日本基督教団 玉川平安教会

■2023年10月15日 説教映像

■説教題 「徒に信じてはならない」

■聖書   マタイによる福音書 24章15〜35節 

     

◆大変に難しい、解釈がややこしい所です。そこで、聖書研究じみますが、先ずは、一節づつ順に読みたいと思います。15節。

  … 預言者ダニエルの言った憎むべき破壊者が、聖なる場所に立つのを見たら …

 その該当箇所は、ダニエル9章26節になります。

  … その六十二週の後にメシヤは断たれるでしょう。

  ただし自分のためにではありません。またきたるべき君の民は、

  町と聖所とを滅ぼすでしょう。その終りは洪水のように臨むでしょう。

  そしてその終りまで戦争が続き、荒廃は定められています。 …


◆この引用だけでも分かりますが、マタイ24章全体が、ダニエル書の終末預言の強い影響下にあります。

 マタイ24章が言及しているのは、紀元40年に、ポンテオ・ピラトによって建てられたローマ皇帝カリギュラの像のことかと思われます。主の十字架の後、間もなくです。

 ダニエル書の預言が今、正に現実になろうとしています。

 『聖なる場所』とは、エルサレム神殿の境内です。律法でも預言書でも、徹底して退けられている偶像が、エルサレム神殿の中に建てられ、崇拝の対象となっていました。実は、イスラエルの歴史を通じて、エルサレム神殿の境内に偶像があった期間の方が長いのです。


◆16節。

  … そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。 …

 『山に逃げなさい』とは、エルサレムの都に逃げ入ってはならないとの意味でしょう。マカベア時代には、山に逃げてゲリラ戦を展開したことが、Tマカベア書2章28節に見えます。その反映でしょう。しかし、ゲリラ戦を勧めているというように読む必要はありません。一番簡単に読めば、ローマがエルサレムに攻め入ってくるから、都こそが危ないと言うことです。

 諸外国の歴史を観ても、お城が安全ではありません。むしろ一番危険です。攻めて来る的も怖いでしょうが、もっと恐ろしいのは、結局、城内の兵の人質とされることです。


◆17節。

  … 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。 …

 以前読みましたように、当時、庶民の住宅は軒を連ね、屋上から屋上へと伝い歩くことが可能であり、上の道と呼ばれていました。

 『下に降りてはならない』とは、屋上を伝って逃げよと言う意味でしょうか。それとも、家に入るなという意味でしょうか。


◆18節。

  … 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。 …

 『畑にいる』とは、日常の営みの象徴です。『屋上にいる』も同様です。その日常が突然絶たれることを表現しています。

 逆に言いますと、突然として起こる訳で、何日か前からその兆候を見て、備えられるようなものではないということになります。

 私たち日本人から観れば、大地震のようなものです。いつかは必ず起こります。しかし、何時とは知れません。


◆19節。

  … それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 …

 『それらの日』とは、旧約以来の終わりの日=主の日=その日の踏襲ですが、複数形になっているのは、試練が続くという意味でしょう。ユダヤ戦争即ち終末ではないと、強調されています。戦争は起こるけれども、それが即ち終末ではありません。


◆20〜21節は、ダニエル11章1〜2節を参照した方が良さそうです。

  … 1:その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。

   その時まで、苦難が続く。国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。

   しかし、その時には救われるであろう。お前の民、あの書に記された人々は。

   2:多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。

   ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 …

 既に申しましたように、マタイ福音書24章の全体がダニエル書の影響下にあります。ダニエルが預言しているのは、究極、試練の後の救いです。マタイ福音書を読む時にも、苑ことを忘れてはなりません。


◆20節の。『冬に起こらないように』とは、上着を取りに帰る間もなく逃げ出さなければならないから寒さが堪えるということです。

 また、冬は食料を得るのが困難になると言う説、ワジ=枯れ川が潅水して、歩いては渡れなくなると言う説があります。その全部かも知れません。


◆21〜22節。

  … そのときには、世界の初めから今までなく、

  今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。 …

   神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。

  しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。 …

 ここもややこしいことは忘れて、一番簡単に読めば、試練・苦難の時は避けられないが、耐えれば、神さまは必ず救いの道を備えて下さると言っています。

 終末なんてものは、教会の脅しで、そんなものは来ないと言う人がいますが、それは聖書とは違います。信じれば、努力すれば、自分だけは滅びを免れられると言う人がいますが、それは聖書とは違います。


◆23節。

  … そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、

   信じてはならない。

 終末の苦難時代には、自分をキリスト、すなわち約束されたメシアであると自称する者が現れます。政情不安な混乱期には、「偽キリスト」が出現します。イエスさまの時代には何百人もの、偽キリストが現れたそうです。そうして、若者を戦場へと駆りたてました。


◆24節。

  … 偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、

   できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。 …

 『しるし』、超自然力によって起こる奇跡的出来事を指す語です。

 人間の側から見れば「不思議な業」ですが、このような異常な業が起こるということは、その背後に超自然的な力が存在するのであり、神が歴史の中に入って来られるしるしと受け止められました。

 ここで注意すべきことがあります。偽キリストは奇蹟を起こす力がないとは言っていません。印と奇蹟を、確かに起こします。しかし、マタイ福音書に従うならば、それは、キリストの証明ではなくて、偽キリストの証明なのです。

 偽キリストは雄弁で、人々には奇跡と映る不思議な力を持っているのです。


◆アモス8章9節。

  … その日が来ると、と主なる神は言われる。

  わたしは真昼に太陽を沈ませ白昼に大地を闇とする。 …

 イザヤ13章10節。

  … 天のもろもろの星とその星座は光を放たず

  太陽は昇っても闇に閉ざされ月も光を輝かさない。 …

 エゼキエル32章7節。

  … おまえが消え失せるときわたしは空を覆い、星を暗くする。 …

 預言書に見える似たような表現です。

 いろいろ引用致しましたのは、終末の情景はマタイ福音書の創造物ではないということを知って頂くためです。逆に言えば、マタイ福音書24章を読むためには、旧約の預言者の思想を踏まえなければなりません。つまり、神の裁きと救いが主題であって、ノストラダムスの大予言の類ではありません。


◆25〜26節。

  …  25:あなたがたには前もって言っておく。

  26:だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。

   また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。 …

 『メシアは荒れ野にいる』とは、ローマに対する反乱軍を組織しているという意味かと思います。『奥の部屋にいる』とは、隠れたところで秘密結社を作っていると言う意味でしょうか。そんなことが、現実にありました。ユダヤ人たちは、繰り返しローマと戦いました。しかも、相当に善戦しています。しかし、結局は敗北し、致命的な傷を負います。


◆27〜28節。

  … 27:稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子も来るからである。

  28:死体のある所には、はげ鷹が集まるものだ。 …

 27節は、単純に、終末は突然としてやって来るということでしょう。光の速さでやって来ます。

 28節は、正直良く分かりません。当時の諺でしょう。単純に、今は、累々と死体が横たわり、『はげ鷹が集まる』時代だと言っているのでしょう。

◆以上、聖書研究的に、概観致しました。このことを踏まえて、肝心な点をもう一度、確認致したいと思います。

 先ず、終末は必ず起こります。それは避けられないことです。終末とは人間の歴史に、直截神さまが介入されるということです。異端的な諸教派は終末終末と強調します。終末のことがあるから、世間の人はキリスト教をまがまがしいものと見ます。

 正直、終末を語ることは避けて通りたいような気が致します。しかし、終末の裁き、神の裁きを否定したら、救いはありません。

 誰でも神さまの優しい愛の言葉を聞きたいでしょう。聖書にはそういう聖句が無数にあります。神の愛だけを語っていても、礼拝は成り立ちます。牧師もそれを語りたいと思います。その方が、教会員に喜んで貰えるし、礼拝に出席する人が増えるかも知れません。

 しかし、神の裁きこそが、究極の救いにつながるのです。否、神の裁きの言葉こそが、救いの言葉なのです。


◆聖書、特に預言書は、繰り返し裁きを語ります。しかし、お読みいただければお分かりのように、厳しい裁きこそが、神の救いについて、神の愛について語っているのです。

 愛の反対にあるものは何でしょうか。憎しみでしょうか。そうかも知れません。しかし、憎しみは愛の裏返しという見方もあります。「愛と憎しみは同じ種から芽生える」という言葉もあります。初代教会の聖人の言葉だそうです。

 愛の反対にあるものは、無関心だと言う人もいます。マザー・テレサの言葉として知られているかも知れませんが、シモーヌ・ヴェーユの『重力と恩寵』にあります。

 どちらの説が正しいかは分かりませんが、聖書が言うのは、神の裁きの言葉は、神さまが人間を見放してはいないという証拠です。

 

◆もう一つ確認して置きたいことは、偽キリストの登場です。これを退けること、偽キリスト=偶像を退けることが、即ち、聖書流に言うならば、正しい道に立つことであり、神の救いに預かることです。

 聖書には、信じなさいという言葉に匹敵するくらい、むしろそれ以上に、信じるなという言葉が頻出します。偽キリスト=偶像を退けることは、つまり、真の神を信ずることです。妥協してはなりません。初代のクリスチャンは、無神論者だと批判されました。様々な偶像について、これは神ではない、あれも神ではないと言ったからです。

                                          

◆最後に、短く申しますが、実はこれが一番肝心なことです。何時かは必ず来る終末が使徒言行録にも語られていますが、反面、終末は、既に到来している事柄として描かれています。福音書特にマルコにも、そのような表現が観られます。

 終末の時代は、主の十字架とともに、既に来ています。私たちは、今、終末の時代を生きています。だからこそ、私たちは、何時どんな形で終末が来るのかという関心ではなくて、まさしく終末のこの時代を如何に生きるか、と考えるのです。

 聖書が教えているのは、終末に備えることではなくて、終末に生きることです。


◆ブルトマンという学者は、個々人の死と、終末とを重ねています。終末論として正しいかどうかはともかく、頷けます。私たちは、誰もが、終末の時を生きています。人は誕生したその瞬間から死に定められています。生きることと死ぬこととは、「同じ種から芽生えた」ものです。また、聖書の信仰に立つならば、死こそが、天国への種蒔きです。