◆マタイ福音書22章に、今日と同じように税金の話が記されています。しかし、今日の箇所の小見出し下には、並行記事が載っていません。両者は別々の話という扱いになっています。何故別々なのか、今日の箇所は、神殿への税金のことであり、22章はローマ帝国への税のことで、確かに別物です。勿論互いの関連はあります。 しかし、22章はやがて読みますから、今日は17章に絞りたいと思います。 ◆24節は、聖書研究の時のように、一語ずつ読みます。 『一行がカファルナウムに来たとき』、先週申しましたように、弟子たちのことを、『一同』『一行』『弟子たち』更に『12人』といろいろに表現しています。厳密な使い分けを見つけることは出来ないようです。この『一行』とは、イエスさまの伝道旅行の一行という意味で、弟子たちを表す字としては、一番意味が広い言葉のようです。 ◆『カファルナウム』は、イエスさまの伝道の根拠地と考えられます。イエスさまはベツレヘムで生まれたとあります。一方でナザレ人だったと記されています。これも、特に厳密に考える必要はないでしょう。それを疑う人もありますが、ベツレヘムに生まれ、ナザレで成長し、やがてカファルナウムに居を構えて、そこから各地への伝道旅行を繰り返されたと、受け止めればよろしいかと思います。 ◆『神殿税を集める者たちがペトロのところに来て』、これも聖書研究的に読めば、『神殿税を集める者たちが』来たのですから、言ってみれば現住所がここにあったことになります。税制度や住民登記を、今日の日本と比較しても仕方がありません。むしろ、江戸時代の人別、檀家に近いかも知れません。 とにかく、そこに『神殿税を集める者たちが』来ました。これにペトロが対応しています。ペトロは単なる玄関番ではなくて、代表者のように対応しています。多分、ペトロは弟子たちの代表格だったのだと、他のいろいろな証拠からも、想像出来ます。 ◆ …「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と言った … ペトロが代表して対応していますが、最終責任者はイエスさまだと承知している聞き方です。つまり、これも今日と比較しても仕方がありませんが、言ってみれば、法人のように、団体として存在しており、それだからこそ、税の対象と見做されているのだと考えます。 25節の最初。 … ペトロは、「納めます」と言った … 「イエスさまに伺ってまいります」ではなく、『「納めます」と言』いました。ペトロには、そのような権限があったのでしょうか。 それとも、税を納めることは当たり前のことと理解されており、過去にも、そのような実績があったから、ペトロは、躊躇うこともなく『「納めます」と言った』のでしょうか。私には、『神殿税を集める者たちが』来たのは、払っていなかったから督促に来たように見えるのですが、違いますでしょうか。 ◆もしかしたら、ここにもペトロの性格が露呈されているのかも知れません。マタイ福音書16章に記録された『山上の変容』の出来事の、マルコ福音書による証言を引用します。その方が分かり易いので、敢えて口語訳聖書で引用します。 … 4:すると、エリヤがモーセと共に彼らに現れて、イエスと語り合っていた。 5:ペテロはイエスにむかって言った、「先生、わたしたちがここにいるのは、 すばらしいことです。それで、わたしたちは小屋を三つ建てましょう。 一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。 6:そう言ったのは、みんなの者が非常に恐れていたので、 ペテロは何を言ってよいか、わからなかったからである。 … 『ペテロは何を言ってよいか、わからなかった』のならば何も言わなければよろしいのですが、ペトロは言ってしまいます。既に読みましたように、ペトロはそういう性格です。 そういう性格の人がいます。の性格は一概に悪いとも良いとも言えません。 ◆25節の続き。 … そして家に入ると、イエスの方から言いだされた。 … イエスさまはご自分で見聞きされなくとも、全てをご存じでした。キリストだから当然だと読むことも出来ますでしょう。それで何も間違いはありません。しかし、ここでは、イエスさまにはそのような超能力があったと言いたいのではありません。 『イエスの方から言いだされた』とは、ペトロに問われたからではないと言う意味でしょう。状況に応じてではないと言うことでしょう。 これがイエスさまの基本的な考え方だと言うことです。 ◆25節の後半。 … 「シモン、あなたはどう思うか。地上の王は、 税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか。 自分の子供たちからか、それともほかの人々からか。」 ここも、一語一語読む必要があると考えます。 『シモン、あなたはどう思うか』と聞いています。『神殿税を集める者たちが』、『一行』、弟子たちの代表であるペトロに聞いたという出来事と、対になって語られています。今度は、イエスさまが、『一行』、弟子たちの代表であるペトロに聞いておられます。 つまり、この問答は、『神殿税を集める者たち』から、そしてイエスさまから、教会に対してなされている問答です。教会に向けた問いです。 ◆『地上の王は、税や貢ぎ物をだれから取り立てるのか』 神殿税が問題になっていたのに、何故か、『地上の王』への税に話が移っています。話の主題、肝心な点はそこではありません。 『自分の子供たちからか、それともほかの人々からか』 つまり、話の本筋は、イエスさまご自身そして教会は、神さまの子であって、神殿税徴税の対象にはならないということです。 ◆26節。 … ペトロが「ほかの人々からです」と答えると、 イエスは言われた。「では、子供たちは納めなくてよいわけだ。 … 教会は、神さまの子であって、神殿税徴税の対象にはならないということを、ペトロに言わせています。子どもは税を払わなくとも良いと言ったのは、あくまでもペトロです。イエスさまは、『では、子供たちは納めなくてよいわけだ』と、ペトロに聞いただけです。神殿税を拒否するのが正しいとは、直接には言っておられません。 ◆27節前半。 … しかし、彼らをつまずかせないようにしよう … ペトロとの問答は終わりました。結論が出ました。これで終わりにしてよろしい筈です。にも拘わらず、イエスさまは言います。 『しかし、彼らをつまずかせないようにしよう』 つまり、神殿税を払うと、イエスさまはご自分で言われました。 払わなくとも良いと結論を出した後で、敢えて、払うと言われたのです。 その理由は『彼らをつまずかせないようにしよう』、ここにあります。 これは、消極的倫理です。 ◆以前にお話ししたことを、繰り返しますので、なるべく約めて、結論部だけお話しします。マルコ福音書3章1〜6節の出来事です。4〜5節だけ読みます。 … 4:人々にむかって、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、 どちらがよいか」と言われた。彼らは黙っていた。 5:イエスは怒りを含んで彼らを見まわし、その心のかたくななのを嘆いて、 その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、 その手は元どおりになった。 … 普通ならば、『安息日に善を行うのと』の後は、「何もしないのと」でなければなりません。 また、『命を救うのと』の後は、「何もしないのと」または「見殺しにする」でなければなりません。 敢えて、『安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか』とあるのは、『命を救う』ことが出来るのに、「何もしないの」は『殺す』ことに等しいと教えています。 ◆これに照らして考えるならば、例えば輸血して手術をすれば助かる命を放っておくのは、殺すことに等しいとなりますでしょう。 ですから、今日輸血を禁止する教会があるのは聖書の教えに基づいていないどころか、聖書に反する教えです。そもそも、聖書の時代に輸血なんてありません。禁止されている筈がありません。臓器移植も、他の医療行為も同様です。 ◆これが聖書の積極的倫理です。『汝の隣人を愛せよ』が、聖書の積極的倫理です。そして、日本古来の教え、多分儒教に基づく教えは、「人が嫌がることをしてはならない」であり「他人に迷惑をかけるな」です。これが、消極的倫理です。 聖書の教えは積極的倫理で、日本は消極的倫理だと説明する人がいます。その通りかと思います。しかし、全部ではありません。日本にも積極的倫理はありますし、聖書にも消極的倫理は存在します。むしろ少なくないと考えます。 ◆聖書研究祈祷会では牧会書簡を続けて読んでいますが、そこでは随所に、何々してはならないという教えが出て来ます。一番最近に読んだコロサイ書3章5〜9節を上げます。 … 5:だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、 および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。 6:これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。 7:あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、 それに従って歩んでいました。 8:今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、 口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。 9:互いにうそをついてはなりません。 ◆『しかし、彼らをつまずかせないようにしよう』 イエスさまがこんなことを考えて下さるのは、とても嬉しい気がします。徒に人を躓かせることを、イエスさまは避けようとしておられます。無用な戦いをなさろうとはしません。もし、イエスさまが、神殿税は無用だと言われたら、大騒動になり、血が流れたかも知れません。ローマ帝国への税金なら尚更です。 話を拡げないようにこれに止めます。聖書でも、倫理、消極的倫理は大事な教えです。 ◆27節の続きを読みます。 … 湖に行って釣りをしなさい。 最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。 … 福音書の他の場面では網での漁ですが、ここでは釣りです。何か意味ありげですが、重要事ではないかも知れません。釣りなら一匹ずつです。それだけのことでしょうか。 その一匹だけ、最初につり上げた魚に、『銀貨が一枚見つかる』これも、とても意味ありげです。魚を獲ることは、伝道することと重ねられています。何しろ、ペトロは、漁師でしたが、『人間を獲る漁師』にされた人です。このペトロが釣りをし、魚を釣り上げ、その魚の口から『銀貨が一枚見つかる』のです。偶然の筈がありません。 ◆この出来事も、教会に向けて語られているという前提で読めば、教会も、税を払う、払う必要はないのだが、しかし、無用な軋轢を避けるたるに払う、しかも、そのための資金は、必ず得られる、思い掛けない仕方で手に入るから、心配しなくとも良いという意味になりますでしょう。 税金を支払うための資金は、伝道することで、信者の口から取り出せるとまで読んだら、かなりいやらしい話になります。勿論、マタイはそんなことを言っているのではなく、心配するなと言いたいだけです。教会にとって絶対に必要なものは、必ず満たされると言っているのです。 ◆先週先々週の箇所で、究極、描かれているのは神の国のことだと申しました。18章も天国の話です。 当然、今日の出来事も、神の国を忘れては読むことが出来ません。私たちは、神の国に登録し、本籍を置いています。しかし、どうしても、この地上の市民であることから免れ得ません。だから、税の問題もあります。税に象徴される地上の諸問題があります。これにがんじがらめにされているのが現実かも知れません。 しかし、私たちは神の国の市民です。そのことを常に意識しながら、この地上の国で生活しなくてはなりません。出来ますでしょう。本当に困ったなら、魚の口からでも、必要なものは出て来るのです。私たちはどんな時でも、ただ釣る、伝道するのみです。 |