◆先週の説教では、13〜20節がテキストでしたが、21節以降にも踏み込んで読みました。今日は、内容的にも重複しますし、先週の説教の続き、後編として聞いていただければと思います。順に読みます。21節。 … このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、 律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、 三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。 … 『このときから〜打ち明け始められた』とあります。この時までは、秘密にしておられました。隠しておられました。 『苦しみを受けて殺され〜三日目に復活する』 これは私たちの信仰から見て、一番の重要事です。そんな大事を、何故秘密にしておられたのでしょうか。 ◆なんとなくとか、たまたまな筈がありません。秘密にする、秘密にしなければならない理由があったに違いありません。いろいろと聖書個所を上げることが出来ますし、「メシア秘密」という特別の術語で説明される神学的解釈もあります。しかし、それらは煩雑なだけですので省略して、ヨハネ福音書が言うように、『未だその時ではなかった』からと解釈するのが正しいと考えます。 その時が来なければ、心の準備がなければ、十字架と復活の出来事は、理解出来ないし、受け止めることが出来ません。イエスさまの言動に触れて、深くイエスさまに魅せられ、先ずイエスさまという人間を信じ、愛することが出来なくては、十字架と復活の出来事は、理解出来ないし、受け止めることが出来ません。 ◆逆に言いますと、十字架と復活の出来事に出遭う前に、知る前に、先ずなすべきことがあります。 そのために、弟子たちには3年以上の時が必要だったと思います。それでも充分ではなかったから、22節に記されているように、ペトロの見当違いの反応が起こります。このことは、もう少し、後で読みます。 私たちにとっては、聖書を読むことが大前提です。聖書を読んで、イエスさまのことを知り、弟子たちがイエスさまをどのように見ていたのか、信じていたのかを知り、初めて、十字架と復活の出来事に向かい合う用意が出来ます。 知識だけではありません。より具体的には、聖書だけではなく、教会を知って、礼拝を守って、初めて、十字架と復活の出来事に向かい合う用意が出来ます。 ◆教会学校やキリスト主義学校の教育は、この役割を果たすと思います。これらは理屈を教える場所ではありません。体験する場所です。理屈も必要かも知れません。理屈から入るような子どもがいることも否定出来ません。しかし、理屈となると、最低でも高校生以降でしょう。年齢が進み知識が増すと、理屈・論理的思考は、信仰に導くよりも、信じることを妨げる役割をするのではないでしょうか。 理屈よりも体験です。クリスチャンホームが大事なのも、同じ理由です。 ◆主題から脱線していると聞こえるかも知れませんが、この機会ですから、もう少し続けます。 私は所謂段階の世代の尻尾か、その後くらいです。当時の田舎には、空き地も、車が滅多に通らない道路もありました。そこに、子どもが溢れていました。一番盛んだった遊びは、野球でした。道具も満足にありません。杭を削ってバットを作り、柔らかいゴムボールで、野球、厳密には野球の真似事をしていました。ゴムボールだと、グローブも要りません。また、隣家の窓ガラスを破ることもありません。大いに楽しんでいました。 相撲も盛んでした。雪国ですと、シーズンは野球が出来ない冬場です。雪の上に土俵を作りますから、安全です。 ◆野球も相撲も大人気でしたが、実は当時の子どもたちは、ルールも満足に知りません。未だテレビではなく、ラジオでしたから、本物を見ていないのです。 私は、虚弱児童でしたから、野球も相撲もあまり出来ません。そこで、ルールに詳しくなりました。また、新聞で見て、チームや選手たちの成績を暗記していました。 こんなことがありました。草野球で一目置かれている中学生が、「きのう長島がホームランを2本も売ったから、相当打率が上がった。首位打者が取れるかも知れないよ」。 私はつい、「ホームランでも、ただのヒットでも、打率は変わらないよ」。他の子どもたちも言います。「ヒットでも、ホームランでも同じなんて馬鹿言うな」。 私は打率がどのように計算されるかを教えました。結果は、殴られました。私は意地になって、よりルールや成績に詳しくなり、それをひけらかし、嫌われました。 ◆信仰も同じです。大事なことは体験です。理屈が先になると、とんでもない間違いを引き起こします。 現代野球は、データが尊重され、高校野球でさえ、ボールを投げる度毎に、バットを振る度毎に、スマホの画像を見て、数字を観て、検証するそうです。科学的にスポーツに取り組むことは、無駄や怪我を減らすし、大変結構なことだと賛同します。しかし、どんなにデータを集めても、それで野球が上手になるわけではありません。ボールを投げなければ、バットを振らなければ、向上はありません。 信仰も同じです。大事なことは体験です。今は、ネットでも礼拝を見れます。説教を聞けます。しかし、それだけで信仰が養われるとは思われません。 全く逆で、信仰を持った人だから、教会を知っている人だから、ネットであっても、礼拝を説教を、自分もそこに居るように体験できるのだと考えます。 ◆大脱線から、聖書に戻ります。22節。 … すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 … 先週読みましたので、結論的なことだけを言います。ペトロは多分3年以上もの時を、イエスさまの傍らで過ごしました。いろんなことを見聞きしました。他の弟子たちが体験しなかったことにも出遭いました。この後の17章でも、3人の弟子だけが、神の国の先取りとも言える主の山上の変容を体験します。その一人がペトロです。どんな時にも、ペトロはイエスさまの側近くにいました。 しかし、むしろ、それだからこそ、ペトロはイエスさまに対する人間的な思いが強く、イエスさまの言葉をそのままに聞くことが出来ず、『そんなことがあってはなりません』と諫めてしまいました。僭越と言うよりも、人間的な思い、愛に捕らわれたことが、批判されます。23節。 … 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。 神のことを思わず、人間のことを思っている。」 随分ときつい言葉です。何しろ『サタン、引き下がれ』です。イエスさまの身を案じているのに、あんまりな言いようだと、私は思ってしまいます。しかし、そんな風に思うのも『神のことを思わず、人間のことを思っている』からでしょうか。 ◆それこそ、説教の論理展開を追う人、論理・理屈で考える人は、私が全く矛盾していることを話しているのにお気付きかと思います。一方では、信仰は理屈ではなく、イエスさまを愛する思いであり、その思いは、イエスさまと一緒に過ごすことから生まれる、私たちの場合だと、聖書を読み、そこでイエスさまの言葉を聞き、礼拝を守ることが、愛と信仰を養うと申し上げました。それでいて、ペトロのイエスさまへの愛が、イエスさまの言葉を理解することを妨げ、信仰の決断を阻んでいると申しました。矛盾です。 しかし、私が勝手に矛盾させているのではなくて、この出来事が矛盾を孕んでいるのだと思います。 ペトロは、長い時間をイエスさまの傍らで過ごし、行動を共にし、愛と信仰が養われ、結果、『あなたはメシア、生ける神の子です』と告白しました。そのペトロに、初めて十字架と復活の出来事が示されました。秘密だったことが明らかにされました。神の国の秘密が授けられました。 しかし、この信仰告白を生み出した愛こそが、ペトロを躓かせたのです。 ◆24節。 … それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、 自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 … 23節と24節の繋がりが良く分かりません。あまり考えない方が良いような気がします。つまり、無理に繋げると、ペトロがイエスさまを諫め、十字架の出来事を隠そうとしたのは、ペトロ自身が十字架の出来事を回避したいのが理由だったと言うような妙な話になってしまいます。 続く25節に、 … 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが … とあります。これは、ペトロのことなのでしょうか。そうかも知れませんが、この話の強調は、そういうことにあるので歯なくて、イエスさまの十字架の必然性を説いているのだと思います。 21節から全部そうです。十字架の出来事を回避することは出来ないし、回避してはならないのです。 ◆また、文脈から外れて、文脈から切り離して、24節を観たいと思います。 『自分を捨て、自分の十字架を背負って』、私は、この言葉を『自分(だけ)の十字架を背負って』と読んでしまいます。人には、それぞれに担うべき十字架があります。逃れようとしても逃れられない十字架があります。 言葉の遊びではありません。『自分を捨て』なければ、『自分の十字架を背負って』歩き続けることは出来ません。『自分の十字架を背負って』歩き続ける人は、それが出来る人は、『自分を捨て』ています。 ◆ 『自分の十字架を背負って』を、或いは『自分(だけ)の十字架を背負って』を、自分に与えられた特別の課題、役割と受け止める人がいます。その通りだと思います。しかし、それは自分には特別な使命が与えられているから、他の人を切り捨てても良いとか、他の務めを放棄しても良いとかという意味ではありません。つまり、特権ではありません。むしろ逆です。自分の利益や、好みを捨てることが求められています。 ◆25節、特に後半を読みます。 『自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、 それを得る。』 少し乱暴な言い方に聞こえるかも知れませんが、いかがわしい新興宗教のご教祖様が言いそうな言葉です。信者に自己犠牲を強いる言葉に聞こえます。 しかし、この言葉の大前提を忘れてはなりません。もう一度21節を読みます。 … イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、 律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され … これが大前提です。そして、22節ももう一度読みます。 … ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。 「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」 … これが大前提です。イエスさまは、ご自分を慕う人に自己犠牲を強いているのではありません。むしろ逆です。この人々を救い出すためには、どうしても、ご自分が十字架に架けられなければならないと言っているのです。 多くのご教祖様や王、偽キリストとは真逆のことを説いているのです。 ◆26節。 … 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。 自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。 … この言葉を、イエスさま自身に当て嵌めて読んでも全く意味はありません。『人は』ですし、あくまでも私たち人間のことです。また、ここで『命を失』うとは、単なる肉体の死ではありません。神の国の命のことです。永遠の命のことです。 より具体的に言えば、ローマ帝国と神の国のことです。 ローマ帝国で市民権を得て、豊かに平和に暮らすことが出来たとしても、それは他国民、他民族の犠牲の上に成り立った偽りの平和であり、周辺諸国を略奪簒奪して得た、罪深い富でしかありません。もし、これを享受して疑問さえ持たないならば、その代わりには神の国の市民権を失うでしょう。 ◆27節。 … 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、 それぞれの行いに応じて報いるのである。 … 今この時の報酬が、一番大事なものではない、一番大事なことは、神の国に入ることが出来るかどうかだと言っています。 だからこそ、十字架を阻止しようとしたペトロは、『サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者』と叱られました。26節の言葉は、私たちにも向けられています。 |