い浮かべます。そして、伝道の対象も、伝道の担い手も、青年です。そんな風に考えます。 しかし、対象も、担い手も、青年に限定する根拠は何処にもありません。 特に、担い手こそ、限定する根拠は何処にもありません。 何を宣べ伝えるのか … 信仰を宣べ伝えます。宣べ伝えるべき信仰が無くてはなりません。信仰告白が無くてはなりません。 宣べ伝えるべき内容が無くては、宣べ伝えることは出来ないし、むしろ、信仰の無い人は、宣べ伝えてはなりません。 信仰も信仰告白も無い者が、それでも宣べ伝えるとしたら、恐ろしいことです。信仰は歪み、教会はその姿形を、醜いものに変えてしまうでしょう。 †ロバート.マキャモンの『少年時代』に、こんな場面がありました。殺人罪で今正に判決を下されようとしている男が、少しでも罪を軽くして貰いたくて、裁判官に言います。 「悔い改めて、これからは聖職者になって働きたいと思います」 裁判官は答えます。 「彼が神の道を説くには、長期間の修養と、読み足りない聖書をちゃんと読むのに適した、どこへも逃げ出せない場所が必要であろう」 彼には長い刑期が宣告されます。刑務所の中なら、たっぷりと勉強時間があるでしょう。 ちょっと強調し過ぎで、極端なことを言っているように聞こえるかも知れませんが、宣べ伝えると言う業は、むしろ、信仰生活の長い者のなすべき業なのです。責任なのです。 †諄いかも知れませんが、もう一つの例をお話しします。超ベストセラー作家のD.R.クーンツにこんな話があります。 貧しい母子が、家賃が低いだけの理由で、今にも崩れ落ちそうな、怪しげな館に移り住みます。そこには、とても親切、面倒見が良い老人たちが暮らしています。 … 結論を急ぎます。若い母子が住むようになるや、この老人たちは日に日に元気になっていきます。そして、館そのものも、若さを取り戻すように、新しく綺麗になって行きます。 もうお分かりでしょう。この館は建物自体が化け物で、そこに住む老人たちは、妖館に精気を吸い取られた被害者であり、新しい住民から命を吸い取る加害者です。吸血鬼の館です。 私は統一原理を連想させられました。 †教会には、老人しかいない、若い人を呼び寄せなければならない、教会が若返らなければならないと、言われています。私は違うと思います。教会は、若い人の血を必要とする吸血館ではありません。 老人には、是非若い人との交わりが必要だと言うのも違います。むしろ、人生に迷い、躓き、絶望する若い人のために、教会が必要なのです。誰の目から見ても、この世の中はおかしくなっています。働いても働いても、貧困から抜け出ず、人生設計など持ち得ない若い人が多くなっています。希望を見失っている者が少なくありません。 †かつて、教会に若い人があふれる時代がありました。その時の教会は、現在よりも貧しく粗末で、大した設備もありません。しかし、それでも魅力がありました。希望があったからです。福音が語られていたからです。むしろ福音しかありません。しかし、それが魅力だったのです。 †12節、11節の順に読みます。 『わたしを陥れようとする者をこの目で見 悪人がわたしに逆らって立つのを この耳で聞いているときにも。』 『あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ 豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう』 現状はどのようにあろうともです。 『陥れようとする者をこの目で見 悪人がわたしに逆らって立つのを この耳で聞いている』これが現実です。 それが現実中でも信仰を失わず、神の裁きが確かに行われることを信じたいと思います。 †『主の家に植えられ、神の庭に茂』る人は、悪から守られて、何の心配もなく、平安に過ごすことが出来るというのではありません。 『主の家に植えられ、神の庭に茂』りながらも、つまり、教会で礼拝を守りながらも、 『陥れようとする者をこの目で見 悪人がわたしに逆らって立つのを この耳で聞いている』のです。 そのような試練が、現実に存在します。 しかし、そのような困難な中でも、『主の家に植えられ、神の庭に茂』る人は、主を信じて心安らかにおり、そして、例え老木であっても、花を咲かせ、たわわに実を付けることが出来ます。老木であっても、信仰の果実をたわわに実らせることが出来ます。 †5〜7節をご覧下さい。 『主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。 わたしは御手の業を喜び歌います。 6:主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。 7:愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません。』 『御業を喜び祝わせてくださいます』 私たちは、喜び祝うことを許されています。喜び祝うことが出来ます。 何度も言いますように、どのような状況にあろうともです。 むしろ、喜び祝うことを禁じているのは、私たち自身の心です。 『愚かな者はそれを知ることなく 無知な者はそれを悟ろうとしません』 神さまを知らないことを自覚しないでいること、神さまが赦していて下さることを知らないでいること、これこそが、無知なことです。 そして、主の救いの手が延べられているのに、絶望して悲しんでいることは、愚かなことです。 老人だろうが若者だろうが、信仰の果実をたわわに実らせることが出来ます。 †最後に2〜4節を読みます。 『いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 03:朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 04:十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。』 これが教会の魅力です。世の中には無いもの、無いことです。この魅力を味わって来た者こそが、それを知らない若い人に、宣べ伝えなければなりません。宣べ伝えることが出来ます。これを宣べ伝えるのに、必ずしも、体力は絶対必要な条件ではありません。気力も。絶対に必要なものは、神への感謝と讃美、これだけでしょう。 |