日本基督教団 玉川平安教会

■2023年2月5日 説教映像

■説教題 「神さまが躓くとき

■聖書   マタイによる福音書 13章53〜58節 

       

☆ 53〜54節。

  『 53:イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、

   54:故郷にお帰りになった。』

 私たちは13章までに記された数々の奇跡的な出来事を知っています。12年間長血という病気に苦しんで来た女が癒され、12才の女の子が、死の床から甦りました。萎えてしまった手を癒やされた者もおりました。見えない目を開けて貰った人もいました。

 何より、主の山上の垂訓で、深い知恵を教えを、説かれました。


☆ イエスさまの故郷の人々は、これを知っていたでしょうか。知らなかったのでしょうか。54節後半には、

 『会堂で教えておられると』とあります。

 会堂=シナゴーグは、開かれており、いろんな人がそこで講演のような話をすることが許されていたそうです。しかし、全く無名、実績のない人を説教壇に迎えるとは思われません。評判は故郷の村にも届いていたと考えられます。


☆ 14章13節以下には、5000人のパンの出来事が記されています。今、この5000人を越える人々が、イエスさまの故郷に押し掛けたのではないとは思いますが、相当数の弟子たちがイエスさまと行動を共にしていたと考えられます。このこと自体が、田舎町に於いては大事件でしょう。だからこそ、人々が集まっていたのでしょう。

 

☆ 私たちの感覚からすれば、故郷に錦を飾るという様子です。江戸の大関よりも地元の幕下というような表現があります。東京の方にはあまりピンと来ないかも知れませんが、地方に暮らす者には良く良く分かります。私は秋田生まれです。残念ながら、大関清国以来、強いお相撲さんは出ていません。秋田県人は、仕方がないから、弓取り式をしている幕下力士聡ノ富士を応援しています。なまじな関取よりも注目度は高いかも知れません。

 残念ながら、弓取り式を勤める力士は、関取に上がる可能性は低いそうです。十両に上がってしまったら、他の人に換えなければなりません。これまで弓取りを経験して横綱まで出世した力士は、栃錦ただ一人だそうです。


☆ さて、イエスさまの故郷の人々は、拍手喝采をもってイエスさまを迎えたでしょうか。 54節後半。

 『会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。

  「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』

 『会堂で教え』とありますが、マルコ福音書、ルカ福音書も含めて、会堂で教えられたという記事は、どれも故郷ガリラヤでの出来事です。他の所ではない。故郷ガリラヤでこそ、イエスさまは数多く説教されています。

 人々もその教えを全然理解出来ない訳ではないようです。

 『この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。』

 教えについても、奇跡の業についても、並大抵のものではないと分かっています。『驚いて言った』とありますように、むしろ、強い感銘を覚えています。


☆ にも拘わらず。55節。

  『この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、

    シモン、ユダではないか。』

 人々は、イエスさまに躓きました。

 54節の『人々』 は、何故か群衆(オクロス)ではありません。つまり、特別の強調を持ったマルコ福音書の用語ではありません。誰をも特定しない、もっと一般の人々を表していると考えられます。群衆(オクロス)が、結局はイエスさまを十字架に架けるのですが、同時にイエスさまはこの群衆(オクロス)のためにこそ、十字架に架けられます。

 それに対して、ここに登場する『人々は』、良くも悪くも十字架に関係のない、無縁の衆生ということになります。大勢の人々をオクロスと言う言葉で表現し、独特の意味合いを重ねるのに、ここだけはそうてありません。むしろ逆、無縁の衆生です。故郷ガリラヤの人々が無縁の衆生なのです。


☆ 『大工の息子ではないか』という言葉も、最低限解説しておきます。

 大工とは木製品を加工する者という意味を持ちます。当時の家屋は土と石で作られる場合が多かったので、大工の仕事は、家具や農工具が主だそうです。そもそも、大工の技術がフェニキア・つまり旧約聖書のペリシテ人を通じて導入されたこともありまして、重要な仕事だとしても、尊敬される仕事ではなかったそうです。大工と言うよりも小尺士でしょうか。

 『母親はマリア』 … この表現から見ても、ヨセフは既に故人と思われます。


☆ 57節。

 『このように、人々はイエスにつまずいた』

 そして、『つまずいた』 … スキャンダルの語源。罠を置くが源意です。

  肝心なことは、人々は何故躓いたのかです。

 もう一度54〜55節をご覧下さい。

 『会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。

   「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

  55:この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、

   シモン、ユダではないか。』

 『人々は驚いて言った』とあります。この驚きと、57節とが対応しています。

 『このように、人々はイエスにつまずいた。』


☆ここは、是非、マルコ福音書を参照したい所です。

 マルコでは、このように続きます。

 『そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。』

 異様な表現です。聖書の神さまは、時に怒り、嘆き、感情を表に出されることをなさいます。妬みさえあります。妬みと言うよりも熱情と言った方が良いかも知れませんが。とにかくに、感情を表に出されることをなさいます。

 私たちは時に、そのことに違和感を感じます。神さまらしくないと思うからです。しかし、怒り、嘆き、妬み、或いは泣くことよりも、もっと違和感を持つのが、『驚き怪しまれた』と言う表現です。

 『驚き怪し』むのは、予想外の出来事が起こったからです。怒り、嘆き、妬み、或いは泣くことは、分かっていても、予想していても起こります。しかし、分かっていて、予想していて、『驚き怪し』むことはあり得ません。全知全能の神には最もふさわしくない事では無いでしょうか。

 驚くのは人間であって、驚くことは神さまにはふさわしくないのです。


☆ では、何故、イエスさまは、『驚き怪しまれた』のか、人々の躓きこそ、日常的に起こっていて、今更驚くようなことではなかった筈です。

 56節。

 『姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。

  この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。』

 ここが問題です。

 平たい翻訳をすればこういうことです。

 「どこの大学を出たというのか。」

 私たちもそうですが、おうおうにして、何を言っているか、何が語られているのかを聞かないで、誰が言っているのか、それだけを見ます。

 イエスさまの話をかなりの程度まで理解して、充分値打ちのある話だと分かっていても、しかし、『この人は大工ではないか。マリヤのむすこで…ではないか。』と言って躓くのです。

 講演会などでもそうです。何が語られているかで、頷くのではありません。誰が語っているかで頷くのです。


☆ 前回お話ししましたが、私はある時に数千万円以上の、宝石を見たことがあります。正直、宝石の美しさなどは分かりません。値段しか見えませんでした。ややもすれば、絵画でさえそうです。

 人々は、最初イエスさまに、感動しました。しかし、彼等は、珍しい宝石を見るように、有名な画家が描いた絵を見るように受け止めたのです。そして、大工の小せがれが言うことだから、大して値打ちがないと判断したのです。

 宝石や絵画の値打ちは希少価値にあります。どんなに美しく見えようとも、ありふれているものには、何の値打ちもありません。

 水や空気や食べ物を見て、感動する人はいません。宝石や絵画を見るように感動はしませんが、実際には、水や空気や食べ物、ありふれているものが、真に値打ちのあるものです。宝石がなくても人は生きていけますが、水や空気や食べ物がなければ生きてはいけません。空気などは、5分間吸えなかったら致命的です。


☆ イエスさまの宣教活動によってもたらされるものは、生命の御言葉、生命の糧です。それは、希少価値ではありません。むしろ、水や空気や食べ物、ありふれているものの尊さに準えられるべきものでしょう。

 しかし、私たちは、イエスさまの言葉を、宝石や絵画に準え、それで大事にして来たつもりになっています。それは、間違いです。

 御言葉は大事に金庫にしまって置くべき性質のものではなく、日々いただくべきものなのです。水や空気や食べ物のように、毎日毎日必要なものです。そういう価値です。


☆ 逆に言えば、私たちは信仰に依って、ありふれているけれども、真に値打ちのあるもに、感動できるのではないでしょうか。感動しなくてはならないなのではないでしょうか。

 それは、例えば愛情です。愛情の中でも特別な恋愛感情とかではなくて、家族の愛とか、ありふれた愛です。それは、例えば友情です。友情の中でも特別な、一緒に甲子園を目指すとか、箱根を目指すとかの大層なものではなくて、一緒に学校に学んでいる者同士とかの、ありふれた愛です。

 それは、何よりも信仰です。信仰の中でも特別な、殉教者とか、命がけの伝道とか、まして、邪教を叩きのめすというようなことではありません。ありふれたと言えばありふれた、日常の信仰生活のことです。

 礼拝を守って、祈り、讃美歌を歌う、他の会衆と心を併せて使徒信条を告白する、そういう信仰です。

 ここに感動を見出すこと、ここに喜びを見出すことが、本物の信仰生活でしょう。


☆ 58節。

 『人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。』

 マルコ福音書では、『おできにならなかった』 … (そこでは何々することが出来なかった)。これは異様な表現です。マタイでは『あまり奇跡をなさらなかった』、マルコでは『することができず』です。

 故郷の人々の反応は、このような異様な表現でもって表現すべき事柄なのです。

 57節では、『このように、人々はイエスにつまずいた。』

 躓いたは、普通は神を信じないという意味で用いられます。

 54節では、『人々は驚いて言った』とあります。マルコでは、イエスさまは、人々の『不信仰を驚き怪しまれた。』と記されています。驚いたのは、躓いたのはむしろイエスさまの方です。ガリラヤの人々の『不信仰を驚き怪しまれた』のです。


☆ 57節後半。

 『「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」』

 これは良く言われるような郷里伝道の困難と言うことでありません。この出来事全体を、お里が知れると言うような次元の話にしてしまってはなりません。人は、どうして、真に救いにつながるものを求めないで、救いの足しにならないようなものにみ、目を奪われるのか。どうしてその異常さに気が付かないのかという話です。

 

☆ マタイ7章7節以下。

 『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。8:すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。9:あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。10:魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。』

 真に何を願い求めているのかが問われます。私たちが真に願いもとめているものは、魂の救いです。宝石のような希少価値ある言葉ではありません。なくてはならない空気や水のような言葉です。何時でも身の回りに溢れている空気や水、これに感謝しなくてはなりません。感動しなくてはなりません。勿論、何時でも開くことが出来る聖書の言葉に。