◆3節前半。 … イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、 ひそかに言った。 … 『ひそかに言った』と記されています。 『ひそかに』ですから、限られた者だけに話し、他の者には隠されたということになります。『弟子たち』と言っても、12弟子のことなのか、もう少し人数が増えるのか、それは、判然としません。 結論は出ませんが、これが他の記事と比べて異質であるということは、分かります。 難しく考えないで素直に読めば、これは秘密の預言です。『弟子たち』、結局は私たちキリスト者限定の秘密の預言です。誰にでも話せる、誰にでも通用する話ではありません。 ◆3節後半。 … 「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。 また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」 … 秘密を打ち明けられた弟子たちは、その徴を求めます。 『そのこと』とは、当然1〜2節で暗示されたエルサレム神殿崩壊の預言ということになりますでしょうが、厳密には、既に時間も場所も変化していますから、エルサレム神殿崩壊に限定する必要はないでしょう。世の終わりでも良いかも知れません。 『いつ』『どんな前兆が』、私たちが一番知りたいことです。多くの異端的な教派は、このことに執着します。『いつ』『どんな徴が』それを知ることが即ち、信仰の奥義を知ることであるかのように考えます。 ◆この問に対して、イエスさまが『いつ』どのようにしてとは、お答えになりません。 この点についても、専門の学者はいろいろと仮説を立てています。その仮説は正しいのでしょうが、一人の信仰者として読む時には、あまり気にしなくても良いと思います。 肝心なことは、イエスさまが終末を預言しておられるという点、そして、『いつ』『どんな徴が』という質問には、直接には答えておられないという点です。 ◆4〜5節。 … 4:イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。 5:わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、 多くの人を惑わすだろう。 … 4〜5節は、『いつ』『どんな徴が』という問に対しての答えではありません。むしろ、『いつ』『どんな徴が』に拘ってはならないということでしょう。『いつ』『どんな徴が』に拘って、いろいろな根拠のない説を立てることは、『人を惑わす』ことに過ぎません。 ◆ここで二つのことを確認しておきたいと思います。 一つは、エルサレム神殿崩壊の預言とは、即ち、イスラエル滅亡の預言です。誰の目にも絶望的状況であることは確かでした。しかし、未だ滅亡してはいません。 起源70年頃に、エルサレム神殿が陥落したことは歴史的事実ですが、その後も、ユダヤ人の抵抗運動は繰り返されます。 神の御守りがあれば、ローマと闘って勝てると思っている者も存在していました。一時的には、勝利したこともありました。そのタイミングで、エルサレム神殿崩壊を預言したのです。未だ諦めきれない人間に取っては、とどめを刺されたも同じです。 ◆結論を急がないで順に読みます。6節。 … 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。 そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 … 『まだ世の終りではない。』です。ですから、『いつ』『どんな前兆が』という問いに対する答えではありません。7節も同様です。 この世の終わりが来る、しかし、それは今ではないとはっきり仰っています。 当時、とは、イエスさまの時代であり、マタイの教会の時代です。両者には50年の開きがありますが、ユダヤ教徒にもキリスト者にも、世の終わりを思わせるような、危機的な時代であり、曲がった時代です。50年の開きがあっても、本質的な状況は何も変わりません。そのことは、現代にだって通じるでしょう。 現代も、いろいろな点で、曲がった時代であり、危機的な時代です。2000年前の、パレスチナとは政治的な状況などは、随分と違うかも知れません。しかし、現代もまた曲がった時代であり、危機的な時代です。それは、およそ人間の歴史のどこを切り取っても同じです。 ◆私たちは、何故『いつ』『どんな徴が』を知りたいのでしょうか。それに備えて対策を講じなければならないから。その通りです。しかし、それなら、今直ぐ、それに備えて対策を講じれば良いだけです。何故今直ぐにしないのか。無駄はしたくないからです。 取り敢えず今直ぐに備えが出来ないのは、他にしなければならないことが、したいことがあるからです。何時かは来るが、何時かは分からない大地震に備えるのは大変です。1年前に知りたいと思います。半年前でも、10年前に知るよりはましです。 グリム童話にこんな話があります。手元に本がありませんし、題名を忘れましたので、調べようもありません。正確な引用ではありません。 英雄・豪傑を志す或る若者が、ひょんなことから死に神の手先を助けます。その交換条件として若者が要求したことは、死の危険に瀕した時には、それと知らせてくれということででした。逆に言えば、死に神の手先の知らせがない限り、若者は安全だということになります。そこで、若者はどんな時にも少しも危険を恐れず、死をものともせず、闘うことが出来、勇者の名前を恣にします。そんな彼も、いよいよせっぱ詰まったはめに追い込まれました。傷は猛烈に痛み、体は弱り、絶体絶命と見えます。しかし死に神の手先の知らせがありませんから、彼は未だ大丈夫と考えていました。 そして、死んでしまいます。死んでしまった彼は、地獄で出会った死に神の手先に約束違反だと文句を言います。死に神の手先は、答えます。「ちゃんと教えた。痛みや苦しみを送った。それでも気付かないから、一段と酷い痛みや苦しみを与えたではないか」と。 ◆私たちが、何故『いつ』『どんな徴が』を知りたいのは、必ずしもそれに備えてきちんと対応したいからではありません。むしろ、無駄な努力をしたくないからです。未だ大丈夫な期間を知って、安んじていたいからです。 ◆7〜8節は後回しにしまして、9節。 … そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。 また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 … どうも、ローマ帝国の弾圧を指しているように聞こえます。マタイ福音書を一世紀の終わりに記された、85年以降ではないかと言う人が多いようです。 少なくとも、6節の『慌てないように気をつけなさい。』という言葉は、二つの時代に共通した戒めです。それは現代でも同じでしょう。 ◆6節からもう一度読みます。 … 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。 そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。 … エルサレム陥落か、その前後の状況です。イエスさまの時代よりは40年後のことです。しかし、イエスさまの時代に既に同様のことが起こりました。 繰り返し、ローマへの抵抗運動があり、大勢の若者が命を落としました。危機意識が強くなれば成る程、武力蜂起を訴える者が現れ、これに従う若者が増えます。勝利を信じる者もいたでしょうが、勝ち目は絶対にないと承知で、承知だからこそ、絶望的としか思えない戦場に馳せ参じます。愛国的な青年です。 その人々に対してこそ、『まだ世の終わりではない。』と説きます。 これが何を意味するか、明らかです。一番簡単に言えば、いまは、命を賭する時ではないと言っています。徒に命を落とすのではなく、時を待ち、その時にこそ、命がけで戦いなさいと言うことではないでしょうか。 ◆7節。 … 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。 … 人々が想像するよりもっと酷いことになると預言します。しかし、それは『まだ世の終わりではない』し、『産みの苦しみの始まりである』と説きます。 これは、どの時代にも通用する教えではないでしょうか。 人間の世にはいろんなことが起こります。絶望しないではいられないことが起こります。 この世はもうじきおしまいだと、何もかも投げ出す人もいます。 もうじきおしまいだから、飲め歌え、踊れとなる人もいます。もうじきおしまいだから、命を惜しまず、戦えと言う人もいます。 ◆状況は誰にとっても同じです。絶望的としか思えません。しかし、イエスさまは、『まだ世の終わりではない。』と仰いました。飲め歌え、踊れ、でもないし、戦え、でもありません。また、『まだ世の終わりではない。』、人によっては、何とも辛い預言です。苦しい日々は終わりません。未だ未だ続きます。 あまり苦しいと、問題を解決することは願わなくなります。とにかく終わることだけを願います。極端には死んだ方がましだと考えます。それが絶望です。 ◆しかし、イエスさまは仰いました。8節。 … しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。 … 『産みの苦しみ』です。何者かが生まれ出てくるための苦しみです。傷みは和らぎません。終わりません。しかし、何者かが生まれ出てくるための苦しみです。 しかもそれは、『産みの苦しみの始まりである。』、直に止むのではありません。未だ未だ続きます。今以上の苦しみが待っています。 しかし、何者かが生まれ出てくるための苦しみです。 ◆9〜10節では、より大きな試練が預言されます。 … 9:そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。 また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。 10:そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。 … 何とも過酷な預言です。神さまの言葉ならば、もう少し、人を慰め励ますものであって欲しいと願いますが、過酷です。 このような過酷な預言が語られるのは、それが避けようもない事実だからです。そして、イエスさまの時代の、マタイの時代の免れられない現実だからです。 これも、私たちの時代に私たちの教会に、全く当て嵌まるかも知れません。 ◆11〜12節。 … 11:偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。 12:不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。 … 9〜10節の預言は、現代にぴったりと当て嵌まるとは思われないかも知れません。しかし、11〜12節は、全くその通りと思われます。現代は、現代の教会は、このような状況にさしかかっています。それならば、9〜10節の預言も、現代にぴったりと当て嵌まると考えるべきでしょう。 ◆迫害弾圧は熾烈です。それが原因で教会内の分裂も起こります。13節。 … しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。 … 『私の名のゆえに』 … キリスト者であるが故に、すべての人から憎まれる。なんとも辛い預言です。私たちはキリスト者であるが故に、世のすべての人から憎まれるのです。現代でも、憎まれないまでも疎まれるでしょう。敬遠されるでしょう。真面目に生きていると、そのように思われてしまいます。 『しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。』 単に慰めを語っていてるのではなくて、キリスト者であるが故に、正しい信仰の道を歩いて来たがために、絶望を味あわなくてはなりません。最初から、先週の言葉で言えば、『正義、慈悲、誠実』、これを持っているから苦しまなくてはなりません。そんなものがなければ、苦しまなくても良いでしょう。不道徳な人には、そんな苦悩はありません。 しかし、『正義、慈悲、誠実』これを持って苦しむ、その道は、究極の救いにつながっているという逆説です。 つまり、今日の箇所全体が、表面的に見れば絶望的な状況を描いているようでありながら、実は、救いの道を描いているのであり、滅びが待ち受けているぞと脅しているのではなくて、救いの道が存在することを、また、その道を歩き続ける上で必要な勇気を与えているのです。 救いの真の確かさを何処に見るのか、建物の豪華さや祭儀の華麗さに見出そうとすれば、滅びが待っています。しかし、主の十字架を見詰めるならば、不思議なことに、救いが展望出来るのです。 ◆滅びの預言は、現代の教会にも語られていると考えます。少なくとも、そのように聞くべきです。しかし、それは単に滅びの預言ではありません。この危機を直視し、覚悟し、そして耐える者にだけ未来があります。 教会は何時でもそうですが、どんな逆境時にも述べ伝える務めがあります。今は条件が整っていないと言い訳は出来ません。しかし、同時に、逆境に耐え、福音を守り抜く覚悟も必要です。耐えて守り抜く教会にだけ、未来があります。 一人ひとりの信仰者も同様です。耐えて守り抜く者にだけ、未来があります。 |