◆15節から順に読みます。 … それから、ファリサイ派の人々は出て行って、 どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 … 『言葉じりを捕えて』とあります。初めから、真摯に学ぶための問いではありません。論争でもありません。聞く気持ちは全くありません。このことは、ファリサイ派との問答を描いた記事に共通しています。所謂『論争物語』の類型に数えられる記事に共通しています。今日の15節以下も、23節以下もそうです。 ◆相手の言い分を聞く、それを受け止めて初めて、議論にも、論争にもなります。初めから聞く気持ちがないなら、これは、議論ではなく喧嘩です。或いは断罪であり、処分です。 にも拘わらず、『イエスの言葉じりをとらえて』、『言葉じりをとらえ』るために、『言葉じりをとらえ』るためだけに、聞きます。『言葉じりをとらえ』るためだからこそ、しっかり聞くでしょう。一言も聞き逃さないように聞くでしょう。失言を誘うためにこそ、一所懸命に聞くでしょう。 しかし、これを正しい意味では、聞くとは言いません。聞くとは、相手の言い分に耳を傾け、少しでも理解しようとすることです。 ファリサイ派は、正しい姿勢で聞くと言うことが出来なくなっています。それは、他の箇所から分かりますように、イエスさまへの嫉妬であり、憎しみの故です。 嫉妬に捕らえられた人、憎しみに固まった人は、表面、誰よりも必死に聞いているように見えますけれども、実は、何も聞いていないのです。 ◆一方で、『罠にかけようかと相談した』とあります。仲間内では、相談しています。協議しています。互いに相手の言葉を、言い分を、作戦を、ちゃんと聞いています。何という醜い仕業でしょう。 特定の人への憎しみのために、何人かが、知恵を合わせ、作戦を練っているのです。何という醜い心根でしょう。 ◆16節の前半。 … そして、その弟子たちを ヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。 … 見逃してしまいそうな、小さな表現ですが、『ヘロデ派の人々と一緒に』と記されています。これは決定的です。本来、ファリサイ派とヘロデ党とは、信仰的にも政治的にも、敵対関係にありました。しかし、イエスさま憎しで、今、結び着いたのです。何という醜い仕業でしょう。 人は、愛によって結び付くよりも、互いへの理解・共感によって結び付くよりも、共通の敵への憎しみによって結び付く方が、遥かに容易です。それが、人間の醜さです。そして、このような憎しみの感情で支配されている人は、その思いを、行動を、自分では醜いとは思いません。それこそが、人間の醜さです。 ◆勿論、憎しみで結ばれた関係は長持ちする筈がありません。共通の敵を追い落とすことに成功したら、もう、彼らを結び付けるものは、何もなくなってしまうからです。元々、他人を蹴落とす人々です。たちまち、仲違いし、争うようになるでしょう。 元々の憎悪から、真の理解、協力関係、まして愛が生まれる筈がありません。やはり、憎悪は憎悪という花を咲かせ、憎悪という実を付けます。 ◆16節の後半。 … 先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、 真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。 人々を分け隔てなさらないからです。 … これから罠に掛けようとする人間に対して、随分阿った言い回しです。 初代教会の編集の結果だという説もあります。つまり、信仰の対象であるイエスさまに対しての呼びかけであるために、悪党の言葉さえ、敬語になってしまうという解釈です。しかし、15節の『言葉じりをとらえて』、また、『罠に掛けようとして』というような前後の表現から見まして、わざとらしい阿りと取る方が自然と考えます。 彼らはこんなことが出来るのです。彼らはイエスさまを騙そうとしています。その彼らは、実は自分自身を騙しています。こんな醜い行動を、醜いとは考えられなくなっています。それは、自分で自分を欺した結果です。 ◆17節の後半。 … 皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、 適っていないでしょうか。 … この問は、巧妙な罠です。律法に適っていると答えて、占領軍であるローマに税金を納めることを容認すれば、当時の民衆の感情を損ねますし、逆に否定すれば、ローマに反逆する者だということになります。何れにしろ、イエスさまを批判する口実を与えることになってしまいます。 しかし、この陥し穽はファリサイの側にも口を開いています。もし「あなたはどう考えるか」と問い返されたなら、どのように答えるつもりなのでしょうか。ファリサイは、そのことに気が付いていません。 ◆人を議論に誘い込むために質問するならば、問い返されたら何と答えるかということを、念頭に置いていなくてはなりません。 ファリサイは、学問的に論争術を心得ています。このようなことは、本当は分かっている筈です。 しかし、罠を掛ける、そのことに夢中になると、冷静さを失い、自分自身にも、落とし穴を掘ってしまうのです。 ◆18〜19節。 … イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。 「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。 19:税金に納めるお金を見せなさい。」 … 先ず『悪意』、悪意です。イエスさまを陥れようとする悪意です。このような、悪意から何が生まれてくると言うのでしょうか。 彼らは、何かを作り上げるために、議論したいのではありません。イエスさまを殺すため、つまりは、何かを壊すためです。何かを壊すことに喜びを見出すのです。 ◆人間の中には、そのような思いがあります。本能と言っても良いでしょう。人間にとって、物を壊すのは、楽しいのです。 人を苦しめ、倒すのは、壊すのは、楽しいのです。 かなり多くのスポーツが、人間のこの破壊本能の上に立っているように思います。しかし、スポーツならばよろしいでしょう。ルールある戦いであり、人間の破壊本能、闘争本能の昇華と言えるかも知れません。 ◆『偽善』、マタイ福音書6章の偽善者と同じ字で、舞台の上に立って演技する者、俳優という言葉です。 今、ファリサイがイエスさまに問うているのは、演技に過ぎません。真に問うてはいません。本当に答えを知りたいとは思っていません。 ◆本当には答えを求めてはいないのに、イエスさまに聞いている。これは恐ろしいことです。もしかすると、私たちも、本当には答えを求めてはいないのに、イエスさまに聞いているかも知れません。例えばお祈りで。 勿論、私たちの場合は、罠に掛けようとして祈るのではありません。しかし、答えを求めてはいないのに、神に問い、聞くことは、実は恐ろしいことではないでしょうか。 昔の人は、うっかり不吉なことを口にした時に、「くわばらくわばら」と唱えて、これを取り消しました。「くわばらくわばら」は、菅原道真に由来する雷よけのおまじないだそうですが、実際には、雷よけではなく、災難、特に己が口から出た言葉が災難を招くのを避けるための、取り消しのおまじないです。 「くわばらくわばら」、その真逆はアーメンです。 何か、人を貶めるような、神を貶めるようなお祈りをしてしまったら、むしろ、「くわばらくわばら」です。アーメンと言ってしまったらおしまいです。 ◆19〜20節。 … 彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、 20:イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。 … これは、先程申しました「あなたはどう考えるか」と問い返すことに等しいと思います。彼等は質問する前に、とっくに自分の財布の中に答えを持っていました。 自分の財布の中に、カイザル即ちローマ皇帝の肖像が刻まれた金貨がちゃんと入っています。間違いなくローマの政治・経済の中に絡め取られていて、それなのに、ローマに税金を納めることの是非を、聞いています。初めから、本当に聞く気などありません。 自分の立っている場所、自分の立場を、踏まえていません。ごまかしているのです。 ◆21節。 … 彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。 「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」 … 本当に質問したいのなら、それが自分の実存を賭けての真摯な問いならば、先ず自分が本当には何処に立っているのかを明らかにしなければなりません。自分の軸足が固定していなければ、例え正しい答えが与えられ、進むべき方向が分かったとしても、そこから、右にも左にも前にも後ろにも進むことは出来ません。 ハンドルを回そうとしても、自分の方が回転してしまうでしょう。トルストイの『人生論』にそんなことが書いてあります。 ◆神さまについて・聖書についての一般の人々の問いは、おうおうにして、ファリサイの問いと重なるのではないでしょうか。必ずしも、陥れようとしてのものではないにしても、真に答えを期待する問いではない場合が多いのではないでしょうか。 それが例えば、東日本大震災の時でも同じです。個々の人間が、大きな不幸に出遭った時にも同じです。本当に心から叫ぶ声ならば、神さまは聞いて下さるでしょう。「何故こんな理不尽なことが起きるのか。神も仏もいないのか。」という叫びさえも聞いて下さるのではないでしょうか。本当に答えを求めての叫びならば。 大変な出来事だからこそ、真に答えを期待する問いでなくてはなりません。 ◆22節。 … 彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った … 流石にと言いますか、やっとと言いますか、ファリサイは、自分の矛盾、自分の立脚地のでたらめさに気が付きました。 しかし、往々にして、それに気が付かないで、なおも、イエスさまとの論争を続けようとする人々がいます。 偽善者とは、他人を騙すだけではなく、自分自身をも騙す人です。 ◆23節以下の問答も、15節以下と、全く同じ構造です。 … その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、 イエスに近寄って来て尋ねた。 … 23〜28節の問いは、ファリサイの質問と同様に、本当には答えを求めていない問です。彼等には確固として動かない立場があります。動くつもりは全くありません。 つまり、全く自分の姿勢を変えるつもりがない問いです。聞くつもりはありません。それでは問いとは言えません。次週の箇所ですから、次週詳しくお話ししたいと思います。 ◆ここで私たちも考えて見なくてはなりません。 自分が何処に立っているのかはっきりしない、はっきりさせないようでは、人生のハンドルをきることなど出来ません。方向を変えようと思えば、運転しようと思えば、車ではなくて、自分がグルグル回ってしまうでしょう。しかも、自分は全く姿勢を変えるつもりがないのでは、運転にはなりません。 ◆29節。 … イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、 思い違いをしている。 … 聖書を知らない、神の力を知らないと切り捨てられます。その通りでしょう。弁明の余地はありません。何しろ、本当には問う気持ちがないのです。答えを求めてなどいません。それこそが、『聖書も神の力も知らない』ということです。 聖書を、神を信じるとは、真摯に問い、答えを求めて、その答えを受け入れることです。 |