日本基督教団 玉川平安教会

■2023年11月26日 説教映像

■説教題 「最も小さい者の一人に

■聖書   マタイによる福音書 25章31〜46節 

     

◆キリスト教には、2000年の歴史があります。その間、聖書が読み続けられて来ました。研究され続けて来ました。その間に、無数と言える聖書注解書が書き残されました。多くの牧師は、8畳または10畳間の壁一杯に、この注解書を所蔵しています。

 しかし、未だに決定版のようなものはありません。決定版がないからこそ、研究が積み重ねられ、毎年毎年新しい注解書が出ます。その分量たるや肝心の聖書の何万倍にもなるでしょう。何万倍、少しも大げさな数字ではありません。むしろ控えめかも知れません。


◆しかし、今日のこの箇所について言えば、決定的な、最終的なと言える注解書が存在するように思います。これより説得力のある新しい注解書は、永久に出ないだろうと、私は思います。

 それは、トルストイの『靴屋のマルチン』です。『愛あるところに神があり』が、正式な題名でしょうか。私が持っている全集では、そうなっています。

 何しろ、子どもの本、それも絵本や紙芝居にあります。その粗筋は、どなたもご存じでしょう。ここで、改めて紹介する必要がないほど、紹介したら、しらける程に良く知られています。

 この箇所の理解、説明としては『靴屋のマルチン』で充分です。また、『靴屋のマルチン』そのものについても、牧師がなまじ解説を付け加えても、意味がないどころか、却って、原作の素晴らしさを損なうだけでしょう。


◆とは言え、説教の代わりに『靴屋のマルチン』を朗読して済ませることも出来ませんので、何時ものように1節ずつ読んでまいります。敢えて、これ以上は『靴屋のマルチン』に触れません。31節。

  … 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。…

 直接には30節を受けています。

  … この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。

  そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。…

 この『役に立たない僕』については、26節でも『怠け者の悪い僕だ』と言われいます。

 怠け者で役に立たない、それが僕への評価です。なすべきことをしなかったからです。何をなすべきだったのか、それは35節以下に記されています。

 順に読みますので、35節以下は後にしまして、32〜33節を読みます。


◆ … そして、すべての国の民がその前に集められると、

  羊飼いが羊と山羊を分けるように、 彼らをより分け、

  33:羊を右に、山羊を左に置く。…

 31節も含めて、終わりの日の裁きが語られています。

 裁くとは、日本語でもギリシャ語でも、二つに分けることが、語源です。魚をさばくのさばくです。

 マタイ福音書の中では、『人を裁いてはならない』と繰り返し語られています。それは、人間が人間を裁いてはならないと言う意味です。神が人を裁くのだから、人が『人を裁いてはならない』と言う意味です。人を裁く者は、神による裁きを否定する人です。

 人が人を裁くと、結局この人を殺してしまいます。人間が開きになってしまいます。


◆31節をもう一度読みます。

  … 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。…

 マタイ福音書24章25章と、神の国についての譬えが語られて来ました。その最後に、神の裁きが記されています。その意味でも、裁きとは、神の国の門での裁きです。

 裁きと聞くと、直ぐに刑罰を思い浮かべます。確かに、裁きの結果、刑罰が下されます。しかし、裁きは刑罰とイコールではありません。また、先週の箇所29節に戻ります。

  … だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、

   持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。…

 これが裁きです。裁きは、報酬となる場合もあります。つまり、裁きとは神による評価です。ボーナスを貰えるかも知れません。逆に解雇を言い渡されるかも知れません。


◆34節。

  … そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、

   天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。…

 これは、裁きの結果としての報酬です。プラス評価です。

 報酬とは、神の国を受け継ぐこと、天国に入る許可です。

 プラスの評価を得た理由は、根拠は、35〜36節に述べられています。

  … お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、

  のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、

  36:裸のときに着せ、病気のときに見舞い、

  牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』…

 先ほど申しましたように、『外の暗闇に追い出』された僕は、なすべきことをしなかった怠惰な僕でした。

 その前の『「十人のおとめ」のたとえ』でも、油の用意が足りなかった乙女は、『外の暗闇に』置かれたままで、婚宴の席に上げて貰うことが出来ませんでした。彼らは、なすべきことをしなかったのです。神の国に入れられるには、功績が足りなかったのです。なすべきことをしないと、闇の中に置かれたままになります。二つの譬え話の闇は、偶然の一致ではありません。闇か光かです。


◆37〜39節。

  … すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、

   飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、

  のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。

  38:いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、

  裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。

  39:いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、

  お訪ねしたでしょうか。』…

 ここで、『賢い乙女』が持っていて、『愚かな乙女』が持っていなかったものが、明らかにされます。『賢い乙女』が持っていたのは、単なる用心ではありません。用意周到で抜かりがなかったから、『賢い乙女』と評価されたのではありません。『愚かな乙女』が持っていなかったものは、必ずしも周到な準備ではありません。

 それは、実は愛だったのです。37〜39節は、そのことを語っています。


◆先週の箇所で、『怠け者の悪い僕』と呼ばれた男は、1タラントンを与えられ、それを土の中に隠していた男は、『あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていました』と言った男の問題は、その非は、主人を愛していなかったことにあります。

 そもそもタラントンとは、単にお金のことではなくて、実は、愛のことだったと、今日の箇所を読めば分かります。そして、愛は光です。人生の目的という進むべき道を照らし出す光が愛なのです。


◆29節を読みます。

  … だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、

   持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。…

 これは「資本が豊かだと商売が上手く運び、ますますお金儲けが出来る。資本が足りないと、回転資金が続かず、倒産を免れない。」というような話ではありません。

 『持っている』とは、お金ではなく、愛のことです。

 愛を豊かに持っている人は、周囲の人にも愛され、愛はどんどん増えて行きます。その逆は、友人を失い、どんどん敵を増やしてしまいます。


◆40節。

  … そこで、王は答える。『はっきり言っておく。

  わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、

  わたしにしてくれたことなのである。』…

 『最も小さい者』とは、35節に描かれる人のことです。つまり、『飢えて』『渇いて』いる人、『裸の』人、『病気の』ひと、そして『牢にい』る人のことに違いありません。

 やはり愛のことです。小さくされている人への労りのことです。それらの人へ具体的に手を延べることです。


◆41節。

  … それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、

   わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。…

 厳しい裁きが告げられます。

 『永遠の火』とは、地獄の火のことです。地獄=ゲヘナは、エルサレムの郊外にあったゴミ捨て場から名前が生まれました。そこでは、ゴミが燃える火が尽きることはありませんでした。

 地獄の火は、光輝いて人々を照らす灯りではありません。逆です。地獄の炎は、火そのものが醜く、人の心を闇に誘うものです。

 二子玉川に出掛ける用事がありまして、驚きました。未だ11月なのに、アドベントになっていないのに、くりすますつりー・イルミネーションがありました。年々早くなります。しかし、これはクリスマスの灯火ではありません。愛の灯火ではないからです。


◆彼らが呪われる理由・根拠は、42〜43節に記されています。

  … お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いた

   ときに飲ませず、

43:旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、

   牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』…

 なすべき時に、何もしなかったからです。38〜39節の裏返しです。

 当然、40節と44節も裏返しになっています。


◆44〜45節。

  … すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、

   渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、

   牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』

  45:そこで、王は答える。『はっきり言っておく。

   この最も小さい者の一人にしなかったのは、

  わたしにしてくれなかったことなのである。』…

 これはもう説明は無用でしょう。『靴屋のマルチン』に描かれる場面で充分です。

 百喩経などの仏教の説話では、これらの小さき童や動物は、実はお釈迦さんの仮の姿だったとなります。場合によっては、それがお釈迦さんの前世の姿だったと説明されます。今日の箇所と共通点があります。しかし、聖書はあくまでも譬え話として語られているのであって、事実・出来事として記されているのではありません。


◆46節。

  … この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」…

 蛇足になるかも知れませんがお話しします。

 『靴屋のマルチン』と同じトルストイの『人生論』に、こんな話が載っています。

 王が、賢者に尋ねます。「何時、どこで、誰に、何をなすべきかが分かれば、王の務めを果たすことが出来る。どうしたら、何時、どこで、誰に、何をなすべきかを知ることが出来るか。」と。

 賢者は答えます。「今、ここで、手が届く者に、その者が求めていることを。」


◆私たちは時を探していたら何も出来なくなります。大抵、未だ早いで終わってしまいます。それとも、もう間に合わない手遅れだでしょうか。

 私たちは場所を探していたら何も出来なくなります。もっとふさわしい場所を探し続けて、時が過ぎてしまいます。辿り付いたと考えた瞬間、山の向こうにもっと良い土地が見えてきます。

 私たちは愛すべき隣人、愛に値する隣人、救うべき隣人を探していたら何も出来なくなります。もっとふさわしい隣人を探し続けて、さすらうだけで終わってしまいます。

 私たちは何をなすべきかと、問い続けていたら何も出来なくなります。なすべき、もっと別のことを求め続けて、明日の準備だけで終わってしまいます。

 今持っている燭台に、油を入れなければなりません。灯りを点けなければなりません。今持っているタラントンを、差し出さなくてはなりません。今持っているものだけでも、神さまの祝福を受ければ、5000人の魂を養うことが出来ます。

 5000人への給食の話では、子どもはパン5つと魚2匹しか持っていませんでしたが、それが配られると、5000人が満足しました。