日本基督教団 玉川平安教会

■2023年3月12日 説教映像

■説教題 「食卓から落ちるパン屑を

■聖書   マタイによる福音書 15章21〜28節 

       

★古代中国の思想家の一人に、墨子という人がいます。はっきりとは分からないようですが、紀元前400年の前後に活動したと言われています。孔子よりも100年以上後ですが、両者の教えが拮抗していたのは、ほぼ同時代と言っても良いかも知れません。聖書で言えば、イザヤやエレミヤよりもずっと後ですし、ヨブ記の100年ほど前になりますでしょうか。

 絶対的な博愛主義、反戦・非戦を説いた思想家で、その一事をもって、私は大好きです。

 今、博愛と言いましたが、本人の使った言葉ですと、兼愛です。兼ねるに愛です。意味合いは博愛です。この逆は偏愛です。偏る愛です。

 簡単に説明しますと、儒教が説く孝、親や兄弟家族への愛は偏愛に過ぎず、これに固着していると、むしろ、自他の利害が衝突し争いを生む、偏愛を捨てて万人を愛する兼愛でなければならないという思想です。

 この教えも大変素晴らしいと、私は思います。


★トルストイは言いました。「人は(親兄弟家族のみをではなく)、万人を等しく愛さなければならない。しかし、万人を等しく愛することは出来ない。だから、目の前のたった一人を愛すべきだ」と。

 墨子は、兼愛、別の言葉をとれば博愛、他愛=他を愛する愛、が先ずあって、それが隣人愛に繋がり、更に自己愛になるという考えです。トルストイと似ていますが、方向性は逆とも言えます。

 儒教は、墨子とは方向性が逆で、先ず親、次に兄弟、隣人となります。この方が、トルストイに近いでしょうか。と言うよりも、トルストイは儒教も道教も、勿論墨子も知っているようです。影響を受けたと思われます。

 両者は方向性が逆かも知れませんが、愛を重んじる点では同じです。


★ついでに過ぎませんが、エリック・C・ホガードという児童文学者は、バイキングを描いた『奴隷少女ヘルガ』という作品の扉に、このように記しています。

 「愛する息子マルクへ、君が大人になった時に、他人を愛するように自分を愛することができるように」

 勿論、聖書の言葉のもじりです。マタイ福音書ですと22章35〜40節になります。

  … 35:そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。

36:「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」

37:イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、

   あなたの神である主を愛しなさい。』

38:これが最も重要な第一の掟である。

39:第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

40:律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 これはそもそもユダヤ人ならだれでも知っているシェマー・イスラエル(聞け、イスラエルよ)の教えで、申命記6章にあります。

  … 04.聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。

    05.あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、

     あなたの神、主を愛しなさい。

 イエスさまはこの教えと、『汝の隣人を愛せよ』とを、直接的に結び付けて語っておられます。


★何れも、方向性は逆かも知れませんが、愛を大事に考える点では同じことです。

 世界平和と家内安全は、矛盾しません。矛盾しないどころか、どちらか一つでは成り立たないでしょう。初詣で、100円玉を投じて、世界平和と家内安全を願うのは、随分欲張りだと思っていました。100円で買えるくらいの事柄でしかないのかと反発しますが、存外そうではないかも知れません。100円で買えるかどうかはともかく、世界平和と家内安全を願うことは大事でしょう。世界平和と家内安全とどちらが優先するかという議論は無意味でしょう。どちらが優先かと争ったら、もうブラックジョークの世界です。

 儒教と墨子とは対立的ですが、これも絶対的な違いではないかも知れません。私は中国思想については、知ったか振りをする程の知識もありませんので、このくらいに止めます。 今日の箇所を理解するために、参考になるかと思っていろいろと上げました。


★肝心のマタイを読みます。21〜22節。

 『21:イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。

  22:すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、

  「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。

  娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。』

 『ティルスとシドンの地方』、カナンの海岸地方です。かつてはペリシテ人の領土でした。ローマ時代には、ギリシャやローマリ人が入植していました。

 『この地に生まれたカナンの女』、ややこしい表現です。マルコ福音書には7章26節。

 『女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、

  娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。』

 このように、ギリシャ人と記されています。何れにしても、ユダヤ人ではありません。

 ユダヤ人が強い反感を持つ土地が舞台で、ユダヤ人が忌み嫌う異邦人が登場人物だということに、この出来事の大きな意味があります。


★23節。

 『しかし、イエスは何もお答えにならなかった。

  そこで、弟子たちが近寄って来て願った。

  「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」』

 福音書中、良く見られる光景です。弟子たちは秩序を重んじるのでしょうか。イエスさまに近づく人々を警戒しますし、怪しい者、目障りな者を退けようとします。異邦人だという事実も、無関係である筈がありません。

 『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。』と言う叫び声を、弟子たちは聞こうとしません。『叫びながらついて来ます』と邪険にします。

 『イエスは何もお答えにならなかった。』のは、弟子たちに対してではなく、カナンの女に対してです。イエスさまも邪険にしているように見えます。


★24節。

 『イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか

   遣わされていない」とお答えになった。』

 私たちには何とも不可解な言葉です。イエスさまは『イスラエルの家の失われた羊』専門なのでしょうか。他の民族・国民には無関心なのでしょうか。

 例えば、ルカ福音書の『良きサマリア人の譬え』では、民族の違いを重視し、また、自分の立場を何より優先したファリサイ派を批判しておられたのではないでしょうか。

 それなのに、何故、娘を救いたい一心で、『主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。』と叫ぶ女に、冷たい答えをされたのでしょうか。

 イエスさまは、墨子とは反対、儒家の立場と同じなのでしょうか。


★25節。

 『しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」

  と言った。』

 マルコ福音書では『娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ』とあります。ここでは、『主よ、どうかお助けください』です。

 似たような場面で、イエスさまに救いを求める者は、『主よ憐れんで下さい』と願います。同じことでしょう。『娘から悪霊を追い出してください』だと、医者や祈祷師に願う言葉でも同じです。「どうかお助けください」も、医者や祈祷師にも言う言葉です。そうかも知れません。しかし、医者や祈祷師に『主よ憐れんで下さい』とは言わないでしょう。


★女は、イエスさまに救いを求めています。単に呪い祈祷を願っているのではありません。

にもかかわらず、イエスさまは、なお冷たいと聞こえることを仰います。26節。

 『イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」』

 冷たいどころか、拒否です。

 『小犬』と聞くと、私たちは先ず可愛いと思います。しかし、ユダヤ人の間では、犬は、強い蔑みの言葉です。日本語でも、犬とは裏切り者とかスパイという響きがありますが、それ以上に、忠実とか可愛いという響きが強いと思いますが、ユダヤ人の間では、自分が吐き戻したものを再び口にする、排泄物まで口にする汚い存在とされます。

 ユダヤ人は羊を飼いますから、犬の重要度は、日本の比ではないと思いますが、何故か、大事にされません。身近だからかも知れません。働き手だからかも知れません。

 労働力だからこそ、甘やかしてはならないのかも知れません。

 イエスさまは、必死にすがる女の子どもを、小犬と呼んで、相手に出来ないと言われたのです。


★27節。

 『女は言った。「主よ、ごもっともです。

  しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」』

 普通でしたら、イエスさまの言葉に強く反発するでしょう。こんな人に救いを求めたのは間違いだったと思うことでしょう。しかし、この女は、『小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく』と、なおすがります。我が愛する子を、小犬と認めてまでも、なお救いを求めています。

 それだけ、我が子を助けたいと言う思いが強いのでしょう。同時に、謙遜でもあります。救って貰う権利があるとは考えていません。キリストならば、困っている者を救うべきだという考えはありません。『食卓から落ちるパン屑』を求めています。


★ここで、列王記下に描かれるナアマン将軍の出来事に触れたいのですが、時間の関係で省きます。ただ、このことだけ申します。

 ナアマン将軍は、自分ほどの地位にある人間は、癒やされる権利がある、預言者も、ナアマンの癒やしのために働いて当然だと考えていました。

 多くの人間がそのように思っているかも知れません。自分は神さまによって救われる権利がある、神は、私の救いのために全力を尽くすべきだ。

 だから、100円玉一枚で、世界平和・家内安全を祈願できるのかも知れません。


★28節。

 『そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。

  あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。』

 『あなたの信仰は立派だ』、立派な信仰とは何のことでしょう。この箇所に記された、この言葉、この出来事だけから読み取らなければなりません。

 先ほども言いましたように、この女の、娘を助けて貰いたいという必死さのことでしょう。そして、そのためならば、プライドも何もないという謙虚さのことでしょう。この謙虚さもまた、娘を助けたいという必死さの表れです。つまりは、娘への愛です。

 これを約めて言えば、娘への愛、それが『あなたの信仰は立派だ』という評価の意味なのではないでしょうか。


★先週の箇所では、食事の前に手を洗わなかったイエスさまの弟子たちを、ファリサイ派の学者たちが、厳格な先祖の言い伝えに基づいて、批判する、蔑むという出来事でした。イエスさまは、聖書と先祖の言い伝えを守ろうとするファリサイ派を、

 『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。

  人間の戒めを教えとして教え、/むなしくわたしをあがめている。』

 このように強く批判されました。

 それは、ファリサイ派には律法遵守の思想はあっても、愛がないからです。専門的に高度な聖書・律法の知識はあっても、愛がないからです。しかし、イエスさまは、先ほども触れましたように、『汝の隣人を愛せよ』という言葉こそが、律法の究極だというお考えです。ファリサイ派には、聖書を学問的に知っていても、肝心な信仰・愛がないと批判しているのです。


★先週は省略しましたが、ファリサイ派を

 『彼らは盲人の道案内をする盲人だ。

  盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。』

とまで仰いました。人を導くのは、律法の厳格さではなく、愛だからです。


★イエスさまは、異邦人の女に対して、最初冷たいとも見える態度を取られました。しかし、結果は、この女の愛が見え、証明されました。この出来事の意味は、ここにあります。

 私たちも同様の出来事に出遭うかも知れません。神さまは冷たい、神さまは何もしてくれないと思うかも知れません。その場面・状況で、『小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただく』と言えるかどうか、そこまで必死に助けを求めるかどうか。それほどの愛を持っているかが、問われているのです。