◆先週は、21章18〜22節の『いちじくの木を呪う』と小見出しが付いている箇所と、同じく小見出し『権威についての問答』の箇所、23〜27節とを、併せて読みました。 一つの段落を、どんなに繰り返し丁寧に読んでも、なかなか主題が読み取れないことがあります。その時、前後の箇所を一緒に読むことで見えてくるものがあります。 今日の箇所こそ、ここ一つの段落では、どんな風に解釈したら良いのか、何を受け止めたら良いのか、見えません。直前の23節以下、むしろ、21章全体の流れの中で読まなくてはならないと考えます。 この箇所だけですと、どうも印象が薄くなります。前後には、逆に大変に印象が濃い、強烈な言葉も含む箇所ですので、その中に埋没してしまいそうです。 ◆今申し上げたことを前提にして、敢えて、先ず28節以下だけから読んでまいります。 主要登場人物は二人で、対比的に描かれています。もう一人登場人物がいて、『ある人』『父親』とだけ言われています。これは、他の譬え話と同様に神さまのことでしょう。 兄は、父の命令に素直に頷くことをせず『いやです』と答えました。 長男らしくない気がしますが、そういう人もいますでしょう。そういう性格なのかしら、何か思うところがあったのかしらと、想像はしますが、これをどんなに掘り下げても、結論は出ないでしょう。無理にこじつけた解釈をすると、大脱線になるかと考えます。 ◆弟は『お父さん、承知しました』と答えました。素直と受け止める人も、調子が良いと読む人もありますでしょう。それは読む人の事情や性格の違いで、どちらの解釈が正しい、或いは間違っているということではありません。 確かに、この兄弟のように、性格が分かれることはあります。それさえも、どちらの性格が良い、或いは悪いということではありません。 この兄弟について、いろいろと詮索しようにも、他に判断材料がありません。どんなに深読みしても、多分、何の意味もないでしょう。 ◆別の言い方をすれば、この兄弟の姿勢或いは性格を、後半31節以下にそのまま当て嵌めて読んでも、あまり、納得は行きません。 どうしても、これだけで結論を得ようとすると、心の中で何を思ったか、口に出して何を言ったかではなく、行ったか行わなかったかだけが問われるという話になってしまうでしょう。 この結論もまた一人歩くすると、この箇所ではパウロ流の信仰義認ではなく、マタイ流の行為義認が説かれているという話になってしまうかも知れません。 それもまた、一つの解釈でしょうが。ちょっと疑問が残ります。 ◆そこで、やはり、21章全体の中で読むことが必要だと思います。 21章を、おさらいします。小見出しで振り返ります。 小見出しは、便宜のために、これを翻訳した人の手によって記されているもので、聖書の本文ではありません。ですから、礼拝の聖書朗読の時に、小見出しまで読むことはあまり適切ではないと考えますが、便利は便利です。 ◆『エルサレムに迎えられる』 ローマの凱旋将軍と、エルサレムに入場するイエス・キリストの様子が、対照的、全く逆の姿で描き出されています。ローマの将軍は、辺境の地で異民族と戦い大手柄を立て、彼一人だけのために新設された凱旋門を潜って、都に凱旋します。香料が染みた花びらが蒔かれ、硬貨まで蒔かれて、それは華々しいものです。 しかし、そこには多くの傷ついた捕虜が引き立てられ、沿道には屍が曝されています。どんなに飾り立てようとも、香り付けしようとも、この凱旋行進には、死臭がまとわり付いています。 方やイエスさまを迎えるのは、貧しい人々です。香料もありません。しかし、人々は歓喜して、驢馬に乗ってやって来た救い主を迎えます。白馬にまたがり侵略していくる外国の王とは、真逆の姿です。 ◆『神殿から商人を追い出す』 エルサレム神殿は壮麗なものでした。地中海世界から、大勢のユダヤ人がお参りに来ます。賑やかでした。しかし、そこに、本当に信仰はあるのか、豪華な神殿や人目を惹く祭儀、着飾った参拝客、しかし、そこに信仰があるのかと問われています。 ◆『いちじくの木を呪う』 先週の箇所ですから、簡単に申します。 いちじくは、沢山の葉を茂らせています。しかし、実は生っていません。『神殿から商人を追い出す』と一緒に読めば、内容は重なります。神殿も、いちじくも葉っぱばかりで実がありません。 あなた方の礼拝は、信仰、希望、愛という実が生っているのか、逆に憎しみや妬みという悪い果実を生らせていないかと、問いかけられています。 ◆『権威についての問答』 『祭司長や民の長老たち』は、イエスさまの言動を見聞きして、『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。』と詰問します。 彼らには、その点にしか関心がありません。彼ら自身が、それしか、つまり、『祭司長や … 長老』という資格・権威しか持っていないからです。彼ら自身の中身は空っぽだからです。 ◆こうして振り返ると、全く同じ主題であることが分かります。形式・外側ばかりを飾り立てて、内実・中身がないと批判されています。 私たちは、このようなイエスさまの、強い言葉、率直に言うと語気荒い言葉を、我が身に語られた言葉として聞かなくてはなりません。 私たちの心に、自ら問わなくてはなりません。私たちの教会には、礼拝には、信仰、希望、愛という実が生っているのかと。 イエスさまが語られた言葉を、単にファリサイ派や律法学者に向けられた言葉として聞き、そうだそうだと相槌をっても、それはイエスさまの言葉の半分しか聞いたことにはなりません。 私たち自身の向けられたものとして聞き、我が身を振り返って、初めて、イエスさまの言葉を聞いたことになるのです。 ◆ついでに、今日の箇所の後も見ます。 次週は、平和主日ですので、聖書個所もイザヤ書から選びました。少し先になりますので、予告編的に、触れたいと思います。 『「ぶどう園と農夫」のたとえ』です。 次々週に詳しくお話ししたいと思いますので、今日の箇所との繋がりだけに絞ります。 農夫たちは、主人から貸し与えられた農園で葡萄を栽培しています。一所懸命働いたからこそでしょうか。これは単に推測です。彼らは、何時の間にか、農園を自分たちのものだと考えてしまったようです。年貢を支払うのがもったいないと思います。取り立てる使いを追い返し、果ては暴力を振るいます。 そして最後には、農園主の跡取りを殺してしまえば、農園は自分たちのものになると、『息子を捕まえ、ぶどう園の外にほうり出して殺してしまった』とあります。 ◆ちょっと、21章の流れとは異質な要素がありますが、共通のこともあります。 ここで、やっとですが、今日の箇所を改めて1節ずつ読みます。28節。 … あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、 『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。 … 『あなたたちはどう思うか』と、この譬え話は始まります。私たちにも同様です。我が身に当て嵌めて読まなくてはなりません。 『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』、命令です。 今日は働きたい気分だとか、気分ではないとかではありません。命令です。 「働いて一稼ぎして美味しいものでも食べようか」という、働く人の都合や、労働意欲ではありません。命令です。 ◆私たちは「神さまの招きの言葉を聞いて礼拝に出る」と言います。しばしば言います。「招きの言葉を聞」くことは、勿論大事なことです。 しかし、私たちはこの言葉が命令だとは考えていません。お招きだと受け止めているのではないでしょうか。お招きだとすれば、出掛ける人はお客様でしょうか。それで良いのでしょうか。 「お招きを受けて嬉しい、身に余る光栄だ」ならば、大変結構な気もします。 「私にはお招きがない」と言う人もあります。具体的には牧師から声がかからなかったと怒る人もいました。 お招きにしろ命令にしろ、神さまの言葉です。牧師の言葉ではありません。 ◆29節。 … 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。 … 『いやです』とはっきり言う人、なかなかいません。この人の性格でしょうか。その性格について、良いの悪いのと言っても仕方がありません。それに、あくまでも譬え話の登場人物です。どんなに考えても、この兄の本当の気持ちなどは分かりません。 しかし、我が身に準えていろいろと思い巡らすことは大事でしょう。自分も同じことを言っていないかと我が身を振り返ることは大事です。 『後で考え直して出かけた』ことについても、その心の変化の理由を推測しても意味がありません。 ◆ … 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』 と答えたが、出かけなかった。 … こういう人はいます。こういうこともあります。これについても、弟の本当の気持ちなどは分かりません。唯調子が良いだけで実がないのか。従順なように見えて、実は父のことを軽んじているのか。分かりません。 ◆31節前半だけ読みます。 … この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」 彼らが「兄の方です」と言うと、 … 当然です。誰もがそのように思います。 イエスさまは、敢えてそのことを確認した上で、31節後半。 … イエスは言われた。「はっきり言っておく。 徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。 … このように言われた理由は、次の32節で説明されますが、先ず、この箇所で考える必要があります。 ◆イエスさまに問いかけ、逆にイエスさまに問い糾されて、答えると言う場面は、福音書で繰り返されます。大抵、適切な答えをします。しかし、その後、イエスさまに、簡単に言えば痛烈な皮肉を言われます。大抵、『ならば、そのようにしなさい』と言う趣旨です。 「口では正しいことを言う、知識としてはちゃんと知っている、しかし、行わない」、ファリサイ派は、しばしばそのような観点から批判を受けます。マタイ23章では、外側だけ取り繕った彼らの信仰姿勢が徹底的に弾劾されます。 23章3節だけ引用します。 … 彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、 彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。 … これだけで充分でしょう。しかし、念のために申しますと、これは必ずしも有言不実行への批判と聞くだけでは不十分です。むしろ、外側だけで中身がないことが問題視されています。 ◆ … なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、 徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、 後で考え直して彼を信じようとしなかった。」 これが結論部です。明らかに25節を受けています。 つまり、ここも、権威や立場が何より重要で、例えばヨハネの預言を聞いても、それが真実かよりも、それを聞くことが利益か不利益か、自分の立場は守られるのか、これが大事な人たちなのです。 説教題の『約束を軽んじる人』については触れませんでした。予告は1ヶ月前ですので、内容が説教題とちぐはぐになることもあります。ご勘弁願います。説教題の方を優先すると、1ヶ月間の説教準備が無意味になります。讃美歌も同様です。 ◆最後に蛇足を覚悟でこのことを申し上げたいと思います。この箇所は、そして牧師の説教も、厳しい裁きに聞こえるかも知れません。その通りかも知れません。しかし、一方で、ファリサイ派などが拘っているもの、外面、資格、権威、そんなものがなくとも、信仰できる、礼拝出来るという、赦しと慰めの言葉でもあります。 |