▼マルコ福音書、ヨハネ福音書にもほぼ同様の記事、関連の深い記事があります。この所謂並行記事を含めますと、礼拝で繰り返し何度も読んでいる箇所です。しかし、今日の教会にとって、正に、今日私たちに語られている御言葉として、是非聞かなくてはならないところだと思います。 そのこと、私たちが、今聞かなくてはならないことを、一番に読みます。 ▼28〜29節。 『すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、 水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29:イエスが「来なさい」と言われたので、 ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ』 人は、そして教会は水の上を歩くことが出来ます。もし、それが主の御心ならば、そして、主の御心であると、人が信じるならば、水の上だろうと歩くことが出来ます。 現に、私たちの教会は、水の上を歩いて来ました。およそキリスト教会が誕生してからの2000年間、そして、玉川平安教会が立てられてからの80年以上、私たちは、水の上を歩いて来ました。 何も足がかりがない、立つべき地面がない場所に、しかし教会は立ち、水の上を歩いて来ました。ただ、『来なさい』と言われたイエスさまの言葉の上に、教会は立ち、その上を歩いて来たのです。 ▼30節。 『しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、 「主よ、助けてください」と叫んだ。』 ずっと水の上を歩いて来たのに、しかし、疑いが生まれた時、その瞬間に、人は、教会は、世の嵐の中に墜ち、沈んでしまいます。 私たちの教会も当然同じことです。『「来なさい」』という言葉が聞こえなくなったら、本当に、呼ばれているとは信じられなくなったら、その瞬間に、もはや水の上に立つことは出来ません。教会は、世の嵐の中に墜ち、沈んでしまいます。 ▼最初に戻って、23節から読みます。 『群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。 夕方になっても、ただひとりそこにおられた』 イエスさまは、『群衆を解散させ』て祈られました。むしろ、祈るためにこそ、『群衆を解散させ』たと、読むことが出来ます。 一方で、『群衆を解散させ』ることに目的があって、そのために、祈ることを方便にしたのでもありません。イエスさまが祈ること、弟子たちが『向こう岸へ』渡ることが、目的だったのです。その前の22節から見ますと、 『それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、 その間に群衆を解散させられた。』 『弟子たちを強いて舟に乗せ』『群衆を解散させ』た、このことは、教会のあるべき姿を描いている、むしろ、預言していると取ることが出来ると考えます。 教会は世の嵐の中でこそ、祈り、そして『向こう岸へ』向かいます。 ▼教会は、一つ所に留まっているのではありません。『向こう岸へ』向かっています。教会は、神の国を目指して旅する者の群れです。 教会は、神の国を目指して旅する者の旅館ではありません。まして、この世の生活に疲れた者の、休息の場所、安らぎ憩いの場所ではありません。 『群衆を解散させ』たことを、群衆を見放したと解釈する人がいるかも知れません。その通りかも知れません。しかし、教会は、例え群衆のためだろうと、同じ場所に止まり続けることは出来ません。目的地があります。イエスさまが向かわれる所が目的地です。そこは、十字架が立てられる場所です。ゴルダダの丘です。 教会そのものが『向こう岸へ』向かうのです。舟に乗った者だけが、この旅を続けます。 ▼24節。 『ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、 逆風のために波に悩まされていた』 イエスさまがおられない時、弟子たちだけでいる時、彼らは嵐のガリラヤ湖、つまり、この世の嵐の真ん中にいました。 簡単に言えば、イエスさまがおられないならば、教会は、この世の真っ直中にいることになります。そして、その時には、全く、この世の一員に過ぎません。 しかも、この世の一員と言いながら、嵐を乗り切って航海するのではなくて、海の中に、沈んでしまいます。つまり、この世に埋没してしまいます。 これも教会のあるべき姿を描いている、むしろ、預言していると取ることが出来ます。教会がイエスさまを失えば、イエスさまへの信仰を失えば、教会はこの世の真っ直中にあって、しかも、埋没してしまうしかありません。 ▼教会はこの世と共に居なければならないと言う人があります。そうかも知れません。この世の人々と、共に居なければならないと言う人があります。そうかも知れません。 しかし、それよりも何よりも、私たちは、イエスさまと共にいなければなりません。イエスさまを忘れて、世の人と共にいたならば、教会は沈没してしまいます。結果、一つもこの世のためになどなりません。 ▼同じ24節、『逆風のために波に悩まされていた』とあります。逆風です。 ヨットは逆風を生かして、逆風の時にこそスピードが出るのだそうですが、このことには、比喩として限界があります。 逆風は逆風、前に進みません。イエスさまを忘れては、教会は前に進みません。 ▼25節。 『夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた』 『夜が明けるころ』が何を比喩するのか、何か深い意味が隠れていそうです。イエスさまが『湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた』ら、教会に夜明けが来ると読んだら、少し比喩的解釈に過ぎるでしょうか。 単純に、最も疲れ果てた頃にと取れば、それでよろしいかも知れません。 『湖の上を歩いて』が何を比喩するのか、何か深い意味が隠れていそうです。上を、と言うのは超越していることを指していると言ったら、少し乱暴な解釈かも知れません。分かりませんが、少なくとも、泳いでではありません。 ▼26節のような反応は随所に見られます。 私たちも、常に奇跡を求めているのに、本当に奇跡を見たならば、こんなことになるだろうと思います。 『弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、 「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた』 私たちは、常に奇跡を願い求めているようでいて、実際には、私たちには奇跡を受け入れる用意は全くありません。奇跡を目にしたら、慌てふためき、舟から脱出しようとして海に飛び込むかも知れません。 イエスさま、イエスさまと言いながら、イエスさまが側におられたら、恥ずかしくで出来ないような言動をしています。そんなことが出来るのは、イエスさまが、側にはいないと考えているからです。見ていない、聞いていないと思っているからです。 ▼27節。 『イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」』 私たちはやはりイエスさまの言葉で安心します。この言葉だけが、真に私たちの救いです。イエスさまが共にいて下さるということが私たちの救いです。 我が家の犬は、私に叱られるとビクッと驚き、さっと逃げようとします。殴ったりしたことなど一度もないのに、叱られると脅えます。どうも、悪いことをしているという自覚があるようです。 イエスさまに言葉をかけられて、驚き、脅えるようなことをしていてはなりません。イエスさまに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」言葉をかけられて、真に安心することが、救いなのです。 ▼28〜29節。 『すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、 水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 29:イエスが「来なさい」と言われたので、 ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ』 最初に申しましたように、人は、そして教会は水の上を歩くことが出来ます。もし、それが主の御心ならば、そして、主の御心であると、人が信じるならば。 現に、歩いて来ました。 しかし、疑いが生まれた時、その瞬間、人は、世の嵐の中に墜ち、沈んでしまいます。 ▼30節以下に描かれたことが、教会の現実です。世の嵐を恐れ、嵐に遮られて向こう岸が見えなくなってしまうのです。 『しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、 「主よ、助けてください」と叫んだ』 『強い風に気がついて』 つまり、この瞬間、教会を見ていません。イエスさまを見ていません。強い風が見えてしまったのです。風によって荒れる湖の波が見えてしまったのです。 『来なさい』と言われたイエスさまの言葉よりも、自分が置かれている状況、もしかすると、世の人々が客観的な状況と呼ぶものの方に、目が、心が、行ってしまったのです。 そうしますと、『怖くなり、沈みかけ』るのです。 ▼『怖くなり、沈みかけ』た時になすべきこともここに語られています。 『主よ助けて下さい』 ペトロは叫びました。世の嵐の下に埋没しようとする時には、主の名を呼び求める以外にはありません。 私たちの教会の信仰も、私たち一人ひとりの信仰も、ここで問われるのです。あがきもがき、いろんな手立てを考えるのではなく、『主よ助けて下さい』と叫ぶしかありません。 旧約聖書よりも古い時代、祈ると言う言葉は、叫ぶと言う言葉だったそうです。例えば戦場で敵に追い詰められている時、「私はここにいます。殺されようとしています。」『主よ助けて下さい』と叫美ます。これが祈りという言葉の元です。私を見て下さいなのです。 ▼31節。 『イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、 「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた』 イエスさまは、『すぐに手を伸ばして捕まえ』て下さいます。『主よ助けて下さい』と叫ぶならば。 深刻な状況に囲まれてしまった時、多くの人は、叫ぶことをしません。いじけ、反発し、呪い、あげくは、神はいないと言います。 『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と、イエスさまは、ペトロを叱っています。しかし、これが、全くペトロを否定する言葉ではないことはあまりにも明らかです。『すぐに手を伸ばして捕まえ』て下さいます。不信仰を叱りながら、『すぐに手を伸ばして捕まえ』て下さるのです。不信仰な者が、『主よ助けて下さい』と叫ぶと、イエスさまは、『すぐに手を伸ばして捕まえ』て下さいます。 ▼32節。 『そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった』。 嵐を鎮める方法もここに描かれてあります。 教会という名前の舟に乗り込むのです。そして漕ぎ出すのです。だからこそ、イエスさまは、『弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた』のだと考えます。23節に依るならば、祈るためにです。 舟に乗る前に、嵐を見てしまったら、荒れ狂う波を見てしまったら、舟に乗ることは出来ません。舟を避け、嵐から逃げようとして、逆に嵐に捕まってしまいます。 ▼34節。 『こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた』。 ゲネサレト湖はガリラヤ湖と同じであり、ゲネサレトという土地とは、ガリラヤ湖の北西部に当たります。目的地に着きました。そして、その地で、大勢の病人の癒しが行われました。イエスさまの舟は、ゲネサレトの人々の救いのために、湖を渡ったのです。 |