† 詩編146編以降、ハレルヤという言葉が繰り返し用いられています。これは直訳すれば、「讃美せよ」となります。148編150編で繰り返される『神を讃美せよ』と同じことです。 ハレネヤ・『神を讃美せよ』これがユダヤ教で礼拝が捧げられる根拠・理由・意味です。それはキリスト教でも同じことです。「讃美せよ」と、神が命令されるから、讃美します。 † 教会の礼拝にはいろいろな意味・要因が重ねられています。それは礼拝の式次第の通りです。懺悔があり、信仰告白があり、聖書の学びがあり、説教による説き証しがあり、献金もあります。祝福もあります。 しかし礼拝の原点は、出発点は「讃美せよ」にあります。礼拝は讃美です。 † だからと言ってもよろしいでしょう。礼拝の式次第は、それぞれ一つずつの構成要素が1回ずつ記されていますが、讃美歌だけは、3回、讃詠、頌栄も数えれば、6回になりますし、聖餐礼拝では更に一つ増えます。洗礼式でも1曲増えます。 これは単に、礼拝の構成要素の内で、特に讃美歌が大事だとか、人気があるといったことではありません。礼拝そのものが讃美なのです。讃美歌だけが讃美ではありません。礼拝そのものが讃美です。 そして、いろんな要素が組み合わされ、その中に讃美歌もありますが、全部が組み合わされ、全体が讃美です。礼拝そのものが讃美です。 † 逆に言いますと、讃美がない礼拝は礼拝ではありません。これは、讃美歌が歌われないと礼拝ではないという意味ではありません。礼拝そのものが讃美です。 常にお話ししていますように、時と場合によって、簡略な礼拝があります。教会・教派によっては、毎回の礼拝で聖餐式が執り行われます。聖餐式のない礼拝は礼拝ではないと考える教会・教派もあります。ローマカトリックのミサもそうです。と言うよりも、ミサイコール礼拝であり、ミサイコール聖餐式です。 しかし、多くの長老主義の教会では、聖餐式は月1回です。メソジストの教会は、クリスマス、イースター、ペンテコステの特別な礼拝の時だけ、聖餐式を持つのが普通でした。日本基督教団の多くの教会では、月1回プラス、クリスマス、イースター、ペンテコステのようです。つまり長老主義プラスメソジストでしょうか。 † 大脱線、大回りになっても、この機会にお話しした方がよろしいでしょう。長老主義の教会で、何故月1回の聖餐式なのか。それは、聖餐に与りたいと申出があった人について、役員会=長老会で審査し、可否の判断を下すからです。 申し込んでも、日頃の信仰の姿勢が良くないと判断されれば、聖餐に与ることが許可されません。ですから、月1回持たれる長老会の次の週に、聖餐式が執行されます。 この方式は、イギリスの長老教会では、未だに残っているそうですし、聖公会=イギリス国教会でも、聖餐式への申し込みという方式は残っているそうです。教会の前に郵便箱のような者が置かれていて、陪餐希望者は、名前を書いた札を入れます。 † 脱線に脱線を加えれば、これは、何故洗礼を受けていないと聖餐に与ることが出来ないのかということとも繋がります。しかし、あまりに長くなりますので、この話はまたの機会に譲りましょう。 † 脱線を終えて、話を元に戻します。今日の教会では、聖餐式のない礼拝があります。その方が、圧倒的に主流です。讃美歌を歌わない礼拝もあります。コロナ禍で、そんな教会が増えました。 病床で聖餐式を持つ場合もあります。洗礼式もあります。これも礼拝ですが、大抵讃美歌は歌いません。歌えないと言った方が正確でしょうか。また、この場合は大抵説教もありません。墓前礼拝もそうです。埋骨式もそうです。天候等によって、讃美歌は省略することが多くなります。説教もなかったり、ごく短かかったりします。 そんな場合でも、聖書の朗読はあります。説教がなくとも、神の言葉が語られない礼拝はありません。聖書の朗読はあります。火葬前の式でも、短かく聖書が読まれます。1行だけです。『主は与え、主は取り給う、主の御名は褒むべきかな』と言います。ヨブ記1章21節です。この式を火葬前式と呼びます。つまり、礼拝です。 † これが端的な例です。何もない礼拝、普段の式次第に盛られた要素が何もない礼拝、そこでも、例え1行だけでも聖書の言葉が読まれます。その1行が、『主の御名は褒むべきかな』です。つまり、讃美です。つまり、礼拝です。 『神を讃美せよ』と言う、神の言葉に、神の命令に答えた、礼拝です。どんなに短い礼拝でも、礼拝は讃美です。 † 逆に言いますと、どんなにたくさんの事柄を盛っていても、そこに讃美がなければ、礼拝ではありません。讃美の気持ちがなければ礼拝ではありません。 讃美歌の中には、とても讃美とは聞き得ない讃美歌もあります。嘆きの歌もあります。懺悔の歌もあります。ただ楽しいだけの讃美歌もあります。 しかし、全部讃美歌です。その全部を、讃美歌と言うのは、全く正しいと思います。嘆きの歌も、懺悔の歌も、皆讃美歌です。 † 12月24日に、讃美燭火礼拝を守りました。毎年、讃美燭火礼拝なのか燭火讃美礼拝なのか、分からなくなります。 前に付く漢字の方が大事ななのか、後の方が大事なのかも分かりません。 そもそも、讃美礼拝という言葉も良く分かりません。讃美歌が普段よりも沢山歌われるから讃美礼拝と考えている人もあります。特別に専門の人を呼んだりするからだと考えている人もあります。聖歌隊のあるなしだと考えている人もあります。 どの説も間違いではないでしょうが、どの説も正確とも言えません。 礼拝は全て讃美です。讃美歌を歌わない礼拝も讃美です。 † またまた脱線します。大脱線かも知れません。2022年は、12月24日が、普通に言われるイブ礼拝で、25日が日曜日でしたから、クリスマス礼拝でした。一番すっきりします。二日続きますから、忙しくはなりますが、気持ちはすっきりします。24日が68名、25日が67名の出席でした。出席人数的にも大変恵まれました。感謝です。 ところが、2023年は、24日が日曜日です。 そうしますと、例年に倣うならば、24日にクリスマス礼拝を守り、その夜に、イブ礼拝を持つこととなります。奇妙な印象がします。どのように守るか、役員会で決定しますが、なかなか大変です。議論になりそうですし、教会員誰もが納得出来る道がありますでしょうか、心配です。 † そもそも、教団、正確には教団出版局で発行している教会暦を見ますと、24日はクリスマス礼拝ではなく、待降節第4主日となっています。 玉川平安教会では、前任地も玉川でも、その前の松江北堀でも同じでしたが、多くの教会は、待降節第4主日をクリスマス礼拝としています。正しくは、待降節第4主日です。 ですから、お堅い教会では、待降節第4主日の次が降誕節第1主日礼拝ですから、これをクリスマス礼拝とします。2022年は、問題ありませんが、2023年は24日が日曜日ですから、この理解だと31日がクリスマス礼拝となります。 † 教団出版局の教会暦は、曜日によらず、25日をクリスマスとしています。25日にクリスマス礼拝を持つことを前提とした教会暦なのです。 私が決めた訳ではありません。昔から、そういう慣習でした。 そこで、多くの教会がそのようにしていますし、私もそうですが、待降節は第3主日までで、第4主日はなく、クリスマス礼拝になります。降誕節礼拝と呼ぶことが多いと思います。そして、次の主日が、降誕節第1主日です。降誕節礼拝の次が降誕節第1主日、何ともややこしい話です。 † さて、玉川平安教会では、イブ礼拝とは呼ばずに、讃美礼拝または燭火礼拝ですから、24日のクリスマス礼拝、正確には待降節第4主日礼拝の後に、燭火礼拝を守っても違和感はありません。多くの教会が、この理由ででしょう、イブ礼拝とは言わずに、燭火礼拝と呼ぶようになっています。 讃美礼拝ならば、24日とは限りません。真夏にもあります。ですから、24日の礼拝を讃美礼拝とするのは、これは、間違いだと言われるでしょう。 † このような、大げさに言えば混乱の根本原因は、イブという言葉から来ています。イブとは、多くの日本人が連想するお祭りの宵宮ではありません。英語では、クリスマスイブニング、クリスマスの晩、から来たのでしょうが、これも正しいとは言えません。 何故なら、ユダヤの暦、聖書の暦に従うならば、24日の日没と共に、日付が変わります。24日の日没後は25日です。クリスマス当日です。 拘れば、博士も羊飼いも、星を見て、つまり日没後、夜になってから、イエスさまの元に駆けつけました。つまりは、24日の晩です。それが25日です。 多くの人が特に日本人の大多数が、クリスマスイブ、クリスマスの前夜祭りと考えているクリスマスイブは、クリスマスの日、クリスマスそのものです。 † ここでやっと脱線から本筋に戻ります。 私にとっては、教会暦も讃美のあり方も、決定的に大事なことではありません。大事なのは、何時の礼拝でも、『神を讃美せよ』との言葉に応えているかどうかだけです。 ですから、2023年、教会の歩みを『神を讃美せよ』との言葉で始めたいと願いました。『新しい歌を主に向かって歌え』、この言葉で、1年の歩みを始め、歩み続けたいと願います。 † 『主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ』 『主の慈しみに生きる人の集い』正に礼拝です。礼拝の中で讃美してこその讃美です。単なる音楽集会ならば、その出来がどんなに素晴らしくても、それは讃美ではありません。どんなに讃美歌を歌っても、讃美ではありません。 『主の慈しみに生きる人の集い』でなければ、讃美は出来ません。『主の慈しみに生きる人の集い』でなければ、そこは教会ではありません。 ホテルの結婚式場でも、讃美歌が歌われます。音楽学校の生徒がアルバイトで歌う場合もあります。讃美歌の質は、普通の教会よりも数段上になるでしょう。しかし、そこは教会ではありません。讃美ではありません。 †『イスラエルはその造り主によって喜び祝い シオンの子らはその王によって喜び躍れ。』 これは正にクリスマスです。クリスマスとは、王の誕生、或いは即位を祝うことです。だからこそ『喜び祝い』、だからこそ『喜び躍れ』です。 更に 『踊りをささげて御名を賛美し 太鼓や竪琴を奏でてほめ歌をうたえ。』 これも讃美で、正にその故に礼拝です。 私は、自分の好みで言えば、いろんな楽器や踊りを持ち込む礼拝には違和感を覚えます。とてもなじめません。しかし、聖書に記されているのに、これは礼拝ではないとは、絶対に言えません。いろんな民族があり、いろんな音楽、いろんな踊りがあります。それらを用いて、讃美するならば、それは礼拝です。誰も否定出来ません。否定してはなりません。 † 全く同じ理由で、ギターによる礼拝もありますでしょう。パイプオルガンだけが本当の讃美だと主張する人がいますが、そんな馬鹿な。この人は、ユダヤ教・キリスト教徒の3000年を超える歴史の大半を否定するのでしょうか。 全く同じ理由で、ヒムプレーヤーによる礼拝を否定することは愚かです。オルガニストのいない教会を、それでも懸命に守られている礼拝を否定出来るのでしょうか。 全く同じ理由で、ギターがあり、太鼓があり、踊りがあって初めて讃美礼拝だと言う人も、その他の大多数の礼拝を否定するのでしょうか。 †『主は御自分の民を喜び 貧しい人を救いの輝きで装われる。 主の慈しみに生きる人は栄光に輝き、喜び勇み 伏していても喜びの声をあげる。』 讃美の喜びです。貧しくとも苦しくとも、讃美出来ます。それが礼拝です。 6〜8節は、字面だけ読むと、革命歌のようであり、暴力革命をも肯定するかのように聞こえますが、そこに強調はありません。 讃美こそが、貧しく人苦しむ人を救い出すことが語られています。讃美し、心の思いを神さまに向けるならば、必ず聞かれ報われ、平安が取り戻されると言っています。 私たちの教会でも同じことです。苦しみがありました。今もあります。新しい苦しみも生まれています。どんなに藻掻いても、ならないものはなりません。容易に解決しません。 しかし、その中での讃美こそが、礼拝を守り続けることこそが、神の民として、神に喜ばれ、数えられ、そして救いに与る唯一の道です。 新しい年、讃美の礼拝を捧げて歩き、続けたいと願います。 |