日本基督教団 玉川平安教会

■2023年8月6日 説教映像

■説教題 「御言葉におののく人々よ」

■聖書   イザヤ書 66章1〜6節 

     

◆今日の箇所については、第3イザヤの全体像ですとか、歴史的な背景とかは、なるべく省略してお話します。それでも充分読むことが出来ますし、第3イザヤの全体像とか、歴史的な背景とかを申し上げていたら、煩瑣ですし、却って分かりづらいことになろうかと考えます。

 取り敢えず順に読みます。1節の前半をご覧下さい。

  … 主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。 …

 玉座とは、王様の座る椅子とお考え下さい。

 イザヤ書の6章を連想させられる描写です。6章1節。

  … ウジヤ王が死んだ年のことである。

  わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。

  衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 …

 言わんとしていることは全く同じです。神さまは、人間の建てたちっぽけな建物の中に、収まってしまうような存在ではありません。全世界が神さまの住まいであり、それどころか、全宇宙に充ち充ちておられるのが神さまです。


◆1節の後半。

  … わたしのために神殿を建てうるか。何がわたしの安息の場となりうるか。 …

 全くこの通りでしょう。神さまを入れる建物など有り得ません。西欧のどんな大聖堂だって、神さまの足の指一つ入るものではありません。

 にも拘わらずなのか、だからこそなのか、分からなくなりますが、多くの民族、多くの宗教が、神さまを巨大化して来ました。巨大な偶像を建立し、それを容れる巨大な神殿を作りました。

 具体的に言うと、誹謗になるでしょうから具体名は隠しますが、この巨大な偶像を建立し、それを容れる巨大な神殿を作るために、農民が動員され、ために田畑で働く労働者がいなくなり、ために飢饉が起きたなどという、ちょっと訳の分からない話があります。

 しかも、そもそもこの偶像が作られた理由は、災害が起こり、それを神の怒りに触れたからだと考え、神を宥めるために偶像を建てたと言うのですから、もうちょっとどころではありません。全く、訳の分からない話です。


◆一方、日本では、神さまを神輿に乗せて運びます。神輿に乗せられる神さまは、随分とコンパクトサイズです。

 この頃は、コンパクトサイズの神さまの方が、人気があるように思います。

 『アーメンといったらしまい』というSFがあります。大分古い小説です。

 アメリカの近未来社会で、日本の神棚が大流行しています。お伺いを立てると、何事についても適切なアドバイスをしてくれます。神棚はどんどん小型化して、遂にはポケットサイズになります。何時でも、どこでも手軽に取り出すことが出来、パンパンと柏手を打ちさえすれば、直ちに機能します。アーメンといえばスイッチが落ちます。

 もうお分かりでしょう。神棚とはパーソナル・コンピューターです。この小説が発表された時は、未だ、そんな言葉はありません。著者も、まさか、これがパソコンとして実現し、更には、スマートフォンになるとは、思いもよらなかったでしょう。


◆小説の主人公は貧しく、最新の神棚には手が届きません。彼の神棚は旧式の馬鹿でかい代物です。ポケットに入れるどころか、彼は背中に担いで運んでいます。しかも、些かガタが来ています。スイッチを入れなくとも、何かの弾みで勝手にしゃべり出します。適切なアドバイスならよろしいのでしょうが、殆ど小言です。ああしろこうしろとうるさいことこの上ありません。

 主人公は、背中の神棚に怒鳴ります。「アーメンと入ったらおしまい」だろう。これが、風変わりな小説の題名です。


◆神棚、スマートフォン、多くの人間にとって、理想的な神さまです。沢山の優れた機能を持っていることも理由ですが、最大の利点は、スイッチをオンオフ出来ることです。

 作者がこれを日本の神棚に準えたのは、正に慧眼です。神棚の利点は、スイッチをオンオフ出来ることです。

 必要な時にだけ登場願い、必要なくなれば退出して貰えます。そして、オンオフは、人間が、自分の手に握っています。


◆大分酷く脱線しました。聖書に戻ります。2節、前半だけ読みます。

  … これらはすべて、わたしの手が造り/

   これらはすべて、それゆえに存在すると/主は言われる。 …

 偶像を作り、更にこれを納める神殿を作る人は、神さまを大切にし、崇めているように見えますが、実は、神を完全に自分の持ち物にしています。そもそも、この人が神を作ったのですから、確かに、神は、彼の持ち物に違いありません。

 この当時の人が、パソコンやスマートフォンを知っていたら、この人は、多分巨大なスマートフォンを作るでしょう。そして、スイッチは自分が、自分だけが握っているでしょう。他の人が触ることは許さないでしょう。


◆この当時の支配階級の人、王さまや祭司たちは、確かに神と通信するスイッチを握っていました。言葉や文字です。

 言葉や文字は、誰もがその気持ちや情報知識を伝えることが出来る道具だと考えられています。しかし、それは、事柄の片面でしかありません。むしろ、この当時、文字は、支配階級の人、王さまや祭司たちの独占物でした。普通の人は、このスイッチを持つことは許されませんでした。言葉でさえそうです。普通の人には全く通じない言葉こそが、ありがたい言葉だったのです。今でも、もしかしたら同じかも知れません。

 他の人には通じない言葉を引き下げて登場し、大人気を博する政治家は、少なくありません。具体的な名前は言いません。学者だってそうですし、マスコミも、薬品だって例外ではありません。毎年のように、これまで聞いたことがないような、口が回らないような、カタカナが現れ、ありがたがられます。そして間もなく廃れます。

 言葉や文字が、気持ちや情報知識を伝えることに用いられるのは、貿易に携わる商人が現れてからのことです。聖書世界ではフェニキア人です。


◆世の中のこと、政治の世界のことはどうでもよろしい、信仰の世界にさえ、これが登場します。分からないことがありがたいかのようです。

 私たちの教会は宗教改革の精神に立つ教会です。宗教改革にもいろんな意味合いがあります。しかし、一番大切なことは、聖書が一部の人の独占所有物ではなくなったことです。お祈りを、地位や立場のない人でも唱えることが出来るようになったことです。誰でも讃美歌を歌うことが許されたことです。

 しかし、これに逆行する人が、逆行することを唱え、神さまとのスイッチを独占しようとします。そして、困ったことには、このような人こそが、大衆の人気を得るのです。


◆また、脱線しています。2節の後半に戻ります。

  … わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。 …

 一番簡単に言います。神さまに通じるスイッチを持っているのは、本当は、ここに上げられた人々です。特権的に振る舞って、自分こそが神さまに近いと考えている人ではありません。自分の懐の中に、職人が作った高価な偶像を抱いている人ではありません。

  … 苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人。 … つまりは、神さまを必要としている人です。必要としながらも、近づくことが許されないでいる人です。近づいてはならないと、思い込んでいる人です。特権的に振る舞う人から、近づくなと禁止されている人です。


◆また、脱線します。幾つも例を挙げることが出来ますが、なるべく、最近に読んだ箇所を上げます。マタイ福音書20章30節以下。

  … 30:そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、

  「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。

   31:群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、

  「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。 …

 『憐れんでください』、これがスイッチでしょう。神さまと話すためのスイッチでしょう。他には、そんなスイッチはありません。

 神さまに訴えたいことがある人を、『叱りつけて黙らせようと』する人がいます。話すのは、自分だけの特権だと思っているからです。

 こういう人について、イエスさまが述べています。マタイ福音書6章5節だけ読みます。

  … 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。

    偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。

   はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 …


◆イザヤ書に戻ります。

 3〜4節は、簡単に説明します。詳しく述べる必要はないかと思います。

 ここに描かれている人、或いは行為には、大いなる矛盾があります。その矛盾に全く気付いていません。

 何故なら、彼らは信仰など求めてはいないからです。神さまを求めてはいないからです。彼らにとって、神とは、他の人間を支配するための道具でしかありません。


◆またまた脱線です。

 イギリスの中世を描いた小説『ヒストリアン』に出て来る場面です。小説ですが、著者は歴史家、中世史の専門家です。

 これから戦場に赴く騎士が、教会に出掛け神父から祝福を受けます。一つには、戦場で矢を受ければ、最後の臨終に際しての儀式・終油を受けられないかも知れません。それだと天国に行けないと教えられ、信じています。そこで、予め、命ある内に終油を受けるために、莫大な寄進をするのです。

 また、戦場ですから、女子どもを手に掛けることも考えられます。それは天国を妨げる行いだとは教えられ、信じています。そこで、予め、女子どもを手に掛ける償いの莫大な寄進をするのです。教会はその寄進を受け入れ、予め殺人の赦しを与えたのです。

 この人は信仰者なのでしょうか。3〜4節で指摘される人と全く重なります。


◆5節。

  … 御言葉におののく人々よ、主の御言葉を聞け。 … この『御言葉におののく人』は、2節と同じ人なのでしょうか。良く分かりません。多分そうでしょう。

 後半の

 … あなたたちの兄弟、あなたたちを憎む者/わたしの名のゆえに/あなたたちを追い払った者 …

 とは、3〜4節で指摘される人と同じでしょう。

  … 主が栄光を現されるように/お前たちの喜ぶところを見せてもらおう、と。 …

 彼らは、『御言葉におののく人々』の信仰を小馬鹿にしています。彼らが嗤っているのは、神さまそのものです。


◆そのような人は

  『恥を受ける。』と言われています。彼らが馬鹿にして言った言葉『お前たちの喜ぶところを見せてもらおう』が実現するからです。

 6節。

  … 都から騒がしい声がする。神殿から声がする。敵に報いを返される主の声が聞こえる。 …

 神さまを小馬鹿にする者、貧しい民衆を虐げる者は、神の報いを受けたのです。


◆現代にも、神の国へのスイッチを握っている者がいます。正確には、神の国へのスイッチではなく、破滅へのスイッチです。現在時点で所謂核のボタンを持っている人は何人いるのでしょうか。自分の指一つで、世界を破滅させることが出来ます。このような人は、『御言葉におののく人々』であって欲しいと思いますが、現実は真逆の人でしょう。

 20世紀には、このような人物が数多く登場しました。ヒトラー、スターリン、毛沢東、ポル・ポト、他にもいます。何百万人、何千万人の規模で、人間を殺戮した彼らが握っていたのは、破滅へのスイッチでした。


◆今現在、核戦争・第3次世界大戦の危機が、キューバ危機以来に高まっていると言う人が数多くいます。その通りかも知れません。

 名前を上げた人たちに共通しているのは、覇権主義です。その動機が何であれ、他の人間を支配し、その上に君臨する欲望です。つまり、聖書的に言うならば、偶像主義者であり、自分の懐に偶像を抱いている人です。彼らは、偶像を作ります。偶像を容れる神殿を作ります。そして自ら偶像として人々に崇められることを欲します。

 何とも悲しいことに、崇める人が今も、いるのです。