日本基督教団 玉川平安教会

■2023年7月23日 説教映像

■説教題 「権威にすがって生きる人」

■聖書   マタイによる福音書21章18〜27節 

     

◆二つの段落を取り上げています。その前半部から順に読みます。

 ここには、特別に難解な、と言うよりもアーメンと言えない二つのことが、しかも重ねて語られています。これも、順に一つずつ読みましょう。

 19節。

 『道端にいちじくの木があるのを見て、近寄られたが、葉のほかは何もなかった。

   そこで、「今から後いつまでも、お前には実がならないように」と言われると、

  いちじくの木はたちまち枯れてしまった。』

 イエスさまが『空腹を覚えられた』時に、道端にイチジクの木がありました。イエスさまはこの木に近づきました。しかし、ハッパばかりが茂っていて、実は一個も生っていません。そういうこともあるかも知れません。

 無花果は、無い、花、果実の果と書きます。この漢字の通りで、花も咲いていないのに、枝に実が付きます。逆に、葉が茂っていても、そこに実はありません。

 大雑把に申しました。詳しく説明すれば、もっとややこしいのですが、この出来事を理解する助けにならないどころか、却って話がややこしくなりますので省略します。


◆とにかく実はありません。それは仕方がありません。不可解なのは、イエスさまはこの木を呪われたことです。

 『今から後いつまでも、お前には実がならないように』

 無花果の木はたちまち枯れてしまいました。

 何故でしょう。何故と申しますのは、木が枯れたことではありません。イエスさまに呪われたら、それは、枯れるでしょう。

 何故とは、何故呪ったのかという点です。実が付いていないという理由で呪われたのです。イエスさまが何かを誰かを呪ったというような記事は、他にはありません。


◆この出来事をマルコ福音書で読みますと、

 『葉の他は何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。』

 と説明が付いています。

 マルコを読みますと、もっと不可解さが増します。『季節ではなかった』のなら、実がないのは当たり前です。それで呪われたら、たまったものではありません。

 マタイ福音書はマルコでは納得が行かないものを感じて、『いちじくの季節ではなかったからである』という説明を割愛したのかも知れません。

 しかし、マタイでも、大きな疑問が残ります。

 もしかしたら、イエスさまもお腹が空くと、気が短くなるのでしょうか。人間ならば、ままあることですが、そんな解釈は、冒涜的でさえあります。

 更に言うならば、イチジクは、聖書世界ではごくごく知られている、かつ重要な果実で、栄養源です。当然、イチジクの実の生りようについて、イエスさまはご存知の筈です。


◆答えは、後半部、更に次の段落を読まなくては分かりません。

 それを読み考え合わせれば分かるように記されています。

 しかし、敢えて、ここで答えを言ってしまいます。そうしないと、どんどん疑問が膨らんで、途中で投げ出したくなり、最後の結論まで辿り着かないかも知れません。

 ですから、福音書のせっかくの文学的技巧を損ねますが、ここで答えを言います。

 要するに、葉が茂っていても、実がありません。このことが問題です。これだけが問題です。

 先々週の箇所になります。ここでも、イエスさまは全く不可解と思える言動をされました。これも結論だけ申します。神殿は大勢の人々で賑わっていました。しかし、その賑わいの中に、本当の信仰はあったのでしょうか。そのことが問題視されています。


◆今日の箇所も図式的に同じ話なのです。むしろ、21章12節以下の出来事の説明かも知れません。

 実が生っていなければいけません。葉は、実が生るためには必要なものかも知れませんが、葉が目的ではありません。実が問題なのです。

 これは、信仰の譬えです。教会にも、信仰、希望、愛という実が生っていなくてはいけません。どんなに葉を茂らせていても、それ自体は、無意味です。


◆前半の二つ目の疑問です。21節。

  … イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、

   疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、

   この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、

  そのとおりになる。 …

 これを疑いなく信じている人がいます。信じなくてはならないと考える人がいます。

 本当にそのように信じて疑わないのなら、是非、やっていただきたいと思います。

 動かさなくてはならない山や川は沢山あります。現代の科学や医療ではどうにも解決出来ない問題が、苦悩が、それこそ山積しています。是非動かして下さい。政治や経済の分野でこそ、その問題は深刻です。今日この時にも、戦場で命を落とす人がおり、飢えにさいなまれる子どもがおり、日本の医療ならば助かる命を失う人がいます。


◆22節。

  … 信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。 …

 この言葉はイエスさまの言葉です。ならば、その通りに信じ、そして祈るべきでしょう。

 何故、この言葉の通りにはならないのでしょう。

 関連する聖句は沢山あります。しかし、ややこしくなりますし、主題からは外れますので、今日は触れません。今日の箇所だけで考えた方がよろしいでしょう。

 結論は一つです。信仰がないのです。信仰がありません。

 私たちにも信仰がないのか、足りないのか、良く分かりませんが、信じなくてはならないと考える人、本当にそのように信じて疑わない人に、実は、信仰がありません。

 葉は沢山茂らせて、ご大層なことを言っていますが、実は信仰がありません。だから山は動きません。ただ、それだけのことです。


◆最初の疑問と二つ目の疑問とを重ねて読んで下さい。一緒に考えて下さい。結論は明らかです。信仰がないのか足りないのか、これが結論です。

 良く言われることですが、新興宗教は、大伽藍を建てたがります。壮麗な儀式を司ります。つまり、葉っぱが沢山茂っています。僅かな期間の内の、林だって、森だって作ってしまいます。大抵は、林や森の中に大伽藍を建てます。

 しかし、そこに信仰はありません。少なくとも、指導者には信仰がありません。

 本当に信仰があると主張するなら、山を動かして下さい。動かさなくてはならない山が沢山あります。


◆新興宗教の教祖や指導者は、きらびやかな衣装を纏います。それによって、信者を圧倒し、その上に君臨します。しかし、そこには、信仰がありません。

 聖書の教えは、これとは真逆です。

 既に読んだ所です。マタイ福音書6章だけで充分でしょう。

  … 5:「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。

   偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。

   はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。

 6:だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、

   隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。

  そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。

 7:また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。

   異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。

 8:彼らのまねをしてはならない。

  あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。 …

 長い引用でしたが、これほど明確で、これほど、率直に私たちが従うべき教えは、他にありません。そのようにしてイエスさまは、主の祈りを私たちに与えて下さいました。


◆主の祈りを、心込めて祈るべきです。信仰者にとって、この祈りだけで充分かも知れません。山を動かそうとする必要などありません。山は、必要な時に、イエスさまが動かして下さいます。

 前半部をまとめます。ここは、如何に信仰を強めるべきか、如何に祈るべきかを論じているのではありません。

 むしろ、信仰のない自分を振り返りなさいという教えです。私たちには山を動かすような信仰はありません。だからなのでしょう。信仰以外のもので飾り立てようとします。しかし、それこそ、必要な時には、イエスさまが、山をも動かして下さるという信仰がない人の行いです。


◆使徒パウロは、自分を『土の器』と称しました。これは、一番廉価な、壊れやすいものという意味ですが、同時に、灯りを覆い、結果ランプの本来の目的である明るさを損ねてしまう高価なランプではない、福音そのものを覆い隠さず、表に表していると言う意味でもあります。

 私たちの教会も一人ひとりが『土の器』になるべきです。『土の器』こそが、福音を伝える一番の宝物です。宝石で飾る必要はありません。せっかくの光を遮ってしまう覆いなど、全く必要ありません。


◆後半部を読みます。むしろ読まなくとも、もうお分かりいただけるかと思います。

  … イエスが神殿の境内に入って教えておられると、

   祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。

   「何の権威でこのようなことをしているのか。

   だれがその権威を与えたのか。」 …

 葉っぱばかりが茂った『祭司長や民の長老たち』らしい言葉です。彼らには、地位・立場や衣装や冠はありますが、肝心なものはありません。信仰がありません。そういう人こそが、権威だとか権限だとか、身分・地位だとかと言い出します。これに拘泥します。それしかないからです。権威とか権限とかを振り回す人を見たら、信仰がないのだとみて、多分間違いありません。


◆これも以前に読みました。マタイ福音書13章53節以下です。

 イエスさまは郷里で説教をなさいました。これがとても優れた力ある説教だと、彼らも感じました。しかし、躓きます。

  … 会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。

   「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。

   55:この人は大工の息子ではないか。

   母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。 …

 人々にとって大事なのは、イエスさまのお話の内容ではありません。その肩書き、資格でしかありません。

 結果は58節。

  … 人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。 …

 山をも動かすイエスさまも、そこでは『あまり奇跡をなさらなかった』とマタイは言います。マルコでは、『出来なかった』と、よりはっきりと言い切ります。


◆25〜26節は、簡単に説明します。それで充分でしょう。

 外目ばかり気にして格好ばかり付けている人々は、当然ながら、人の思惑ばかり気にして、自分の考えのない人たちです。

  … 彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、

  『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。

   26:『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。

   皆がヨハネを預言者と思っているから。」 …

 自分の考え、自分の信仰など、初めからないのかも知れません。誰にどのように見られるか、どのように評価されるかだけが、彼らの関心事なのです。


◆27節。

  … そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。

   すると、イエスも言われた。

   「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」 …

 『分からない』、これだけが彼らの信仰の実際です。分からないのに、分からないからこそ、上っ面のことだけに捕らわれています。


◆最後に、マタイ4章の『荒野の誘惑』の箇所を思い出して下さい。イエスさまは、サタンの誘惑の言葉を退けられます。そんなイエスさまが、「山を動かして見なさい。そうしたら、あなたの信仰を認めよう」などと仰る筈ありません。サタンではありませんから。