◆順に読みます。12節。 … それから、イエスは神殿の境内に入り、 そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、 両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された … 。 『人々を皆追い出し … 腰掛けを倒された』 およそイエスさまらしくない行動と見えます。この行為は、暴力の一歩手前です。人を傷付けたとか、物を壊したかとは記されていませんが、その寸前、暴力と紙一重です。 ◆柔和で優しい寛容なイエスさま、私たちが勝手にそう思いこんでいるだけで、或いは思いたいだけで、イエスさまにも激しい一面があったのかも知れません。それを思わせる場面はあります。ファリサイ派を相手にする時には、過激とも言える激しい言葉使いをされることもあります。 しかし、不可解ではあります。聖書の他の箇所と比べて、イエスさまのお姿に、あまりにも違和感があります。 ペトロは何かしら思う所があったのでしょう。イエスさまに質問しました。 … 主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回まで ですか。 … イエスさまは応えられます。 … 七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。 … 逮捕に来た兵士に、ペトロが切りつけると、 … 剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。… と仰いました。これが私たちが知る普段のイエスさまです。 この違和感を埋めるために、丁寧に読まなくてはなりません。 ◆12節。 … そこで売り買いをしていた人々を … とあります。エルサレム神殿という神聖な場所で商売をしていた、ということでしょう。 しかし、それには事情、状況があります。この時代全ユダヤ人の90%は、海外に暮らしていた言われています。これらの人が、それこそ篤い信仰心の故に、時間もお金も費やして、エルサレムへ神殿詣でにやって来ます。 ところが、そこで献げる動物を、生まれ故郷から牽いてくることは不可能ですかすら、神殿の近くで買い求めることになります。また、ローマや他の国のお金は、汚れているとされていました。献金にふさわしくないので、ユダヤの貨幣に両替して貰います。その結果、神殿近くや、一部神殿の庭にまで、お店が並ぶことになってしまいました。 これを一概に悪と決め付けることは出来ないでしょう。しかし、イエスさまは、全く悪と決め付けるかのような言動を取られたのです。 何故でしょう。慎重に読んで、考える必要があります。 ◆13節。 … そして言われた。「こう書いてある。 『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』 ところが、あなたたちは、それを強盗の巣にしている。」 … エルサレム神殿での祭儀には必要欠くべからざるものなのに、イエスさまは、それを商う人々を、『強盗』と呼びました。多くの信者が群がる場所を『強盗の巣』と言いました。 私たちは、非常な抵抗を覚えながらも、この言葉を受け止めなければならないでしょう。何しろ、イエスさまのお言葉なのですから。 ◆慎重に見て、考える必要があると申しました。それは、歴史的な背景などを考慮して、ここに記されていないことまで読み取るという意味ではありません。実際には、何が書かれているか、これを見ることです。 先ずは、『祈りの家と呼ばれるべきである。』 当時のエルサレム神殿の現実は、祈りの家ではなかったのです。 先ほど申しましたように、犠牲・捧げ物にされる動物が売られていたこと、両替商が商売していたことを、そのまま悪と決め付けることは出来ません。むしろ是非必要なものです。誰かが、その働きをしなくては、神殿礼拝が成り立ちません。 ◆しかし、彼らは神殿礼拝のためにそのような働きをしていたのでしょうか。それはないでしょう。彼らは単に金儲けをしていただけです。 エルサレム神殿を詣でる人はどうだったでしょう。篤い信仰心から、長い旅をしてきたのでしょうか。一人ひとりの心の中までは分かりません。 しかし、篤い信仰心を抱いていた人は、神殿の前に沢山の店が並び、大勢の人々が群がっている光景をどのように見たのでしょうか。多分、土産物屋まであったのではないでしょうか。根拠はありませんが、日本の有名な・人気のある寺社と同じだろうと想像します。 日本の寺社では門前町が出来、そこには遊女を置く店まであります。 エルサレム神殿にも、神殿娼婦や男娼までいたようです。篤い信仰心を抱いていた人と申しましたが、彼らは同時に、土産物を買い、遊女を買う人でもあります。 ◆もう一つのことが指摘されています。 … ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている。 … 『強盗の巣』、何とも強い非難です。 日本でも、おうおう、寺社の門前が、『強盗の巣』になります。江戸時代、寺社は寺社奉行の管轄で、町奉行は手を出せませんでした。聖域・サンクチュアリです。かの大岡越前守も、例外的に長く町奉行を務め、今日で言えば、都知事と警察庁長官、検察庁長官を兼務しているような権威・権限があった人ですが、それでも門前町の遊女屋や博打場は取り締まりできなかったそうです。これは権威のある人が書いた歴史書で読みました。 晩年、大岡越前守は前後に例がないような高齢で、寺社奉行の職に就きます。これには、相当の理由があったのでしょう。取り締まりしたかったのかも知れません。しかし、上手くはいかなかったようです。 それほどに、古今、宗教の権威は強く、時の為政者に対しても独立的な権限を持ちます。 しかし、その権限はろくなことに用いられないようです。ヨーロッパからなら、大勢の妾と子どもがいたローマ法王初め、日本からでも、30人子どもがいた巨大仏教宗団を初め、無数の実例を挙げることが出来ます。彼らは、信仰の名の下に、大勢の若者を戦場に送った人でもあります。 イエスさまが蹴倒したかったのは、このような偽善、偽信仰ではなかったかと考えます。 ◆14節。 … 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、 イエスはこれらの人々をいやされた。 … 12〜13節と14節のギャップに注目しなくてはなりません。12〜13節の反対の極みが14節なのです。 イエスさまの、他に例を見ないようなパフォーマンスが目立ち、その結果隠れてしまいそうになりますが、今日の箇所の肝心なことは、ここにあると思います。 『目の見えない人や足の不自由な人たち』は、律法の規定によれば、神殿の中に入って礼拝することが許されません。 彼らは神殿の外庭にいて、多分、物乞いをしていました。しかし、その行為を、イエスさまは『強盗の巣にしている』とは仰いません。 それどころか、『目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、イエスはこれらの人々をいやされた』。彼らを受け入れ、そして癒やされたのです。 これこそが、『祈りの家』ということでしょう。これこそが、教会のあるべき姿でしょう。イエスさまが立てられた、教会の姿でしょう。 ◆『祈りの家』とは、信じる者が、体に傷を負った者が、心に傷を負った者が、救いを求めて祈る場所です。神殿の中に入って礼拝することが許されず、神殿の外庭にいて、物乞いしていた人こそが、救いを求めて祈る人であり、彼にとってこそ、エルサレム神殿は、『祈りの家』だったのです。礼拝堂の外に置かれながら、黒人霊歌を歌った人のように。 一方着飾ってやって来て、誇らしげに礼拝し、自慢話をお土産に、元の国へと帰って行く参拝者たちは、本当に『祈りの家』を求めていたのかと、問われているのです。 このことは、初詣の景色を見れば頷けることです。 ◆無駄と承知で言わなくてはなりません。今申し上げたことは、教会が神癒を行う場所だという意味ではありません。 私はある牧師から、「あなたはこれまで何人の人を癒やしましたか」と、真顔で聞かれたことがあります。「そんなことは一度も、一人もありません。」と答えると、彼は「あなたは牧師ではない」と、責めました。 神癒がインチキだとは断言できません。何しろ一度も見たことがありません。しかし、それが牧師の働きだと言われれば、反発しないではいられません。そして、このように言いたいと思います。 「損に神癒が大事なら、せいぜいなさったらよろしいでしょう。頑張って下さい。一人でも多くの人を、癒やして下さい。救って下さい。勿論無償で。効果があると主張しながら、それに全力投球していないのは、どうしてですか」 最も、日本では、医師免許を持たない人が医療行為をすることは、つまり、人の病を癒やすことは禁じられています。 ◆大分寄り道でした。元に戻ります。15節。 … 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、 境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て … 『イエスがなさった不思議な業を見 … 腹を立て』とあります。真の信仰を持たずに形式ばかりに目が向くと、こういうことになります。『イエスがなさった不思議な業を見』たのに、感謝でも、驚きでさえもなく、『腹を立て』たのです。 山本周五郎の『赤ひげ』に、そんな場面があります。蘭学の知識を持って貧しい庶民をも分け隔てなく治療する『赤ひげ』は、既得権をもったお医者さん方に、嫌われ、迫害さえ受けます。 彼らは、古色蒼然たる医学に拘泥しています。それ以上に、自分の身分、実入りに拘泥しています。彼らは、貧しい民を顧みることはありません。彼らの視野には、立身出世と金儲けしかありません。 イエスさまが、普段のイエスさまらしくない、乱暴とも言える仕方で破壊されたのは、この偽善ではないでしょうか。形骸に堕ちた信仰ではないでしょうか。 何ですか、この頃、教会は形にばかり拘っているように見えます。洗練された礼拝と言えば聞こえは良いのですが、それが一番肝心なことでしょうか。 ◆ここでも、無駄なことを言わなくてはなりません。 貧しい民を顧みるとは、手かざしのようなインチキな仕方で、病気の人を診ることではありません。一昔前フィリピンで、何と教会を舞台にして、インチキながんの手術が行われたことがありました。癌患者の患部に手を当て、まじないめいたことを言い、何やら、内臓のようなものを取り出します。それが癌だと言います。お腹には、傷一つありません。 このインチキ手術を受けるために何千万と支払った人がいました。 後に暴露されましたが、これは豚の内臓でしかありませんでした。 手かざしを主張する人は、10中89は単に詐欺でしょう。そうではない人もいるかも知れませんが、その結果、正しい手当が遅れる懸念があります。直ちに止めるべきでしょう。少なくとも、それで報酬を貰ったら、犯罪です。 ◆かつてローマカトリックの修道院では、それこそ医者に見て貰えないような人々を、無償で収容し治療しました。現在でも続いています。 この治療は、その時々では、最も新しい、科学的な根拠に基づいた治療でした。当時としては最新の医学的知識に基づいた治療が行われていました。 手かざしを主張する人は、ちゃんと病院を建てて、医師・看護師を迎えて、その業に当たるべきでしょう。 ◆16節。 … イエスは言われた。「聞こえる。あなたたちこそ、 『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』という言葉を まだ読んだことがないのか。」 … 私たちに求められているものも同じです。高度に整えられた祈りの言葉だとか、美しい讃美とかではありません。『幼子や乳飲み子の』それです。飾らない、ただ心からの祈り讃美です。 ◆イエスさまは、乱暴と見えるような言動を取られました。その意味はここにこそあります。偽物を廃し、本物が見えるようにしただけのことです。 |