◆1節。 … ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。 目の前に、イエス・キリストが 十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 … 『物分かりの悪い』、とても強い表現が使われています。乱暴な言葉とさえ聞こえますが、原文は全くこの通りです。『物分かりの悪い』と言っても、頑固の意味に取ると、そんなには酷い悪口ではないかも知れません。 いろんな翻訳を見ますと、『物分かりの悪い』が多いのですが、『愚かな』、『ものの分からぬ』『訳の分からぬ』というようなものが見えます。矢張り、強い表現です。むしろ、馬鹿と訳すのが本当かも知れません。馬鹿では差別用語になってしまいますか。 ◆この1節には、他にも、理解困難な表現が見えます。 『目の前に、イエス・キリストが 十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。』 4節。『あれほどのことを体験したのは』 これは、どのような体験なのでしょうか。具体的には何も記されていません。 特に記されていないということは、ガラテヤ教会員誰にとっても承知のこと、今更説明するまでもないことなのでしょう。兎に角、とてつもない体験です。 この二つのことを併せますと、あり得ない程の体験をしたのに、もう忘れてしまったのか、なんという『物分かりの悪い』奴だ、むしろ「記憶力のない奴だ」という話です。 ◆どうしても、『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』という体験が何を意味するのかを知らなければならないようです。 昔、『猿の惑星』という映画ありました。核戦争を生き延び、ミュータントとなった人間の末裔を、進化した猿が武力を持って攻めて来ました。ミュータントたちは、猿の脳に働きかけて、幻想を創り出します。猿のモーセと言うべき存在の猿の大王が、十字架に架けられて血の涙を流している幻想です。 しかし、猿の兵団は、この幻想の障壁を打ち破ります。何のことはない、長時間幻想を持ち続けるほどには、脳が発達していないので、時間とともに、幻想が薄れたのです。 進化したとは言え、猿は所詮『物分かりの悪い』存在、もっとはっきりと、頭の悪い存在です。 ◆ガラテヤの人々の前にも、このような幻想、否、幻想ではなくその通りなのかも知れませんが、『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』現れたのでしょうか。それが、『あれほどのことを体験した』ということでしょうか。 その通りだと考えます。『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』現れたのです。文字通りではないかも知れません。文字通りではないでしょう。しかし、それに匹敵する体験、それ以上の実体験だったのです。 ◆そして、私たちも、このような体験をしています。 『目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿で』現れたこと、『あれほどのことを体験した』ということを、使徒パウロは、もう一つの言葉で表現しています。 それは、2節、3節、5節の、『霊』体験です。2節。 … あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。 それとも、福音を聞いて信じたからですか。 … これは、簡単に言えば、洗礼を受けた時に聖霊が与えられたことを指します。 ◆聖霊が与えられたということ自体、単純なことではありません。ある人は、正に、「霊を見た、霊に捉えられた」と言いますし、或る人は、「迷っている信仰への思いが、確信に変わった」と言います。 何れにしろ、他の人には見えないものが見えたのです。他の人には理解できないことが納得できました。決して均一な体験ではありません。しかし、何かが起こったのです。 しかし、記憶が薄れました。持続出来なかったのです。猿たちのように。 ◆似たようなことを実体験した人は、少なくありません。恋愛であれ、友情であれ、何かのスポーツや、趣味への傾倒であれ、『あれほどのことを体験した』のに、実に、あっさりと崩れる、薄れる、他のものに取って代わることは、ままあります。 パウロは言います。ガラテヤ4章19節。 … わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、 わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。… 人間も、信仰者も、ややもすれば、元の姿形、未体験の時に戻ってしまうのです。 ◆さて、ガラテヤの人々は、決して、あっさりと信仰を捨てたのではありません。 むしろ、何とか、しがみつこうとしてはいます。それが、戒律でした。2節。 … あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。 それとも、福音を聞いて信じたからですか。… 3節。 … “霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。… 5節。 … あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、 そうなさるのでしょうか。 それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。… ◆ガラテヤ教会員は信仰を捨てたのではありません。何とか守ろうとしています。その結果が、パウロの説く信仰義認論から、大きく外れてしまいました。 律法主義に走ったのです。彼らは、必死に、しがみつこうとしてはいます。 その結果は、自分の目で見えるもの、手に握ることのできるもの、自分の努力を、自分で計ることのできるものに惹かれます。 そうして、結果、キリストの十字架の贖罪を否定してしまいます。 ◆戒律の究極は、イエスさまに依れば、互いに愛し合うことです。 そして、それは、遡れば、創世記2章7節に行きつきます。 『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、 その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。』 神の霊、神の愛が吹き込まれない限り、それは、どんなに人間に類似した形を持っていようとも、土の塵に過ぎません。 ◆逆に言えば、土の塵に戻ったとしても、神の霊、神の愛が吹き込まれた存在は、決して、滅亡したのではありません。6節。 … それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」 と言われているとおりです。… 『神を信じた』、つまりは、見えない神を見たのです。『神を信じた』とは、他の人には見えないものを見たことであり、他の人には聞こえない声を聞いたことです。 見えない人は幻覚を見たと言うでしょう。聞こえない人は幻聴を聞いたと言うでしょう。しかし、『アブラハムは神を信じた』し、ガラテヤの人々も、見、聞いたのです。 それを、他の人にも見えるもの、他の人にも聞こえるものに置き換えてしまうことが、信仰のステージを上げることのように考えたのです。 ◆たまに、犬と散歩に行きます。そうしますと、あちこち、引っ張り回されます。 犬には、人間の目には見えないものが見え、聞こえ、そして臭いますから、結果、人間には予測できないところに、引っ張り回されます。 人間の鼻には分からないからといって、それが存在しないとは言えません。見えないからと言って存在を否定したら、非科学的でさえあります。 サメなどは、何十キロも先の血の臭いを嗅ぎ当てるそうです。何とも不思議な話ですが、間違いなく、事実です。 そのようにして、他の人間の目には見えないもの見、聞き、希望を抱いた者が存在するのです。ただし、間違える人もいますし、嘘をつく人もいますから、要注意です。 ◆7節以降は、随分前のことですが、礼拝で読んでいます。大事な所ですが、端折ってお話しします。7節。 … だから、信仰によって生きる人々こそ、 アブラハムの子であるとわきまえなさい。… 信仰上の根本的問題が取り扱われています。それは、神の民即ちイスラエルとは誰かという問いです。使徒パウロは、実に図式的と言えば図式的、白か黒かというような仕方で事柄を処理して行きます。 つまり、「アブラハムから生まれた者は全てイスラエルなのか、そうではない。例外がある。イスラエルと呼ばれたのは、イサクだけ。むしろ、半分だけだ。先に生まれたイシマエルの子孫はイスラエルとは呼ばれていない。」 「それでは、子のイサクから生まれた者は全てイスラエルか。そうではない。同じ父母から生まれた、しかも、長男のエサウの子孫はイスラエルとは呼ばれない。」 「だから、イスラエルとは誰か、それはアブラハムの血縁のことを言うのではない。」 こういう理屈です。このことが述べられるのは、ガラテヤ書の4章です。 ◆8〜9節は、このような前提に立って、創世記の表現を解説しています。つまり、信仰を心に抱いた者は、そのことで既に、アブラハムと同じ処に立つと言うのです。アブラハムの血につながる者ではなく、アブラハムと同じ信仰を与えられた者が、アブラハムの後継者であり、真のイスラエルだと言う主張です。 ◆「誰が救われるのか。誰も救われません。途中で倒れてしまいます。」、使徒パウロは人間の罪の現実を、そして死に定められた現実をそのように見ています。 ところで、律法の道をひたすらに歩み続けて、途中で倒れたなら、神さまが抱きかかえて助けて下さるかも知れません。否、助けて下さることを期待します。しかし、それは、律法の道を歩み続けて頂上に辿り着いた結果とは言えません。むしろ、逆です。 「私の足、私の力ではとても頂上まではたどり着けない。神さま助けて下さい。」と祈ったならば、それは、もう既に、使徒パウロと対立する信仰ではなくて、使徒パウロと同じ信仰義認の信仰です。 ◆13〜14節に述べられていることは、大変分かり憎いのですが、結局、十字架にのみ救いがあるということです。 使徒パウロは、決して、独善的なことを言っているのではありません。自分の信仰だけが正しくて、他は間違っている、そういうことを言っているのではありません。むしろ、逆です。 誰も、自分の行い、自分の感情、自分の哲学、自分の思想、そして自分の信仰で自分を救うことは出来ないと主張しているのです。 「自分の行いや持ち物ではなくて、イエスさまの十字架だけが私を救ってくれる。」、これが、信仰義認です。 ◆行いか信仰か、聖書の時代からの対立は、現代にも、引き継がれています。現代の教会でも、教会論の中心的な課題となる深刻な問題です。 事柄は、決して単純ではありません。どの角度から見るか、何処に立ってものを言うのか、それで随分、様相が違ってしまいます。 「教会はいろいろな差別に取り組む基地とならなければならない。」そんな意見には賛成できません。しかし、礼拝だけ守っていれば、他に何もしなくても良いと言うことでは勿論ありません。 ◆今ここで、簡単に結論めいたことを言えない程に、事柄は複雑です。当然、具体的な事柄については、議論があるし、その議論が対立的になるのもやむを得ないと思います。 しかし、どんなに世の中が複雑多様化しており、自然それと向かい合う教会の方も、単純には行かないとしても、このことだけは確かです。 「イエスさまの十字架と復活にのみ救いがある。他の何物も、この私の救いとはならない。」。この大前提に立って、その上で、議論が起こり、その議論が対立的になるのならば、仕方がないと考えます。議論にも、対立にさえ意味があるでしょう。 しかし、「イエスさまの十字架と復活にのみ救いがあるという信仰について異論がある、議論したい。」と言う人は、それは、教会の外でやって貰うしかありません。 ◆本日は日本基督教団の創立記念日に合わせた礼拝を持ちました。歴史的にはいろんなことが言えるでしょうが、教団を形作るものは、何よりパウロの説く信仰義認です。日本基督教団とは宗教改革の理念、つまりはパウロの神学に立った教会です。 |