◆新共同訳聖書の小見出しには、『「タラントン」のたとえ』とあります。本文も勿論、「タラントン」です。しかし、説教題は『タレントの譬え』としました。「タラントン」でもなく、タラントでもなく、『タレントの譬え』としました。 これは、看板用です。道行く人が『タレントの譬え』ならば、関心を持ってくれるかも知れないと思ったからです。タラントでは、意味が通じない、まして「タラントン」では、眼に留まらない、心に響かないと思います。 ◆『タレントの譬え』ならば、芸能人・タレントと言う時のタレントを連想するでしょう。「説教でタレントの話をするのかな」と、ちょっと立ち止まってくれるかも知れません。 芸能人・タレントと言う時のタレント、正に、この聖書の譬え話から生まれた言葉です。才能、能力という意味で用いられます。今は、どうも芸のない芸能人くらいの意味になっているようです。 ギリシャ語の本来の意味は、お金の単位です。1タラントンが、6000デナリオン、1デナリオンが労働者の一日の賃金といわれますから、1タラントンは、1億2千万円くらいでしょうか。大金です。 ◆このタラントンが、僕たちに分けられました。15節。 … それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、 もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。… 『それぞれの力に応じて』とあります。当然かも知れません。それぞれの能力・力量に応じて、事業の資本金として預けられました。 会社だったら当たり前でしょう。一タラントンの資金で事業に取り組み、相応の成果を上げたならば、その成果報酬を貰えるでしょうし、それ以上に、より責任ある地位に就くことになるでしょう。ごく自然です。当たり前です。 20〜23節を読みますと、このような解釈で間違いないように見えます。 ◆しかし、これはあくまでも比喩です。何を比喩しているのでしょうか。タラントンの額は、一人ひとりの能力を比喩しています。それは間違いありません。 それ以上の比喩を読み取る人がいます。むしろ定説でしょうか。 つまり、一人ひとりの人間が、その人生に与えられた能力というものがある、その与えられた能力を存分に発揮しなさいと、読み解きます。 自分にはありもしない能力を、能力が与えられていないとひがんだり、本当はもっと能力があるのに、チャンスが与えられていないと不平・不満を言ってはならないと、読み解く人もいます。これも、定説でしょうか。 ◆24〜25節。 … 24:ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、 あなたは蒔かない所から刈り取り、 散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、 25:恐ろしくなり、出かけて行って、 あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。 これがあなたのお金です。』… この人は、チャンスが与えられていないと不平・不満を言っているのでしょうか。どうもそうではありません。それ以上のことを言っています。 ◆『あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ』、明らかに批判です。不平・不満どころではありません。この主人を、不当な要求をする暴君だと批判しています。 私の個人的な感想を言わせて貰いますと、この1タラントンの男に、かなりの程度同情します。むしろ、共感します。 同情、共感するのは、自分の中にも、不平・不満があるからかも知れません。そのように自覚しながらも、言いたくなります。「5タラントン、3タラントン与えられた人に、本当にそれだけの才覚があったのか、自分だって1タラントンぽっちではなく、5タラントン、せめて3タラントン与えられていたら、それなりの成果を出すことが出来たのに」。私はそんなふうに思ってしまいます。私だけではない、多分、多くの人が同じ思いを持つのではないでしょうか。 ◆回り道かも知れませんが、少し、この方向でお話しします。奥羽教区の教師研修会で、ある偉い先生を迎えて講演を伺いました。その演題は「卵を産まない鶏は絞め殺される」でした。何とも凄まじい演題です。内容も、この主題から遠くはありません。要するに、伝道の成果が上がらない教会は、その存在理由がないということです。 それを、奥羽教区の老先生方は、鷹揚に、受け止めています。頷いている人もいます。 私は猛反発を感じました。「冗談じゃない。奥羽の地は万事に旧弊で、仏教神道の力が圧倒的に強く、とてつもない困難な伝道をしているんだ。大都市やその近郊の町と比較して貰っても話にならない。奥羽教区の伝道が振るわないと批判するなら、おまえがやってみろ」と、言葉は悪いのですが、それが正直な感想でした。 頷いて聞いている牧師たちにさえ、反感を覚えました。 ◆かなりの回り道ですが、もう少し重ねます。聖書研究祈祷会では既に話したことがあります。奥羽教区の中でも小さい教会の牧師の話です。この牧師の小さい男の子が、亡くなりました。何とも辛い死に様でした。汲み取り便所に落ちて死んだのです。そのショックがあったのか、牧師の、同居していた母親が倒れ、更に牧師自身が重い病で入院しました。 教会員も、周囲も同情しますが、同情できる程度を越えています。 シモーヌ・ヴェイユが言っています。「不幸は周囲の同情を招くが、この不幸が程度を越えると、周囲の人の嫌悪を招く」。その通りになってしまいました。特にいなかですから、この牧師自身が福音に活かされていない、だから不幸を招く、となってしまうのです。 パウロも、殆ど同じ意味のことを言っています。パウロが投獄されたことや、病を得たことが、教会員の躓きを招くのではないかと心配し、そのようにはならなかったことを喜んでいます。 ◆私は主任牧師の言いつけで、この人を見舞いました。それまで一度も、会ったことはありませんでした。病室を訪ねますと、牧師のベットを何人もの中学生や高校生、若者が囲んでいました。後で話を聞きますと、同じ病院に入院している若者が、何時の間にか牧師の元に集まるようになったのだそうです。 もし、この牧師が都会の若者が大勢いる教会で働いていたならば、間違いなく、大きな成果を上げたと思います。しかし、この人の教会は、若者なんかいない、1桁の礼拝出席でした。 せめて、教会の便所が汲み取り式でなかったなら。 これが、「卵を産まない鶏は絞め殺される」に猛反発を感じた理由です。その思いは、今でも変わりません。 ◆未だ未だ同様の話はありますが、聖書に戻ります。 「卵を産まない鶏は絞め殺される」は、間違いです。そんなことを言ってはなりません。そもそも、聖書が言っているのは、そんなことではないと、私は思います。 24節の最初をもう一度読みます。 … ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。 … 『一タラントン預かった』とあります。一タラントン、大まかな計算で1億2千万円です。大金です。私は見たこともありません。 しかし、この人は言っています。 … あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる … これは事実認識の誤り、むしろ、嘘です。ちゃんと『一タラントン預かった』のです。大金を元手として与えられていたのです。 ◆25〜27節は読みませんが、この主人の言う通りです。この男は、『怠け者の悪い僕』です。或いは根性が腐っています。自分の怠慢を、無能を、嘘で誤魔化しているだけです。 聖書・この譬え話では言及されていませんが、『一タラントン預かった』のに、他の人と比較して、嫉妬しているのでしょうか。 ◆またまた脱線かも知れませんが、この機会にお話しします。先日の聖書研究祈祷会で話したことです。この時は、ヨハネ福音書5章の所謂ベテスダ池畔の癒やしを読みました。主題は奇跡です。 多くの人が奇跡を重んじます。奇跡を信じること、則ち信仰と考えている人もいます。奇跡とは、本来の意味は、不思議な業、科学的には立証し得ないこと、ではありません。奇跡とは、神さまがなさった業の跡です。神さまの足跡と言ったら分かり易いでしょうか。 これも比喩ですが、神さまはこの宇宙を創造されました。地球を造られました。人間を造られました。これが、最初の最大の奇跡です。 奇跡だ奇跡だと騒ぐ人は、地球の上に、豆粒を一粒載せて、その分地球が重くなったと言っているのに過ぎません。地球があるのに、豆粒一粒だけを、大事に思う人です。豆粒一粒を加えようが、取り除こうが、地球の重さが変わるものではありません。 ◆これを人間に当て嵌めれば、命を与えられて、存在することが、それ自体が奇跡であり、これ以上、値打ちあるものなど存在しません。 5タラントンも、3タラントンも、1タラントンも、地球に豆粒を5粒、3粒、1粒加えた話に過ぎません。 しかし、自分は5タラントンも持っていると自惚れ、1タラントンしか持っていないとひがむのが、人間の正体なのでしょう。 ◆27節。 … それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。 そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。… 譬え話の解釈には限度があります。これに反発して、「最もリスクのない道を選んだので、この人に落ち度はない。銀行だって倒産するかも知れないのに。」と言うのは、屁理屈です。 この人は、やはり、最低限のこともしなかった怠け者です。 しかし、私たちだって、この人のようになってしまう恐れはあります。自分の健康や資産のことで、不平・不満を言うかも知れません。1タラントンを持っている人ほど、不満足かも知れません。 世の中には、1タラントンどころか、その10分の1も、100分の1も、持っていない人もいます。しかし、その貧しい蓄えでも、明るく元気に過ごしている人もいます。貧しくとも、健康でなくとも、日々の暮らしに感謝している人もいます。 ◆一方、この譬え話は、上を見上げたら切りがない、下を見下ろしたら、切りがないという話ではありません。 28〜29節。 … 28:さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、 十タラントン持っている者に与えよ。 29:だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、 持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。… これも財産や資金の話ではありません。あくまでも信仰の話です。信仰がないと、信仰を頼りに生きていないと、試練に出遭った時に、『持っていない人は持っているものまでも取り上げられる』と言う事態になります。 逆は信仰を持っている人です。試練に出遭った時にも、『持っている人は更に与えられて豊かになる』、それが可能になるのです。 ◆この譬え話は、一連の天国の譬え話の最後におかれたものです。天国の譬えです。 30節。 … この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。 そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 … 与えられた1タラントンに眼が行かず、5タラントンに心を奪われてしまう人は、つまり、感謝を知らない人は、むしろ恨む人は、多分、5タラントンにだって満足しないでしょう。5タラントン預けられても、結果は、同じことを言うでしょう。 ◆全くの蛇足となることを覚悟して言います。これは、自分の分に甘んじなさいという意味ではありません。まして、身分を弁えなさいと言う意味ではありません。間違っても、この譬え話を論拠にして、貧しい人、苦しんでいる人を裁いてはなりません。 そうではなくて、「神さまに与えられているものを見、数えなさい。与えられていないものを数えてはなりません。」という話です。何より、天国への道を、不平・不満を言って、自ら閉ざしてはなりません。 |