日本基督教団 玉川平安教会

■2023年10月29日 説教映像

■説教題 「愚かなおとめたちは」

■聖書   マタイによる福音書 25章1〜13節 

     

◆1節から読みます。

  … 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。

   十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 …

 あくまでも譬え話です。実際にこのような出来事があったのではありません。しかし、これに類したことが、つまり、譬え話の舞台設定となる、集団結婚や花嫁が花婿を迎える習慣のようなことがあったのでしょうか。はっきりとは、分かりません。

 実際にあったと言う人もいます。アメリカの開拓期には、似たようなことがあったようです。これを元にした映画もあります。現代のアメリカでも流行のようです。


◆しかし、アメリカの開拓期にあったからと言って、イエスさまの時代に行われていた証拠にはなりません。

 そんなことはなかったと言う人もいます。確かにあり得ないと思われる設定です。しかし、全くあり得ない話ならば、譬え話として通じないでしょう。何かしら、当時の読者が違和感を持たないような事実があったのだと考えます。

 ユダヤの結婚式が、夜に執り行われたことは、事実として、伝えられています。


◆何だか分かり難い譬え話のように聞こえますが、一方で『天の国は次のようにたとえられる』と明言されています。これは天国の譬えです。それが、この譬えを読み解く最大の手掛かりです。 2節。

  … そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 … あくまでも譬え話ではありますが、愚かな花嫁と賢い花嫁とがいます。両側に分けられています。

 これが天国の譬えだという前提を忘れないで読むならば、10人とも、愚かな花嫁と賢い花嫁も、花婿を待つように、天国を待っています。10人ともです。

 しかし、それでも愚かな花嫁と賢い花嫁とに分けられてしまいます。


◆この両者を分けるものは何かが、3・4節に記されています。

  … 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

  賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。…  同じように待っているのですが、備えが違います。

 『油の用意をして』いた賢いおとめたちは、花婿が遅れる場合に備えています。愚かな乙女たちには、その備えがありません。

 

◆少し寄り道かも知れませんが、これはマタイの教会の事情を反映していると思います。初代教会の信仰者たちは、終末を、時間的にも切迫したものと考えていました。今日明日にも来るかも知れないと考えていました。

 それが遅延しています。丁度花婿が遅れているように、終末はなかなか来ません。その間にも、信仰の仲間が亡くなってしまいます。終末に間に合わなかったとも言えます。初代教会の人は、熱心で素朴な信仰を持っていて、生きて神の国に入れられると考えていました。ですから、終末を待たずに亡くなった人はどうなるのだろう、天国にいけるのだろうかと、真剣に心配しました。そういうことがパウロ書簡にも記されています。


◆待つことは辛いものです。楽しいことを待つのでさえ、なかなか大変です。「もう幾つ寝るとお正月」と歌いますが、何日経てばお正月になるかは分かっています。これが何月何日かは分からないと、待つのは、一層辛くなります。楽しいことでさえそうです。

 終末は、神の裁きの時です。日頃の行いに、余程自信がある人でも、不安でしょう。普通の人にとっては、楽しみよりも、不安が勝ります。その日が何時来るのか、はっきりしないとなると、余計に不安になります。


◆5節に戻ります。

  … ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。…  『皆』です。賢いおとめたちも愚かな乙女たちも、全員です。

 それほど花婿の到着は遅れていました。つまり、終末は遅れていました。

 福音書中でも繰り返される『眼を覚まして祈っていなさい』とは、ここでは言われません。それほど遅れていたことになります。

 譬え話なのに、ちょっと解釈が過ぎるかも知れませんが、待っている時に、眠ってしまうことは罪ではありません。人間は、睡魔には勝てません。

 それでは繰り返し言われる『眼を覚まして祈っていなさい』とは、どういう意味なのか、それに触れていると大変な脱線になりますので、簡単に答えだけ言いますと、『眼を覚まして祈っていなさい』とは、徹夜でお祈りしなさいと言う意味ではありません。

 常に心構えを持っていなさいということです。つまり、この譬え話と同じ結論です。


◆6節。

  … 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。…

 『真夜中』とは、その備えがない時を意味します。『眼を覚まして祈っていなさい』と言われても、人間には、睡眠が必要です。一晩二晩ならともかく、ずっと寝ずに起きていることは不可能です。だからこそ、普段の備えが必要になります。

 3.11の後、『教団新報』の取材で、被災地を訪ねました。盛岡近郊の温泉宿にいた夜、震度5強の余震がありました。

 一緒の部屋の3人とも、寝間着ではなく、日中の格好でしたから、直ぐに起き、枕元の防災グッズを手にすることが出来、宿の外に避難しました。

 旅の4日目くらいで、それまではテントに泊まったりしていましたから、温泉が嬉しくて、何度も、たっぷりと浸かりましたが、もし、風呂に入っている間の地震だったらと、ぞっとしました。


◆今年はあちこちで頻繁に地震が起こります。その度に、迫り来る大地震に必要な、最低限の防災用品を備えなくては思いますが、翌日には忘れてしまいます。

 懐中電灯の電池が生きているかどうかさえ、怪しいものです。 7節。

  … そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 … おとめたちは、10人共に、懐中電灯は持っていました。備えがありました。 8節。

  … 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。

   わたしたちのともし火は消えそうです。』 …

 愚かなおとめたちは、懐中電灯は持っていましたが、電池が切れていました。


◆9節。

  … 賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。

   それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 …

 『分けてあげるほどはありません』とは、ちょっと対応が冷たいような気がします。しかし、これが現実ならば仕方がありません。余分な油はありません。


◆10節。

  … 愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、

   用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 …

 『戸が閉められた』のは、理不尽な気がします。

 遅れたのは花婿です。遅れたことについては、乙女たちに何ら落ち度がありません。それなのに冷たいと思いますし、遅れた花婿はどう対処したのでしょう。こんな冷たい花婿ならば、結婚しなくて却って良かったとさえ思います。

 これは譬え話の限界です。この譬え話に、そのような観点はありません。話し手の意図にないことを探ろうとしても無理があります。まして、冷たいと批判しても仕方がありません。そういう譬え話です。


◆11節。

  … その後で、ほかのおとめたちも来て、

  『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 …

 ちょっと分かり難いのですが、先ず、油を買いに行った乙女の一人が帰って来て、その後に他の4人も帰って来たということでしょう。確かに、夜も遅くなってから、油屋さんか、もしかしたら普通の家を訪ねて、油を分けて下さいとやっていたら、時間もかかるし、一軒で間に合わなければ、数件当たらなくてはなりません。5人一緒にはならないでしょう。妙に細かい表現です。


◆この辺りが、譬え話です。何もかも詳しく描いていたら、短い、要点を伝える文章にはなりません。無駄を省き、本当に必要なことだけを残すのが、比喩です。

 逆に言えば、記されていることは、全部、最低限伝えなくては物語が、意味をなさないほどの重要事です。

 としますと、時間差を記した、この妙に細かい表現も、決して些末なことではないでしょう。終末、そして、天国に入るのに、時間差があると言っているのかも知れません。

 10組が同時に結婚式を挙げるという不思議な話の中で、結果的には時間差が出来ます。とても興味深いと、私などは考えてしまいます。

 しかし、この僅かなヒントを、これ以上膨らます必要はないでしょう。


◆12節。

 …しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。…

 遅れたのは、花婿の方です。油が切れたのは不用意だったかも知れませんが、それにしても、自分の方に落ち度があるのに、酷い仕打ちだと、思ってしまいます。

 また、厳密には、閉め出したのは花婿ではありません。結婚式場となる家の主人です。

 この主人が、神の国の主人、つまり、神さまを比喩していることは間違いありません。

 随分厳しい仕打ちです。不当だと言ったら、罰当たりでしょうか。


◆13節。

  … だから、目を覚ましていなさい。

  あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。 …

 『目を覚ましていなさい』と繰り返されている言葉は、この譬えでは当て嵌まらないと何度も繰り返し、申しました。

 5節には、『皆眠気がさして眠り込んでしまった』と記されています。大雑把な粗筋だけ記している譬え話の中で、妙に細かく、『皆眠気がさして眠り込んでしまった』と記されています。愚かな乙女も、賢い乙女も、『皆眠気がさして眠り込んでしまった』と記されています。

 しかし、ここで改めて、『目を覚ましていなさい』と言われます。その理由は、『あなたがたは、その日、その時を知らないのだから』です。


◆『その日、その時を知らないのだから』こそ、ずっと起きていることは出来ないと、私たちは思います。人間は眠らないと健康を損ねます。

 初代教会と言うよりは、もう少し後かも知れませんが、暗黒の時代と言われる西欧の500年から後の時代、教会の中に難行苦行が流行りました。仙人みたいな生活をする人が出ました。その中には、自らの体を鞭打つ行をする人がいました。鞭打ち教徒と言われます。また、眠らない行をする人がいました。人間、三日も眠らないと、尋常の精神状態ではいられなくなります。幻覚を見たりします。それを神秘的な境地に入ったと誤解する人がいたようです。その果てにあるのは、狂気です。

 現代で言えば、薬物中毒でしょう。音楽や絵画の世界で、幻覚剤に頼る人がいることが指摘されていますが、眠らない行も同じことになります。


◆『皆眠気がさして眠り込んでしまった』と述べられている、つまり、人間の現実をちゃんと踏まえている同じ譬え話の中で、改めて、『目を覚ましていなさい』と言われます。

 ですから、『目を覚ましていなさい』とは、肉体的な覚醒のことではなく、精神的・信仰的な意味合いだと解釈出来ます。

 これは、ゲッセマネの園で、ペトロたち3人の弟子が、『私のために祈っていない』と言われていながら、3度眠りこけてしまったことにも通じます。聖書は、人間の肉体の弱さを知っています。決して出来もしないこと、難行・苦行を勧めているのではありません。


◆『目を覚ましていなさい』は無理です。「目を覚ましなさい」なら、良く分かります。そして頷けます。勝手に聖書の言葉を書き換えることは出来ませんが、意味合いとしては、むしろ「目を覚ましなさい」でしょう。

 本当に大事なことを待っている時には、不思議と眼が覚めます。目覚ましが鳴っても、声を掛けられても聞こえないということはありません。間違いなく目覚めてしまいます。

 より具体的な話をします。出来たら、悲惨な事故とかではなく、もだえ苦しんだ果てではなく、眠るように息を引き取りたいものです。

 私たちは愚かなおとめたちかも知れません。しかし、はっと目覚めたら、天国にいたいものです。愚かなおとめたちは、最終的に、天国に入れたのかどうか、ここには記されていません。愚かであっても、入れて貰えたらと願うのは、罪深いことでしょうか。