日本基督教団 玉川平安教会

■2023年10月22日 説教映像

■説教題 「良い僕と悪い僕」

■聖書   マタイによる福音書 24章45〜51節 

     

◆聖書を読む時に、常に大事なこと、忘れてはならないことは、文脈を見ることです。文脈などと言いますと、大仰に聞こえるかも知れません。簡単に言えば、前後に何が述べられているかです。

 今日の箇所そして来週の箇所では、これが決定的に大事なことになります。

 前の箇所には、この世の終わり、終末について記されています。今日の箇所と来週の箇所とは、その続きであり、結論部です。更にその後は、25章14節以下になりますが、天国の譬えが記されています。


◆そのことからも、単純に言い切ることが出来ます。今日の箇所は、終末論であり、同時に神の国の話です。その二つが重ねて論じられています。

 そもそも、終末論と、神の国とは、同時に考える必要があります。どちらか片方だけだと、イエスさまの教えが歪められて読まれてしまう心配があります。

 今日の箇所は、終末論であり、同時に神の国の話だという前提で読んでまいりたいと思います。


◆45節。

  … 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、

  時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、

  いったいだれであろうか。 …

 かなり面倒臭い表現です。立ち止まって考えて読まなくては、意味が分かりません。一つずつ確認します。一番前と一番最後だけ読みます。

  … 「主人がその家の使用人たちの上に立て〜(た)、

  忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。 …

 この類いの譬えでは、『主人』とは神さまのことに決まっています。

 『使用人たちの上に立てて』とは、王や、貴族、軍人そして宗教的指導者のことでしょう。『使用人たち』とは、普通の国民のことでしょう。

 この解釈で読めば、良き王、良き指導者とはだれか、という話になります。

 教会に当て嵌めるならば、良き牧師とは誰かと言うことになりますでしょうか。


◆この良き王の務めは、45節だけで読みますと、

 『時間どおり彼らに食事を与え』る、となります。

 ここでは『時間どおり』が、特に強調されていますが、少し拡げれば、キチンと、となります。不自由なくとも言えましょう。

 これは王たる者の必須条件です。司馬遼太郎は『項羽と劉邦』等複数の作品の中で、人民の食料を確保することが王の一番大切な務めで、どれだけの食料を集められるかが王の力量だという意味のことを記しています。

 治水こそが領主の力量だと言う人もいますが、治水、結局は田畑の確保であり、つまりは、食料の確保でしょう。司馬遼太郎の説はもっともだと考えます。


◆今日の箇所の主題とは離れていきそうですが、このこと自体が大事なことだと考えます。『使用人たちの上に立』つ人とは、使用人たちのために、食料、これに象徴される生活を与えることが出来る人のことです。イエスさまはそのように仰っています。

 中世のキリスト教国家では、王権神授説と言って、王は神さまから、その権限を与えられていると主張しますが、それならば、より大事なことは、国民の生活を守ることこそが、王の務めであり、その務めのために、王は立てられているのです。

 

◆これは、旧約聖書以来の考え方です。

イスラエルでは、王と国民とは、契約を結びます。簡単に言えば、神によって立てられ、預言者によって油を塗られた王は、国民のために働くことを誓約します。そして国民は、王に逆らわず忠実に仕えることを約束します。

 どちらかが、約束を破れば、この契約は破綻します。


◆今日も、世界中のいたるところで、紛争、戦争が起きています。そして、多くの罪のない子どもたちが、餓えに苦しんでいます。命を落としています。子どもたちを餓えさせ、若者の命を奪う王は、その存在自体が否定されなければなりません。

 聖書は、イエスさまは、そのような王を立てられたのではありません。王の呼び名が、大統領でも首相でも同じことです。


◆このことも、教会に当て嵌めて読まなくてはなりません。

 教会は、教会員に、その信仰生活に必要なものを与えなければなりません。教会では、常にそうですが、食料・パンとは、聖書の御言葉のことです。時間どおりに、つまり、正しく、聖書の言葉を取り次ぐことこそが、教会の任務であり、牧師に要求されることです。逆に言えば、それ以外のことに、時間や心を奪われてはなりません。

 このことは、私の場合、正に我がこととして受け止め、従わなくてはならないことでしょう。反省させられます。

 牧師は書斎に籠もり、聖書を研究することが一番大切なことであり、牧師夫人の務めは、牧師が書斎から抜け出さないように、箒をもって見張ることだと言った神学者がいます。その通りかも知れません。牧師の間では常識的に言われることです。


◆しかし、私は、他の多くの牧師とは違い、学者ではありません。書斎に籠もって一日を過ごしても、どうも達成感がありません。一方、掃除とか、肉体労働をしますと、少しは神さまの御用をしたような気分になります。満足します。

 牧師が書斎に籠もる日とされる土曜日、私は大抵、掃除かその他の雑用をしています。書斎にいる時間も、多くは事務仕事に割いています。 … 反省が必要かも知れません。


◆46節。

  … 主人が帰って来たとき、

  言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。 …

 これは、勿論45節が大前提です。『言われたとおりにしている』とは、国民に生活の安全を提供出来ていると言うことです。

 国民の安全のためにと言って、戦争を指揮している大統領もいます。相手が相手だと、武力も必要なのかも知れません。しかし、その武力が必要になってしまったこと自体が、大統領の失策でしょう。もし、どうしても戦争が必要だったとしても、大威張りで神さまの前に立つことは出来ません。神さまの赦しを乞い、恥じながらなすべきことです。

 まして、牧師だったら、教会の中で紛争が起こること自体が、恥ずべきことです。

 教会総会で信任投票をして、僅か1票差で信任されたという話を聞いたことがあります。

 逆に、当然信任されるだろうと思っていたら、不信任になり、やむなく辞したという話も聞いたことがあります。

 しかし、信任だろうが不信任だろうが、そのような投票になったこと自体が、牧師としては、恥ずべきことです。


◆47節。

  … はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。 …

 当然です。有能ならば、より大きな責任が与えられます。しかし、誤解してはなりません。有能とは、『時間どおり彼らに食事を与え』ることです。勿論、この僕が自分で料理し食卓を整えるという意味ではないでしょう。結局は使用人たちが働くのでしょうが、管理するのは僕です。

 それが管理能力であり、『忠実で賢い僕』です。


◆48節。

  … 48:しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、

   49:仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。 …

 この『悪い僕』は、他の使用人とは、別格です。使用人の上にいて、彼らを支配しています。既に申しましたように、これを王であると解釈することが出来ましょう。

 ユダヤでは、王とは神によって選ばれた者であり、神に仕える者です。ここでは、王が、真の主人である神さまから、国を預かっているのにも拘わらず、国民に対し、暴君のように振る舞っています。真の主人が留守をする間、暴君のように振る舞っています。

 聖書中に似たような、譬喩が他にもあります。この僕を、教会の現実と重ねて見ることも可能でしょう。悲しいかな、教会史の現実でした。


◆20年ほど前、塩野七生(しおのななみ)さんの本が流行っていました。私も、読んで見ました。この本を読むと、もうたくさんというくらい、教会の歴史の、何とも、信じがたい程に、醜いことが描かれています。

 現実です。ローマ法王に、事実上の奥さんがいたり、それは良いとして、複数のお妾さんがいて、子供が何人もあったりします。それどころではありません。その子どもたちを、法王選出の選挙にも加わる枢機卿に据えたりしています。とても、信じられないようなことの連続です。このような問題は、今でも、完全に克服された訳ではありません。

 新興宗教では、これがむしろ当たり前です。いまも何件が同時に発生しています。跡目相続で揉めるのが、インチキ宗教である証拠です。


◆さて、他のことや、他の人のことではありません。自分のことをこそ、振り返って見なくてはなりません。そのためには、この譬え話のもう一つの側面を見なくてはなりません。

 それは、帰って来た主人が、裁きを行うという点です。

 そのことに注目すれば、この譬え話は、神の国の譬え話であることが分かります。

 つまり、主人が帰って来るとは、私たちが、この世の生命を終えて、天国に入ることと重なります。何時、その時が来るのか、誰にも分かりません。しかし、確実にその時は、近づいています。

 にも拘わらず、充分な備えが出来ていません。まだ、明日があるような気がしています。

 

◆この前提で、もう一度読み直して頂ければ合点が行くものと考えます。

 24章全体は、命の終わりというものをしっかりと見つめて、だからこそ、一日一日を充実して生きるということが、暗示されています。

 45節以下は、神の国の食卓のことでしょう。神さまに仕え、世の人々に仕え、日々のなすべき努めを果たして過ごした人には、神の国の食卓が待っています。

 49節は、45節から見た方が分かり易いでしょう。

 これは、限られた生命を思わず、放蕩に費やしてしまう者の生き方です。また、神さまから与えられた生命を、自分の持ち物のように錯覚している人の生き方です。毎日、楽しければ良い、そういう生き方は、突然に取り上げられて終わった時に、何も残りません。実に虚しいのものです。


◆虚しいだけではありません。

 『仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしている』とは、随分飛躍しているように聞こえますが、『主人は遅いと思い』、つまり、終末などに全く関心がない生き方、もっと言い方を変えれば、天国を思わない生き方は、ややもすれば、『仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだり』と描かれるような、無法で、暴力が支配する世界になってしまうと警告されています。単なる刹那的人生ではありません。

 神の国を思わない生き方は、刹那的であるばかりではありません。他人の命をも同様に考えます。だから、人を暴力的に支配すること、人の命を奪うことさえ、躊躇いません。

 多分、聖書が警告しているのはこのことです。これが、聖書の時代の現実でした。


◆他の機会にも申しました。ローマを理想視する人、特にその民主主義を礼賛する人がいますが、私には、全く頷けません。当時、自由市民1人に対して12人の奴隷が存在したと言われています。20人だと言う説もあります。自由市民1人に12人の奴隷がいて、何が民主主義でしょうか。 

 更に言うならば、ローマの経済・繁栄は、略奪で成り立っていました。理の当然で、国の外へ外へと向かいます。前線が延びます。兵士や食料を遠くまで運ばなくてはなりません。やがてコストが合わなくなります。必ず破綻の時が来ます。

 どんどん版図を拡げること、それによって成り立っている国は、やがて、それが原因で滅びを迎えます。実は、これも、司馬遼太郎の説です。


◆50〜51節。

  … もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、

  51:彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。

   そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 48節以下は、教会には当て嵌まらないと思えるでしょう。しかし、そうとも言えません。教会も、一番肝心なことを、つまり、神さまによって立てられていることを忘れると、同じ道を辿るでしょう。一番肝心なこととは何か、食卓を用意することです。御言葉の食卓を用意することです。それも『時間通り』に、つまり、正しい仕方で。