日本基督教団 玉川平安教会

■2023年9月24日 説教映像

■説教題 「白く塗った墓にも似て」

■聖書   マタイによる福音書 23章23〜28節

     

◆23章全体が、ファリサイ派批判で貫かれた一つの主題になっていますが、話があまり拡がらないように、23節から28節までに限定して読みます。23節。

  … 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。

   薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、

   誠実はないがしろにしているからだ。…

 毎日少しずつ、『ユダヤ人』という本など、イスラエル史を読んでいます。30年近く昔に読んだものを、読み返しています。この本は、かなり徹底して、ユダヤ人とその歴史を高く評価する本です。確かに著者の言うように、ユダヤ人は正しく評価されていないようです。過小評価どころか、誤解と偏見に充ち満ちていて、根拠のない差別に曝され、恐怖の対象にさえなっています。何故そうなったのかと、分析し、ユダヤ人の名誉を回復すべく訴えるのが、この本の執筆動機かと思われます。


◆その中に、使徒パウロを批判する件がありまして、パウロの神学は、ユダヤ人の優れた哲学者アレキサンドリアのヒィロンの剽窃でしかないようなことを述べています。キリスト教そのものを、ユダヤ教という根に生えた寄生植物でしかないような言い分です。

 そして、ファリサイ派を高く評価しています。 

 そこには一面の真理がありまして、私たちキリスト者は、実際以上にユダヤ教や特にファリサイ派を批判的に見ているのかも知れません。歴史的な事実関係は、不明なところが多く、この本に全く賛成は出来ませんが、しかし、全く退けることも出来ないようです。


◆多分、無駄なことを話しています。大無駄かも知れません。教会の牧師が、説教の中で、ユダヤ教や、まして新約聖書中鋭く批判されているファリサイ派の肩を持つ必要もないでしょう。無駄を承知でお話ししているのは、ファリサイ派の何がいけないのか、何が批判されているのかを明らかにするためです。それは、きっと、私たちの信仰のあり方、教会の姿勢を正す上で必要だと考えるからです。

 

◆もう一度、23節を読みます。

  … 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。

   薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、

   誠実はないがしろにしているからだ。…

 乱暴に言えば、これがファリサイ派の現実であるかどうかは、関係ありません。ファリサイ派の何が批判されているかを、聞かなくてはなりません。

 それを教会に置き換えれば、礼拝はちゃんと守っているが、『最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている』、これが批判点、批判の要点です。

 そして、私たちは、この言葉を、ファリサイ派批判としてよりも、私たちに語られている言葉、警告として聞かなくてはなりません。

 礼拝だけを守っていても、その礼拝の形が整っていたとしても、もっと重要なことを忘れてはいないか、ないがしろにしてはいないかと、問うています。私たちは、これを聞いて自分の信仰姿勢を振り返らなければなりません。


◆最新の教団年鑑を見ますと、教団の多くの教会は、礼拝出席を初め、献金額など、軒並数字を下げています。大多数の教会と言っても大げさではありません。半分以下、3分の1以下の教会も少なくありません。コロナの影響もあります。しかし、それ以前から、教勢の低下は予想されていました。その時が少し早く来ただけかも知れません。

 その中で、私たちの教会は、数字を下げることなく、頑張っているかも知れません。感謝すべきことでしょうし、嬉しいことです。

 しかし、それで満足しいて良いのか、それが問われています。


◆23節の後半を読みます。

  … これこそ行うべきことである。

   もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。 …

 微妙な言い方です。当然と言えばかも知れません。礼拝よりも大事なことがある、と言っているのではありません。しかし、それだけで満足してはならないと言っているのです。

 この言葉こそ、私たちの教会に語られているように思います。

 もっと言えば、この教会の牧師である私に言われているとさえ感じます。


◆私たちも、いろんな困難、妨げがある中で、礼拝を守り通して来ました。守り通すことが出来ました。しかし、それが、間違った満足感になっているかも知れません。

 その中で、弱り切っている諸教会のことを思っていたのか、私たちの仲間の中にも、少なくない人数、礼拝に出席出来なくなって、心を痛めているのに、そのことを我が傷みとして感じていたのか、それが問われています。

 コロナの下でも、礼拝を守り通したと自画自賛しているだけでは足りません。

 今は、その反省の下に、新しい伝道計画を練ると言うような場ではありませんから、後の役員会や教会総会に譲ります。


◆24節。

  … ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、

   らくだは飲み込んでいる。 …

 この言葉の意味内容は分かります。

 同じマタイ福音書の山上の説教にも似たような言葉があります。7章3〜4節。

  …  3:あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、

   なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

   4:兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、

    どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 …

 24節は、流石に私たちには当て嵌まらないと考えますし、考えたくなりますが、そうではないでしょう。教会の中に、こんな現実はないかと、振り返らなければなりません。


◆『ぶよ一匹さえも漉して除く』、ファリサイ派はそのような厳密さは持っています。厳格で、自分にも厳しい、それが史実のファリサイ派です。しかし、これも史実ですが、時の権力と迎合して、自分の地位・富を大事にしたのも、ファリサイ派です。史実です。

 だからこそ、ファリサイ派の中から、この姿勢に反発して、ゼーロータイ・熱心党が生まれ、時のローマに抵抗し、絶望的な反乱へと若者を駆りたてました。この戦いには、信仰的にファリサイ派と対立していた党派からも参加者があり、キリスト教徒も一部、僅かな人数ですが、加わりました。

 先ほど上げた『ユダヤ人』の著者は、この点を高く評価し、逆にキリスト教に批判的です。彼に言わせれば、先々週読んだ23章3節、

  … 彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。

  しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。

  言うだけで、実行しないからである。 …

 この言葉は全く当たっていない、実践したのはファリサイ派であり、キリスト教は実践しなかったとなります。実践に欠けるのは、むしろキリスト教だとなります。


◆この本は原則評価しますし、いろんなことを教えられます。しかし、歴史的事実を語っているのかは分かりません。まして、キリスト教は実践しないと言う批判は違うと思います。このマタイ23章は、ファリサイ派批判でしょうが、同時に、当時のキリスト者に向けて実践を説いています。マタイにはそのような言葉が数多くあります。

 

◆ここで、マタイが説く実践とは何か、もう一度丁寧に見なくてはなりません。

 また23節。

  … 律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている。 …

 マタイが説く実践、ファリサイ派批判は、『正義、慈悲、誠実』です。

 これを厳密に受け止めなくてはなりません。『正義、慈悲、誠実』です。

 実践と言いますと、何かしら具体的な行動となり、これがエスカレートすると、熱心党のように武力闘争になるのかも知れません。しかし、マタイが説くのは、『正義、慈悲、誠実』です。正義には、もしかしたら戦いもありますでしょうが、『慈悲、誠実』は、ちょっと違います。闘争的正義があったとしても、闘争的『慈悲、誠実』はありません。

 『慈悲、誠実』の実践です。この言葉そのものを具体性がないと受け止める人もありますでしょうが、具体的な行動の背景にある、むしろ、根拠になる『慈悲、誠実』です。


◆25節。

  … 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。

   杯や皿の外側はきれいにするが、内側は強欲と放縦で満ちているからだ。 …

 これも、これこそ、ファリサイ派への不当な批判だと考える人もありますでしょう。

 しかし、私たちには、ファリサイ派の現実が大事なことではなく、これが教会に当て嵌まるのかどうかです。私たちはどうかです。

 こんな風になってはなりません。大変悲しいことに、キリスト教の歴史を振り返れば、このような現実がありました。千年も残るような大伽藍を建てたけれども、その裏には、貧しい人々の犠牲があるという現実がありました。貧しい人々の犠牲によってこそ、大伽藍が建ったと言う現実がありました。

 

◆このことは、聖書全体を通じての、大きなテーマでした。無数に例を挙げることが出来ます。詩編51編18〜19節。

  … 18:もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら

  わたしはそれをささげます。

  19:しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。

  打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。 …

 同様の趣旨の言葉が沢山あります。新約聖書にも引用されています。


◆分かり易くと思い、礼拝があり、それとは別に実践があるような言い方をしましたが、実は、礼拝も、信仰の実践です。一番大事な実践です。『正義、慈悲、誠実』が、礼拝で現実にならなければなりません。

 逆に言えば、『正義、慈悲、誠実』に繋がらない、形ばかりの礼拝は、『神の求めるいけにえ』ではありません。『打ち砕かれた霊 … 打ち砕かれ悔いる心』こそが礼拝の核心であり、これが具体的な業に繋がって行かなくてはなりません。


◆26節。

  … ものの見えないファリサイ派の人々、まず、杯の内側をきれいにせよ。

   そうすれば、外側もきれいになる。 …

 これも山上の垂訓に同趣旨のことが記されています。5章24節。

  … その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、

   それから帰って来て、供え物を献げなさい。 …

 『内側をきれいにせよ。そうすれば、外側もきれいになる。』は、真実です。

 これが最優先です。これなくして実践も伝道もありません。


◆どんなに外側をきれいにしても、それで内側がきれいになるわけではありません。それが、27節の意味です。

  … 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。

   白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、

  内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。 …


◆28節。

  … このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、

   内側は偽善と不法で満ちている。 …

 これをファリサイ派批判として聞いても、何にもなりません。我が身を振り返ることこそが大事です。

 どなたも経験的に知っていることです。掃除をすればするだけだんだん綺麗になる訳ではありません。どんなに頑張って丁寧に掃除しても、だんだん汚れが取れなくなり、汚くなります。掃除をすれば、営繕を行えば、教会が良くなる訳ではありません。

 順番は逆です。もし、教会を、その中身である礼拝を大事に思う人がいれば、結果的に、掃除をする人も現れ、教会は、具体的には建物も綺麗になることでしょう。

 今日は、会堂掃除の日です。週報発送の日です。このような小さい実践にこそ、教会を思う心が、現れますでしょう。


◆『正義、慈悲、誠実』、これが教会形成の要です。その要が出来ていなくては、実践も伝道もありません。勿論、実践・伝道によって、『正義、慈悲、誠実』が養われていくことはありますでしょう。

 聖書を補正するようなことは言えませんが、教会・礼拝での正義となると良く分かりません。『慈悲、誠実』は分かります。これが、教会の中心になければ、何事もなりません。