日本基督教団 玉川平安教会

■2023年11月12日 説教映像

■説教題 「眼を覚まして

■聖書   マタイによる福音書 25章1〜13節 眼を覚まして

     

◆先々週と同じ聖書個所です。

 前回語りきれなかった大事なことがあります。但し、続きではなく、視点を変えた別の説教としてお話ししたいと思います。前回のおさらいは致しませんが、一部、それを前提としてお話しします。そのために分かり難いことがありましたら、受付に前回のプリントがあります。お帰りにお取り下さい。


◆2節。

  … そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった …

 このように言われた10人の乙女は、一人ひとりの信仰者を比喩しているのでしょうが、同時に、教会を指していると思います。3節。

  … 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 …  これが教会だとすれば、この教会は確かに『ともし火は持っていた』、つまり、この世にキリストを証しする『ともし火は持っていた』となります。


◆ちょっと散漫に聞こえるかも知れませんが、マタイ福音書5章14節を引用します。

  … あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。 …

 イエスさまは、一人ひとりの信仰者を、そして教会を、『世の光である』と仰いました。 引用を続けますと、15節。

  … また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。

   そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。 …

 福音の灯火を高く掲げなくてはならない、隠してはならない、隠されていてはならないと仰いました。


◆5人の愚かと評価された乙女たちも、この灯火を持っていましたし、その光で来たるべき方をお迎えしたいと願っていました。

 しかし、その光の元である油が尽きてしまいました。

 譬え話だからこそ、比喩的に解釈すれば、油とは、教会の灯火の元、福音そのもの、更には、信仰そのもの、聖霊そのものと受け止めて間違いないでしょう。


◆先週も引用しました。創世記2章7節。

  … 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、

  その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 …

 教会に流れる血、命は、神さまの息吹です。それはまた聖霊であり、愛です。

 もしこれが教会から失われれば、油が尽きた燭台のように、福音の灯火は消えてしまうしかありません。


◆25章に戻ります。3〜4節。

  … 愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。

  賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。…

 予備の油を用意することは出来ますが、予備の聖霊・愛・信仰を用意することは出来ますでしょうか。信仰にも余分が必要なのでしょうか。貯蓄が必要なのでしょうか。

 そうかも知れないなあと、つくづく思います。


◆逆に言えば、持ち合わせの信仰を、全て使い果たしても、未だ足りないことがあるかも知れないという話です。信仰は持ち物ではありません。あくまでも比喩です。

 例えばヨブの場合はどうだったでしょう。これに立ち入ると抜け出せなくなりますので、中身には、いっそ何も触れませんが、ヨブのように、立て続けに試練に出遭ったならば、これを試練として受け止め、乗り切る信仰が尽きてしまうかも知れません。

 少々のことなら、自分の体力・気力に見合った程度のことならば、却って効果を生む場合もあります。一病息災と言いますが、何かしら持病を持つことで、健康に注意するようになります。自分が苦しんだことで、他の人の傷みに気付くかも知れません。


◆しかし、程度を越えますと、信仰が傷みを和らげるどころか、傷口をえぐる役割を果たしてしまいます。これも具体例を挙げるならば、ヨブ記になるでしょう。ヨブ記には触れませんが、肉体の痛みが、「何故神さまは、私を見捨てておられるのか。悪者を罰するのではなく、何故、私を苦しめるのか」と、肉体の痛みよりも辛い、心の痛みを引き起こしてしまいます。

 諄いのですが、これがヨブ記の主題です。いろいろとお話しするよりも、具体例に当たるよりも、ヨブ記を読む方が早いと考えます。ですから、ヨブ記の中身には触れません。


◆私はメンソレータム愛好家です。能書きに、いろいろな効果を謳っていますが、私は能書きにないことにも使います。大変役立つ薬だと思います。万能薬かも知れません。

 しかし、万能と言っても、ほどほどの傷や症状に効くということです。酷く悪化した傷には使えません。これで誤魔化していて、お医者さんに診て貰わなかったら、手遅れになるかも知れません。万能を謳うものは、大抵そんなものでしょう。それが役割でしょう。

 温泉もそうです。万病に効くと言われます。嘘ではありません。しかし、これに頼りきって、癌の手当が遅れ、亡くなった人がいます。

 かの有名な、秋田の玉川温泉に通い続けて亡くなった人がいます。


◆どんどん話が飛躍しているかも知れません。脱線かも知れませんが、もう少しお付き合い下さい。

 最近、と言っても数十年来でしょうか、牧師の間で、カウンセリングのことが、尊重されています。確かに大事なことかと思います。

 私は、未だ若い時に、教会員に頼まれて、ある女性の心の相談を引き受けました。躁鬱病で、何度か入退院を繰り返していました。この人が、教会に近いこともあって、頻繁に尋ねて来ます。その度に、1時間2時間、時にはそれ以上の時間を掛けて面談します。

 電話で4時間、愚痴話に付き合ったことさえあります。

 

◆そもこの人を紹介して来た教会員に、ある時に言われました。「先生、もう少し親身になって話を聞いて上げて下さい」。

 週報に、今日は誰と会った、誰の話を聞いたと載せる牧師がいます。何か考えがあるのでしょうが、私は載せません。そんな話は他の教会員にはしません。

 後で、全く必要に迫られて、心理学や精神病理学の入門書程度の本を読みました。そこに一様に書いてあることと照らしますと、私のやっていたことは、週に何十時間も掛けてやっていたことは、全く間違いどころか、決して、してはならなかったことでした。

 心の風邪を引いた人に、心どころか体まで疲れる程に話をさせてはなりません。意見・批評をしてはなりません。励ましてはなりません。これが基本の基本です。私は、真逆のことをしていたようです。

 幸い、この人は、教会に通うようになってから、再入院することはなく、やがて洗礼を受け、いろいろと悩むことはあったようですが、信仰生活を続けることが出来ました。

 しかし、結果論に過ぎません。牧師の生兵法は、大けがの元になりかねません。


◆どんどん話がそれますので、結論を急ぎたいのですが、もう一周だけします。

 人間には話し相手、相談相手が必要です。先ずは、今晩のおかずは何にしようかと相談出来るような友だちが必要です。このような友人は貴重です。何人かは必要です。そういう軽い噂話のようなことが出来るのは、大切な人間関係です。

 しかし、この友人に、あまり深刻な話はしない方が良いでしょう。関係が重くなります。意見の違いに気付いて、がっかりするかも知れません。拗れます。

 大事な相談は、少し人を選ばなくてはなりません。口が堅いとか条件が出て来ます。あまり親身に聞いて貰うと、結局、その人の心を苦しめ、重荷を与えるかも知れません。


◆専門的知識が必要な相談事もあります。これは、やはり専門家が良いでしょう。中途半端では間に合わないし、却って拗らせます。深刻な話もあります。深刻な話の相手こそ、選ばなくてはなりません。

 もっともっと大事な、容易に人には話せないこともあります。

 その場合には、神さまの前に額づくしかありません。

 話を逆に辿りますと、神さま相手に、晩ご飯の相談をしてはなりません。私たちは、これをやってしまいます。「神さま早く風邪を治して下さい」と当たり前に祈ります。


◆世の信仰では、これが普通です。ですから、刺抜き地蔵から、受験専門、金儲け、縁結び、様々取り揃えられています。

 コンビニエンスな神さまで、結構かも知れませんが、これで間に合えば、結構かも知れませんが、どうも肝心な時には、役立たないようです。コンビニエンスな神さまに、重要・深刻な相談をしても仕方がありません。


◆未だ未だ触れたいことがありますが、聖書に戻ります。5節。

  … ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。…

 『皆眠気がさして眠り込んでしまった』。当然です。全く寝ないで待っていたら、体力も気力も弱り、それこそ、肝心な時に何も出来なくなるでしょう。『賢いおとめたち』も眠っていました。

 賢くて、イザと言う時の備えが、日頃から出来ていたら、安眠できるかも知れません。

 私などは、布団に入ってから、なすべきことが思い出されて、眠れなくなります。


◆6節。

  … 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。…

 花婿が来るとは、終末に重ねられていますから、何か恐ろしいことが起こるという印象が強いのですが、基本は、花婿を迎える喜びの時です。

 ですから、準備が足りなくて間に合わないと言うのも、それで恐ろしい目に遭うと言うよりも、喜びの時を逃すと考えた方がよろしいでしょう。

 神の国、天国そのものも同じです。

 天国に行けない、地獄行きだ。その通りかも知れませんが、地獄への恐怖に重きを置かないで、天国を思うべきでしょう。


◆7節。

  … そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。…

 乙女たちは、皆眠ったし、ここでは皆起きました。愚かな乙女は、起きなかったのではありません。ただ、起きた後の備えがありません。 8節。

  … 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。

   わたしたちのともし火は消えそうです。』…

 信仰は、人に分け与えることが出来る持ち物ではありません。油ならば可能かも知れませんが、信仰は、一人ひとりが自分で備えなくてはなりません。人から貰うものでもないし、買い取ることも出来ません。ローマカトリックは、免罪符という形で、これを売り出しました。それが、宗教改革の直接的なきっかけです。

 

◆以上のことを、教会に当て嵌めて考えなくてはなりません。

 教会は、礼拝を守っているのだから、眠りこけてなんかいません。少なくとも、起きるべき時には起きています。福音の灯火もちゃんと掲げています。

 しかし、予備の油を持っているでしょうか。

 譬え話には解釈の限界がありますが、多様性もあります。

 私の個人的解釈かも知れませんが、こんなことを思います。先ほど上げた、世の諸々の小さい神さま、これを拝むことで小さな安心を得られるという人がいるなら、その人を、邪教の神を信ずる異教徒だと批判しなくとも良いでしょう。

 しかし、教会がこれを真似して、現世利益と言いますか、この世の諸問題にばかり拘わっているのは、間違いでしょう。むしろ、小さな神々ほどの御利益はないでしょう。

 これも先ほど申し上げた、心の平安みたいな話だったら、教会よりも、ずっと効果ある専門の病院に通った方がよろしいでしょう。


◆もう一つの解釈は、より現実的な意味での教会の将来像です。教会の、玉川平安教会の10年後、20年後を心配する人がいます。心配は無理もありません。算盤を弾くようにして教会の10年後、20年後を思い描いたら、ことは深刻かも知れません。

 私はそのような人に申し上げたいと思います。「あなたのように、教会の将来を心配する人がいたら、いるから、教会は大丈夫です」と。

 これと、将来を憂えることとは同じではありません。このままでは沈没だと指摘し、とにかく何か手を打たなければならないと大声で言う人は、却って、難船を招きます。

 勿論、建物の修理はしなくてはなりません。燭台も更新しなくてはならないでしょう。なすべき備えは沢山あります。

 しかし、一番肝心なことは、蝋燭を、油を備えることです。つまり、信仰そのものの手当です。つまり、礼拝そのものを守り続けることです。