† 44節と45節の譬えは、全く同じ意味内容です。本当に大事なものを見つけたなら、他のものは全て犠牲にしてでも、その大事なものを手に入れるべく全力を上げるだろうと、強調しています。 逆に言えば、一つのものに集中出来ないのは、本当に大事なものを見つけていないからだ、本当にだ地名ことを知らないからだという理屈です。 納得出来る理屈ですし、二つの譬え話は分かり易く、とても説得力があります。 44節の譬えは、現代の法律に照らしたらどうだろうか、畑から出た物の所有権は誰にあるのだろうかという疑問はありますが、譬えが何を言わんとしているのかは、良く分かります。 † しかし、聖書では、特にイエスさまの譬え話では、一見分かり易いと見えるものほど、実は難しく、本当に理解し、実戦するには困難があります。 『畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、 持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。』 先ず困難なのは、畑に隠された宝物を見つけることが出来るかという困難です。畑ですから、地主がいます。これまでも、誰かが畑を耕していた筈です。その人は、畑を耕しながら、宝物には気付かなかったことになります。不可解と言えば不可解ですが、そんなものでしょう。宝物があっても、なかなか気付きません。足下にある宝、目の前にある宝に気付かないのが、人間の現実でしょう。 畑ですから、宝物は泥に覆われているでしょう。鍬にゴツンと当たって、堅い重たいものを掘り出しても、邪魔な石だとしか思わず、畦に捨ててしまうかも知れません。 † そんな話は実際にあります。テレビの『お宝鑑定団』と言う番組で見たことがあります。古くから物置の片隅に転がっていたので、猫のご飯茶碗にしていたら、何とそれが名品で、数百万円の値が付くものだったという類いの話は、この番組では珍しくありません。 その逆もあります。何代も前から、家宝として大事にし、大金をかけて表装までした掛け軸が、とんだ偽物で、数千円の価値しかなかったという話も、珍しくありません。 その宝物の、歴史的価値のあるなしとなりますと、素人には全く判別が尽きません。 † 肝心なことは、これが天国の譬え話だという点です。自分の目にしながら、実際に手に取りながら、何の値打ちも見出すことが出来ずに、ぽいと捨ててしまっているかも知れません。 あなたはそういうもったいないことを、愚かなことをしてはいないのかと問われています。ですから、この譬え話は、あなたには本物と偽物との区別が付くのかという話が先ず前提です。区別が付かないから、偽物を抱え込んで、本物を手放してしまいます。 † これは、まるっきり嘘、与太話にしか聞こえない、しかし本当の話です。 私の母の義理の父親、ですから私の義理の祖父に当たりますが、この人は、秋田弁で言う雑魚取り(ざっことり)が趣味でした。田んぼの端を流れる小川に、小屋を構え、そこに寝泊まりして川魚を捕ります。ウナギや鮎なら価値もあるでしょうが、収穫は殆ど雑魚ですから、お金にはなりません。このような小屋を、あちこちに幾つも構えていました。 その一つを、人に貸すことになりました。行き倒れも同然に転がり込んだ人に、貸し与えたのです。この人の生業は、生業と言うのもおかしいのですが、乞食でした。 † 夏には東北の北から北海道まで、寒い季節には南の方に、流離いながら、乞食をしていました。この人は、自称東京帝大卒業、実家は東京の名家で、家には使用人が何人も働いているそうです。勿論、誰もそんな話を信じはしません。しかし、嘘つきだと糾弾する人もいません。田舎者の優しさです。 話を急ぎますが、この人が突然亡くなり、祖父が、その始末をしなくてはならなくなりました。詳しいことは分かりませんが、実家に連絡が付き、東京から家族が車でやって来ました。 何と、秋田の田舎では見たことも、聞いたこともない、黒塗りの外車でした。彼の話は、多少の誇張はあったにしても、大筋本当だったのです。確か東大出というのも本当だったと記憶しています。 † この人は、乞食なのに人に物を上げるのが好きで、近隣の人は何かしらプレゼントを受けていたそうです。刀を貰った人もいて、紛い物だと思い込んでいたのに、本物かも知れないとなって大慌てしたという話も聞こえて来ました。 † 私たちには偽物と本物の判別が容易には出来ません。人間の値打ちを見分けることは、それ以上に困難です。 再来週の箇所にはみ出しますが、少しだけお話しします。13章55〜56節。 『55:この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、 シモン、ユダではないか。 56:姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。』 イエスさまの故郷の人々は、イエスさまの外側だけを見て、つまり、ラベルだけをみて、イエスさまの説教の中身を聞こうとはしません。故郷の人々は、価値あるものと、価値のないものとの区別が付かないのです。 今日の箇所と主題が似通っています。 † 白河教会時代に、教会員であるお医者さんの茶の間におりますと、来客がありました。失礼しようとしますと、「牧師さんも見なさいよ。目の保養になるから」。お客は宝石屋さんでした。 こたつの上に次々と、指輪やら首飾りやらが並べられます。私にはこういうものの真贋も値打ちも全く分かりません。見るのは、値札だけです。一目で数えられるような桁数ではありません。1,10,100,千、万と桁を数えなくてはなりません。そして、その金額に、ただ驚きました。 松江で開かれた絵画展の時も同様でした。絵画ですから、好き嫌いは感じますが、真贋、値打ちなど分かろう筈もありません。 見えるのは、値札だけです。その値札にだけ、感動しました。 † 45節を改めて読みます。 『45:また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。 46:高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、 それを買う。』 基本、畑の宝と同じ主題ですし、構造的にも同じかと想います。 本物、本当に欲しい物を見つけたら、他のものは犠牲にしなくてはなりません。全て売り払い資金にしても、本当に欲しい物を手に入れます。 そこで迷いが出る人は、本物の宝を手に入れることは出来ません。迷うのは、それが本物だという確信がないからです。 これが何を意味しているのか、 … 何しろ天国の譬えです。 † 高価な真珠とは、天国のことであり、天国に入れられる救いのことです。天国に入る、つまり救いと、他の値打ちあるものとを天秤にかけることは出来ません。 少し飛躍かも知れませんが、使徒言行録を参照します。5章1節以下に記された出来事です。アナニヤとサフィラという夫婦が、自分の土地を売ったお金の半分を持ってきて、全部だと偽り、使徒たちの足下に置きました。3〜5節。 『3:すると、ペトロは言った。「アナニア、なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、 聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか。 4:売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、 その代金は自分の思いどおりになったのではないか。 どうして、こんなことをする気になったのか。 あなたは人間を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 5:この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。 そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた。』 人々が恐れるのも無理はありません。財産の半分を寄進したのに、足りないと叱られ、命まで奪われたら、たまったものではありません。 † いかがわしい新興宗教なら、この話を喜んで引用するかも知れません。半端では駄目だ、全てを捧げなくては天国に入れないと解釈し、説得するでしょう。 この出来事は、勿論、そんな話ではありません。 ペトロは言いました。『売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、 その代金は自分の思いどおりになったのではないか。』 半分しか捧げなかったことが咎められているのではありません。全てを捧げたと偽ったこと、教会をも使徒をも、おそらくは自分自身をも偽ったことが非難されています。 † 財産の半分を捧げた時、アナニヤとサフィラは得意気だったのでしょうか。他の人には出来ないことをして、褒めて貰いたかったのでしょうか。 それは『神を欺いた』行為でした。 半分だけ捧げたのは、正に半信半疑だったのでしょう。天国をです。どうにかして天国に入りたい気持ちが半分、残りの半分は、天国の他にも、欲しい物があったということでしょう。天国に行けない時の老後の保障だったのかも知れません。 † 以前にお話ししたことがあるかも知れませんが繰り返します。未だ神学生だった時、教会学校の生徒が、神学生の私を困らせようとして、難問奇問を用意して待っています。彼らは、編隊飛行クラブと自称していました。オリンピックの開会式などで飛行機が一緒に飛ぶ編隊飛行と、痴漢行為などの変態、不良の非行、変態非行とを重ねた駄洒落です。 彼らの難問奇問には、しばしば往生しましたが、今日はどんな問題かと楽しみでもありました。生徒たちの中に、一人真面目な少女がいました。それでも変態非行クラブの一員で、大真面目に質問を用意しています。 小学校4年生の女の子が、大真面目に聞きます。 「先生、悪いことをした人は地獄に行き、良いことをした人は天国に行くのでしょう。それなら、悪いことも良いこともあんまりしないような普通の人は、どこに行くのですか」 大真面目な問いなのです。 私は答えに窮して、考え込んでしまいました。しばらくしたら、この子が言います。 「分かった。悪いことも良いこともしない普通の人は、中国に行くんだ」。 彼女は、あくまでも大真面目なのです。 † 多くの人は中国に行きたいようです。勿論、中華人民共和国のことではありません。地獄と天国との中間の中国です。 地獄は勿論嫌です。行きたくありません。また、多くの人は行かなくて済むだろうと安心しています。天国はどうか、まあ、地獄よりはいいかと思っています。是非行きたい、今日にも行きたいとは思いません。 中世のキリスト者の殆どの人は、地獄と天国との中間の中国に行くことになるのかなと、考えました。キリスト教の用語では、中国とは言いません。煉獄と言います。どちらかというと地獄に近いかも知れませんが、そこで試練に遭い、頑張りますと、天国に上げられます。駄目だと、地獄に堕ちます。 この世界そのものが、天国だと考える人もいますし、地獄だと考える人もいます。勿論、煉獄だと考える人もいます。ちゃんと意識していなくとも、煉獄だと思う人が一番多いかも知れません。 大聖堂を建てる資金とする免罪符を買えば、それを煉獄で使って、天国の切符が手に入ると言ったのが、中世のローマカトリックで、それに抗議したのがプロテスタントです。 何だか良く分からない話ですが、大聖堂建立のためでさえなく、免罪符を今も売り続けている統一原理が、地獄に落とされるのは、間違いありません。聖書には、誰が天国に入れられ、誰が弾かれると言って人を裁いてはならないと書いてあります。しかし、統一原理が、地獄に落とされるのは、間違いありません。 † 残された箇所の内、省略して47〜48節だけ読みます。 『48:網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、 悪いものは投げ捨てる。 49:世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、 正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け』 50節は敢えて読みません。 ここで中国には触れられていません。中国、煉獄は存在しないかも知れません。 宝物を見つけても、それを手に入れるために全力投球しない、それが人間の現実でしょう。私は宝くじを買ったことは一度もありません。馬券もありません。それなのに、5億円手に入ったら、あれが出来るこれが買えると夢想することがあります。それでも買いません。外れる可能性の方が高いからです。天国はどうでしょうか。外れる可能性が高いから買わないでおきますか、地獄はどうでしょうか。 |