日本基督教団 玉川平安教会

■2023年6月4日 説教映像

■説教題 「嫉妬の向け所」

■聖書   マタイによる福音書 20章1〜16節 

       

◆この出来事と言いますか、譬え話を読んで、多くの人が不可解に思うのは、むしろ不満に思うのは、この一点です。

 何故、短い時間だけ働いた者と、長い時間働いた者との報酬が同じなのか、これを、容易に受け止めることが出来ません。

 その疑問・不満は、12節にそのまま記されています。

  … 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、

   暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 …

 この人たちの言い分は良く分かります。自分が同じ立場だったら、納得が行くでしょうか。どうしても不満が残ると思います。


◆マタイ福音書は、不満の理由についても、記しています。説明しています。10節。

  … 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。

   しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 …

 これは当然でしょう。後から来てちょっとだけ働いた者が、1日分の賃金を貰ったのを見たら、朝から働いていた自分はもっと貰えるだろうと期待します。当然でしょう。

 それが、同じ額に過ぎなかったら、がっかりします。そして不満を持ちます。当然だと思います。


◆主人は説明します。13〜14節。

  … 13:主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。

   あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

  14:自分の分を受け取って帰りなさい。

   わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 …

 主人の言う通りです。主人は不正をした訳ではありません。約束を違えたのでもありません。約束通りの賃金を支払いました。

 朝から働いていたと言っても、それは最初の約束通り、契約通りです。不満を言う根拠はありません。

 しかし、この説明で納得は出来ませんでしょう。契約は守られたと言いながら、何か、裏切られたような気持ちが残ります。欺されたような感情を拭うことは出来ません。


◆不満を持つ労働者の気持ちをもう一度見ます。12節をもう一度読みます。

  … 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、

   暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 …

 特に『まる一日、暑い中を辛抱して働いた』、この言葉が重要です。彼らは、『辛抱して働いた』のです。出来ることなら、労働時間は短いほど良いでしょう。『暑い中を辛抱して』、それは嫌です。なるべく楽して、そして、貰うものは貰いたい、それが、労働者の本音です。労働者の当然・正統な権利意識でしょう。

 植木等の『楽して儲けるスタイル』までとは言わなくとも、『まる一日、暑い中を辛抱して働いた』のに、『楽して儲ける』人を見たら、気分が悪いでしょう。


◆このような光景は、実際に多々見られることだろうと思います。会社の中でも、とても忙しい部署と、定時に帰ることが出来る部署とがあろうかと思います。それが全く同じ賃金だったら、不満が生まれます。

 ここにヒントが隠されています。忙しく残業が多い部署の人が、暇な部署の人を羨ましく思うことはあるでしょう。

 逆はどうでしょうか。暇な部署で定時に帰れる人が、忙しい部署の人を羨むこともあるかも知れません。残業手当が入ることが羨ましいかも知れません。

 忙しい部署で残業手当が付かず、サービス残業を強いられたら、それは、とても不満でしょう。


◆ここで、逆のことを見たいと思います。同じ出来事であっても、視点を帰れば全く別の光景に映ります。

 3節から順に見ます。

  … 九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいた …

 仕事にあぶれた人が、1時間でしょうか、2時間でしょうか、立ちんぼを続けていました。他に仕事が貰えるあてがないからです。立ち続ける他に何も出来ないからです。立ち続けるその場所は涼しい所だったのでしょうか。そんなことはないでしょう。

 

◆5節。

  … 主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした …

 この人たちは、8時からだとしても、既に4時間、或いは7時間、立ちんぼを続けていました。それでも立ち続けなければならなかったのです。時間が経つにつれて、どんどん、仕事が入る可能性は少なくなっていきます。それでも、思い掛けないことが起こるのを、待つしかありません。3時にもなっていたなら、ほぼ奇跡を願う心境でしょう。

 『まる一日、暑い中を辛抱して働いた』人たちと、どちらの方が辛いでしょうか。

 朝から働いていた人たちは、少なくとも、時間が経ちさえすれば、賃金を貰って帰るという見込みがあります。家族の所に、食べ物を届けることが出来ます。そういう見込み、希望を持って、きつい労働に耐えることが出来ます。


◆しかし、9時の人は、1時間、2時間かも知れません。相当に気をもんだことでしょう。今日は駄目かも知れない、今夜の食事はないかも知れない。子どもがお腹を空かして泣いているかも知れない。そういう気持ちを、紛らしようもなかったことでしょう。

 まして『五時ごろに雇われた人たち』は、不安を通り越して絶望していたことでしょう。しかし、立ちんぼを止めることは出来ません。奇跡を願うしかありません。

 それしかありません。


◆現代にも、そのような人たちが存在します。長々と論じることも出来ませんから、簡単に約めて言います。立ちんぼを続けているのは、所謂、単純肉体労働者だけではありません。非正規雇用で働かなくてはならない若者がいます。正規雇用の人と、ほぼほぼ同じ仕事をしていても、生涯賃金にしたら半分しか貰えない人がいます。その人たちの比率がどんどん高くなっています。日本でも、間もなく、半数を超えるでしょう。

 それでも何とか仕事がある内はよろしいのかも知れません。やがて、非正規雇用の仕事もなくなります。


◆私の知り合いで、仕立屋さんがいました。昔、プロの将棋師を目指しましたが、夢かないませんでした。実の叔父さんが将棋8段で、その弟子でしたから、全く見込みがなかった訳ではないと思います。しかし、道が閉ざされたと思い知らされた時点で、彼には、学歴も職歴もありません。洋服の仕立屋さんで、丁稚さんのように働き、仕事を覚えました。しかし無理がたたり、体を壊し、精神科に入院しました。

 長くなりますので端折りますが、彼は、社会党の市会議員をしている人の店に、障害者の枠で雇われました。仕事は出来るし、真面目なものですから、何時の間にか、店の仕事の殆どをこなすようになりました。

 年月が流れ、洋服テーラーは構造的不況ですから、子どもたちが育ち上がると共に、この店はたたまれてしまいました。彼は職を失いました。正規雇用でもありませんから、退職金も何もありません。住む家さえなくしました。 … 40年前の知り合いです。今はどうしているのか、全く消息は分かりません。時々思い出します。

 

◆誰が、この人を責めることが出来るでしょうか。プロの将棋指しなどを目指した結果の、自己責任でしょうか。不安定な仕事に留まり続けた結果、つまり、彼自身の判断決断の間違いでしょうか。

 世の中の構造、経済の仕組みが変わってしまったことによって、切り捨てられてしまった人は少なくないと思います。それは、これらの人の無能力の結果で、自己責任なのでしょうか。


◆何時間も立ちん坊を続けた人たちの、詳しい状況など分かりません。そもそも譬え話です。しかし、この譬え話を用いられたイエスさまには、このような惨めな境涯に置かれた人の気持ちが分かるようです。深い同情が見えます。それだけでも慰められます。

 立ち続けた人は、どんなに不安だったことでしょう。絶望的になったことでしょう。

 そのような人が、『一デナリオンずつ受け取った』のです。救いが与えられたのです。この譬え話の主題は、ここにあります。報われなかった人が、最後の最後に報われたという話なのです。


◆報われなかった人が、最後の最後に報われた、これを逆に見れば、朝から働いていた人、働くことが出来た人、夕方に報酬が約束されていた人は、最初から報いを受けていたのです。最初から、安心を与えられていました。

 仕事にあぶれた者からすれば、何とも羨ましい境遇なのです。今すぐに、同じ仕事にありつきたい、羨望の的なのです。

 それなのに、10〜11節。

  … しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

  11:それで、受け取ると、主人に不平を言った。 …

 彼らは、不平を言います。自分は損をしたと考えたのです。仕事にあぶれた者が羨む仕事で一日中働いたことを、自分は損をしたと考えたのです。

 仕事を短時間しかしなかった人を、羨ましいと考えたのです。


◆唐突に聞こえるかも知れませんが、『放蕩息子の譬え』を思い出して下さい。あまりにも良く知られた物語ですので、端折って必要部分だけ読みます。

 放蕩の結果、財産を使い果たしてしまった弟が戻って来ると、父親はこれを暖かく迎えます。兄は言います。ルカ福音書15章28〜30節。

  … 28:兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。

  29:しかし、兄は父親に言った。

  『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。

   言いつけに背いたことは一度もありません。

  それなのに、わたしが友達と宴会をするために、

  子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

  30:ところが、あなたのあの息子が、

  娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、

  肥えた子牛を屠っておやりになる。』


◆とても似ています。似ていると、私は考えます。この兄息子と、朝から働いていた労働者の言い分はそっくりです。

 『まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

『わたしは何年もお父さんに仕えています。

  言いつけに背いたことは一度もありません。』

 両者とも、居場所・働き場所を与えられていることへの感謝はありません。むしろ、それを辛抱しなければならない重荷だと考えています。喜びはありません。苦痛に思っています。


◆マタイ福音書20章も、ルカ福音書15章も、それぞれオリジナルの記事です。ここにしかありません。しかし、主題がとても似通っています。これは、イエスさまの思いそのものだからだと考えます。二つの相異なる福音書の、相異なる譬え話の不思議な共通性、それは、イエスさまが常日頃、そのように考え、そのことを語っていたからこその共通性でしょう。イエスさまには、弱い立場に置かれた人への理解・同情があります。


◆最後に、殆どの牧師が話すだろうことを申します。大事なことです。

 放蕩息子の兄も、今日の箇所の朝から働いていた労働者も、神さまの側近くで教会生活をして来た信仰者に重なります。教会員の中には、子どもの頃から、礼拝を守り、聖書の教えに従って来た人がいます。

 一方で、キリスト教徒は縁がない家庭に生まれ育ち、年配になってから、礼拝を守るようになった人がいます。中には、大分高齢になってからという人もいます。

 最初から教会に居た人は、自分を『まる一日、暑い中を辛抱して働いた』と良い、『何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。』と言うのでしょうか。後からやって来た人を羨ましいと思い、嫉妬するのでしょうか。

 むしろ、遅れて来た人こそが、もっと早くから若い時に、教会を知りたかった、聖書を読みたかったと思うのではないでしょうか。


◆15節を読んで終わりにします。

  … 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。

   それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。 …