◆先ず初めに二つのことをお話しします。これが、話の前半であり、その後にまた、二つばかりのことをお話ししなければなりません。 前半の話は、教会学校やキリスト教入門講座で、好んでお話しする所です。必ずお話ししなければなりません。初歩と言えば初歩ですが、むしろ基本とすべきです。 ◆10〜14節に描かれた比喩は、教会学校で好んで読まれます。子供たちにとっても、分かり易い、そして、説得力のある譬え話だからでしょう。要点だけお話しします。 一匹の羊が迷子になった時に、羊飼いは、99匹を「山に残しておいて」、一匹を捜しに出掛けます。「山に残して」です。野原には、オオカミのような獣も現れます。盗賊も出没します。99匹を「山に残しておいて」、迷子の一匹の捜索に出ることは、もしかしたら、愚かな策かも知れません。探している間に、オオカミや盗賊が出たらどうしますか。正しい策は、先ず、99匹の安全を確保してから、捜索に出ることではないでしょうか。 極端に言えば、迷子になるような駄目な羊には見切りを付けて、残された優秀な羊を育て、次の子供を作った方が遙かに効率的です。 ◆そもそも、山にいるのに、羊飼いは何故、羊が一匹足りないことに、気付いたのでしょうか。羊を飼う場所は決して平坦ではありません。平坦な良い土地は耕して畑にします。羊を飼うのは、大抵きつい傾斜地で、しかも、大きな岩がごろごろしています。この岩に隠れれば、羊も見えません。それなのに、どうして、羊が一匹足りないことに、気が付いたのでしょうか。 牧場の册の前で気が付いたと言うのなら分かります。97、98、99、おや一匹足りないぞというのなら、分かります。そういう話ではありません。 ◆例えば、メリーさんという名前の羊が、見当たらない、いないという話なのです。 何百頭という羊を飼っていても、羊飼いには、一匹一匹が分かるそうです。名前を付けているのかも知れません。 昔、ラップランドでトナカイを飼う人たちの話を読んだことがあります。ここでは、一人で数千頭のトナカイを飼うそうですが、一頭一頭を識別することが出来るそうです。 ◆97、98、99、おや一匹足りないぞという話ではありません。数が足りなくなったのではなくて、メリーさんが、見当たらない、いないという話なのです。 この100匹の羊の譬え話は、一匹一匹の羊が、羊飼い、即ち神さまにとって、掛け替えのないものだということを表現しています。 数字ではない。計算ではない。一匹一匹の羊が、掛け替えのないものだということです。 今日は、後のことをお話しする関係上簡単に説明致しましたが、やはり、イエスさまからの、このメッセージは、データ、数字に押しつぶされそうになって生きている現代人にこそ、聞いて貰いたいメッセージではあります。 ◆二つ目のことをお話し致します。 何故100匹の羊なのか、100は完全数だということが問題です。つまり、100から一つ欠けることで、全体の方が欠けたものになってしまうのです。損なわれたものになるということです。 100個入りのピーナッツの袋から、一個がなくなっていても、普通は、誰も気付きもしません。一つ一つ数えて、足りないことに気付き、ピーナッツの会社にクレームを付ける、余程まめな人が … ピーナッツだけに … 否、暇な人が、いるそうです。ですから、こうした品物には、何個入りとは書いていなくて、約何個入りと記してあるのだそうです。 約100個入りなら、分かりますが、蜜柑約10個入り、これも未だ宜しいですが、先日見た果物の箱には、約5個入りと書いてありました。 これも、クレームを警戒するあまりにだそうです。 ◆100も99も、似たようなものです。 しかし、例えばマンゴー、これは、大変高価です。宮崎産も食べたことはありませんが、沖縄産だともっと高価です。もし、これに、小さな傷があったとしたら、たちまち、値打ちはなくなってしまいます。1%の傷が出来たら、おそらくは、ほぼ無価値になってしまいます。 目方から言ったら99%無事だから、大したことはないでしょう。値段も1%おまけします。そういう訳にはまいりません。1%の傷のために、全部駄目になってしまいます。 100で一つ、100に一匹足りないことは、全部が不完全なものになってしまったことなのです。不良品です。 ですから、一匹を探すのは、一匹のためではなくて、全体のためです。 福祉とか、弱者救済ということも、同じ観点から考えなければならないと考えます。大きな公園に行けば、野宿の人のテントがあります。だから、せっかくの公園が汚らしくて台無しだ、そういう話ではありません。その現実こそが、私たちの社会に、傷があることを示しています。不完全で病んでいるのは、私たちの社会そのものなのです。 ◆三つ目にお話ししなければならないことは、実はマタイ福音書ではなく、ルカ福音書にしか当て嵌まりません。しかし、これがなかなか大事なことです。ですから、ルカ福音書にはみ出して読みます。 ルカ福音書の文脈は、マタイ18章のそれとは違います。 ルカ福音書15章では、1〜7節が、100匹の羊の譬えです。特に、最後の、7節を読みます。 『言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、 悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』 次に、8〜10節、なくした銀貨が見つかった話、これも、最後の10節を読みます。 『言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、 神の天使たちの間に喜びがある』 『喜びが天にある』『喜びがある』、全く同じ言葉で結ばれています。 更に、11〜32節は、放蕩息子の譬えです。ここにも、祝宴のことが出てきまして、結びは、次のようです。32節。 『だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。 いなくなっていたのに見つかったのだ。 祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』 放蕩息子の譬えについては、後日改めてお話したいと思っております。 ◆ルカ福音書には、無くしたものを発見して、神さまが喜ぶという話が並べられています。失ったものを取り戻して、神さまが喜ぶという話、同じ主旨の話が三つ重ねられています。 この点にこそ、ルカ福音書における100匹の羊の、最大の強調点が存在します。 そして、このことが、今日お話しした第1の点、第2の点と重なります。 100とは教会のことです。教会の礼拝のことです。 神さまは、教会を愛しておられます。礼拝を求めておられます。 100匹の羊の内の一匹が、今、此処に欠けているとすれば、イエスさまは、どうなさるでしょうか。私たちを教会に残して、その一匹を捜しに行かれるかも知れません。 ◆神さまの喜びのために、礼拝する。これは、私たちに決定的に欠けているセンスです。私たちは、何故教会に集まるのでしょうか。一人ひとりのことを言えば、それぞれに動機があると思います。それぞれに、きっかけがあると思います。 逆に言えば、礼拝に出ることを阻むものを、それぞれが持っているかも知れません。 しかし、私たちの側の理由付けや、きっかけは、絶対のことではありません。そうではなくて、神さまの側からの理由付けが大事なのです。 神さまが呼んでおられるのです。 私たちの教会にやって来ることを喜んで下さるのです。求めておられるのです。 ◆こんな風に申しますと、抵抗を覚える方もあるかも知れません。しかし、そこにだけ、最後まで礼拝に繋がり、守り続ける力が秘められているのです。 多くの方が仰います。 歳を取ってしまって、もう。きちんと礼拝を守ことが出来ない。讃美歌を歌っても声が出ないし、説教を聞いても分からない、分かったと思っても、直ぐに忘れてしまう。 そうだとしても、それは、何程のことでもありません。 讃美歌を歌うために教会に来ているのではありません。説教を聞くためでも、祈る為でさえありません。そうではなくて、神さまが呼んでおられるから、出て来るのです。神さまが呼んでおられると信じるから、出席し続けることが出来るのです。 讃美歌が歌えなくとも、祈りの声が出なくとも、神さまが喜んで下さいます。 逆に言えば、 人間の心は当てにはならない、他の事に惹かれていく時にも、礼拝に出るのが億劫な時にも、神さまは待っておられます。 ◆さて、マタイ福音書よりも、ルカ福音書に寄った話をしました。 マタイ福音書に戻ります。改めて6〜9節を、順に読みます。6節から。 … 「しかし、わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、 大きな石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる方がましである。 … 『石臼を首に懸けられて、深い海に沈められる』話は、アラビアンナイトにあります。中国の伝説にもあったように思いますが、はっきりとした記憶はありません。お経にもあります。アラビアンナイトより、聖書の方が年代的に先でしょう。 日本でも、コンクリートで固めて東京湾に沈めるというような言い回しがあります。何れも、二度と浮かび上がることがない絶対的な滅びだと強調されています。ダメ押しです。 『小さな者の一人をつまずかせる者は』、この刑罰を受けます。それほどの重大事です。 躓く方が悪いと考えてしまいます。少なくとも、躓く者にも問題があると言ってしまいます。しかし、イエスさまのお考えは違います。そのことが、後に記された100匹の羊の譬えを聞けば分かります。迷子の羊です。勝手に迷子になったのでしょう。それこそ自己責任でしょう。しかし、イエスさまのお考えは違います。 残された者は、迷子の羊を探さなくてはなりません。1匹いなくなったことに、無関心であってはなりません。 ◆7節。 『世は人をつまずかせるから不幸だ。つまずきは避けられない。 だが、つまずきをもたらす者は不幸である。』 イエスさまの時代も、マタイ・ルカ福音書が記された時代も、『世は人をつまずかせる』時代でした。迫害弾圧もありました。 しかし、私たちが、ここで考えるべきことは、信仰の自由という観念や思想ではありません。99匹の一人として、迷子の羊に無関心になっているのではないか、『人をつまずかせる』ことをしているのではないかという点です。 ◆8〜9節は、読みませんが、やはり、100匹の羊の話と重ねて読むべきでしょう。 8〜9節に述べられていることは、大変なことです。こんな目に遭ったら、たまったものではありません。不当に過酷な刑罰だとさえ思います。 しかし、それはイエスさまのお考えなのです。 ◆脱線かも知れませんが、現代で深刻な虐めの問題に繋がるように思います。 虐められっ子がいます。今日では、不用意に「虐められる子にも問題がある」とは言ってはなりません。しかし、内心は多くの人がそのように思っています。しかし、教養・常識があるから言わないだけです。自己責任だと言っている人も、言わない人も、99匹の一人です。勝手に迷子になったのだから自己責任だと考えています。 しかし、イエスさまは、その99匹の一人ひとりに、8〜9節の過酷な裁きを語っておられるのです。 ◆まして、無関心からではなく、はっきりと虐待の意図をもって虐める人を、虐めっ子を庇ってはなりません。今日では何故か、「虐める子こそ、問題を抱えている、かわいそうだ」となります。虐めは駄目だ、最低の行為だと言ってはなりません。言うと考えが浅いかのようです。しかし、内心は多くの人がそのように思っています。しかし、教養・常識があるから言わないだけです。言わない人も含めて、99匹の一人です。 「虐めっこは、性根が曲がっているのだから、救いようがない」と考えています。だから「間違っている」と言葉で言って叱らないだけではないでしょうか。見放しています。 不用意に庇うのも、実は、無関心からです。優しさでも、寛容でもありません。 ◆7節に返ります。『わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は』です。 信じない者はどうでも良いと言うことではないでしょうが、前提が『わたしを信じるこれらの小さな者の一人』です。つまり教会のことです。 イエスさまのこの譬えを、教会に語られた言葉として聞かなくては、教会の問題として受け止めなければ、何も聞いたことにはなりません。 |