◆順に読みます。23節。 … その同じ日、復活はないと言っているサドカイ派の人々が、 イエスに近寄って来て尋ねた。… 『その同じ日』に何が起こったのか、先週の箇所ですから、繰り返しはしません。 15節をご覧いただければ充分かと思います。 … ファリサイ派の人々は出て行って、 どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。 … 15節も23節も同じことです。『イエスの言葉じりをとらえて、罠にかけよう』が、目的です。イエスさまに質問しているのではありません。まして、学びたいという気持ちなど、微塵もありません。 ◆復活という信仰上の大問題も、彼らには、イエスさまの足を引っ張るための道具、仕掛けに過ぎません。そもそも、このような大問題について、政争の道具とすること、道具に出来ることに不信感を持ってしまいます。彼らは、信仰者なのでしょうか。 脱線しないように押さえて申します。信仰上にはいろんな論争があります。現代でも解決しない論争があります。現代で生まれた意見の不一致もあります。これは仕方がないでしょう。一所懸命だからこそ、簡単には折り合えない意見の違いがあります。教会論で、聖餐論で、礼拝論で、様々な意見の対立があります。簡単には妥協できません。妥協してはならないかも知れません。 しかし、それを相手を叩くための道具にしたら、それは、どんな主張であれ、非信仰的でしかありません。 ◆アメリカの教会には、堕胎の是非を巡って、深刻な対立があります。銃器の所持を巡っても、これがあります。最近では、同性愛、同性婚の問題が、教会を二つに引き裂く対立になっています。ここで、その是非は申しませんし、私がどのような意見かも申しません。 ただ、これを政治の道具に利用する人には、保守派であれ、革新派であれ、賛成出来ません。まして、憎む相手を叩きのめすために、このような信仰上の問題を利用することは、罪深いことです。 こんな人がいます。意見を求められて、お偉い人の名前を持ちだして、「○○さんはどう仰っていますか」と聞き直し、それから、「私も同じ意見です」と言う人がいます。狡いかも知れませんが、穏便で善いのかも知れません。 逆もいます。「○○さんはどう仰っていますか」と聞き直し、それから、「私は絶対に反対です」と言う人がいます。今日の箇所のサドカイ派の人たちは、そんなものです。 ◆24節。 … 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、 その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。 … その通りです。私たちにはちょっと着いていけない倫理ですが、そのように律法に記されていることは間違いありません。日本でも、戦時中までは、似たような慣習がありました。個人の考えや好みよりも、家・家族・一族を優先する思想です。 何より、兄嫁、女の人が、家の財産のように扱われていることに反発しますが、しかし、案外に合理的なのかも知れません。一昔前の日本だったら、長男の嫁はたやすく家を追われました。生活の保障もありません。それを思えば、この女性の権利と生活が保障されたと言っても良いかも知れません。 ◆25〜27節は、読まなくてもよろしいでしょう。こんなケースはないとは言えませんが、ほぼほぼ架空の話です。架空の話を持ち出して、攻撃するのですから、論争にもなりません。ただ、相手を叩きたいだけです。これでポイントを稼いだつもりなのでしょう。 こういう論争で、仮に勝利したとしても、何と空しいことでしょう。論争そのものにも意味があるとしたら、論争の結果、真実が明らかになり、それが認められた場合です。初めから、真実など求めてもいないのは、空しい議論です。屁理屈に屁理屈を重ねて、相手をうんざりさせ、議論が止むのは、決して勝利ではありません。 ◆ヘイト・スピーチが社会問題視されたことがありました。これを規制する法律も出来、少しはましになったかも知れませんが、なかなか止むものではありません。 今は、ヘイト・スピーチとこれに対抗する、論争と言えるかどうかは分かりませんが、ラップがあるそうです。二人が向かい合って、それぞれの主張をラップで表現します。一応音楽ですから、少々行きすぎた歌詞・表現があっても、互いに寛容になれ、議論を積み重ねたり、深めたり出来ると言うのが狙いのようです。 これは、成功するかも知れませんが、逆に、ラップだから許されると勘違いし、余計に過激な言葉になってしまうかも知れません。殺人事件まで起こっていると聞きます。 ◆25〜27節は飛ばして、28節だけ読みます。 … すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。 皆その女を妻にしたのです。 … これこそ、架空の議論です。殆ど無意味です。ただただ、イエスさまをやりこめる目的でっち上げた理屈です。むしろ、二人だけに絞った方が、現実味があって、理屈として成り立つでしょう。7人にも増やしてしまったから、現実味がなくなり、屁理屈でしかなくなっています。 話が過激になり、論争を仕掛けたファリサイ派は、議論の焦点がより一層明らかになると考えたのかも知れませんが、結果は、空論になってしまいました。 万事そうです。過剰な言葉、表現を用いると、却って現実味がなくなります。 ◆イエスさまは、この悪意に満ちた質問に対してどのように答えたでしょうか。 「あなたの言うことは、空論だ」で済まして良かったと思いますが、しかし、29節。 … イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、 思い違いをしている。… イエスさまは、彼らの質問の虚偽性そのものを指摘しています。『聖書も神の力も知らないから』、かなり強い表現です。『聖書も神の力も知らないから』変な質問になるのであって、知っていればそんな質問はしないと言っています。 ◆30節。 … 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。… 大変短いのですが、他には殆ど見られない、『復活の時』についての言及です。その意味で大変に重要なお言葉です。信仰者にとって、復活とはどのようなものか、天国とはどのような所か、大いに関心があるのですが、天国の見取り図のような話は、聖書には殆ど出て来ません。真に不思議ですが、殆ど描かれていません。 天国とはこのような所だという話は、後の人の捏造に過ぎません。何一つ聖書的根拠がありません。そのようなことを言う人は、単に詐欺師に過ぎません。 ◆『めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになる』、これもあまり具体性はありません。『天使のようになる』と言われていますが、それでは天使はどのような存在でどのような生活をしているのか、聖書には殆ど、むしろ全く出て来ません。真に不思議ですが、殆ど、むしろ全く描かれていないと言うべきです。 天使とはこのような存在だという話は、後の人の捏造に過ぎません。何一つ聖書的根拠がありません。そのようなことを言う人は、単に詐欺師に過ぎません。 ◆『めとることも嫁ぐこともなく』、この表現の具体性は、この一点だけです。つまり、人間の日常生活の延長上に復活があるのではありません。人間の日常生活の延長上に天国があるのではありません。 何しろ聖書に見取り図がありません。何も記されていません。私たちには、想像することも出来ません。だからこそ、天国・神の国なのでしょう。 人間が想像出来たら、想像出来るとしたら、そこは神の国ではありません。私たちが現実に暮らすところよりも、より良い所かも知れません。しかし、それは程度問題です。 今、この現在時点で、日本を天国のような所だと思う人がいるでしょう。戦争に追われ、餓えに苛まれる国の人々からしたら、日本は天国かも知れません。 しかし、日本に暮らしながら、ここは地獄だと思っている人もあります。そのような程度問題に過ぎないとしたら、そこは神の国と呼ぶのにはふさわしくないでしょう。 ◆フォーク・クルセダーズの『帰ってきたヨッパライ』という歌がありました。 「天国良いとこ 一度はおいで 酒はうまいし 姉ちゃんはきれいだ」という歌が、大ヒットしました。しかし、これは本当の天国ではありません。 「酒はうまいし 姉ちゃんはきれいだ」から天国だと思う人はいるかも知れませんが、そんなことには関心がない人もいます。それぞれの好みが違います。人間の理想が天国ならば、多分、人間の数だけ天国が必要でしょう。ある人にとって天国でも、ある人にとってはそこは地獄でしかないでしょう。 私は温泉が大好きです。大きな湯船のたっぷりのお湯に浸かると、日本人は、思わず、「極楽、極楽」と言います。私は牧師ですから、どんなにいい湯でも「極楽、極楽」とは言いませんが、「天国、天国」とも言いません。 多くの人が、こんな所だと説明する場所は、決して天国ではありません。極楽かも知れませんが、天国ではありません。 ◆以前の教会で、こんなことがありました。80歳のご婦人が、私に言います。 「牧師さん、うちの夫はとんでもないことを言うのですよ。私が、天国でも仲の良い夫婦でいたいねと言ったら、『めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだと、聖書に書いてある。天国に夫婦はない。』酷いことを言うでしょう」 この婦人の訴えは、ファリサイ派の質問とは根本的に違います。心からの問です。そして、この問の根底には愛があります。 表面似たようなことに聞こえながら、全然違います。 ◆こんなこともありました。 90歳になるあるご婦人が、「どうやったら天国に行けますか」と問います。私が困っていると、更に言います。「亡くなった夫は優しいし、人格者で、本当に素晴らしい人でした。あの人なら、必ず天国に行けるでしょう。しかし、私には自信がありません。このままでは、天国に行けないでしょう。夫と別れ別れにはなりたくありません。」 この人の家を会場にして、聖書の勉強会が始まりました。この人が、「あなたも天国に行きたいでしょう。勉強しなさい。」と、多くの人を誘い、月1回の聖書研究が行われました。それは、この婦人が99歳で亡くなる直前まで、10年近く続きました。 この人の願いも、ファリサイ派とは根本的に違います。 ◆天国について聖書は殆ど何も記していないと申しましたが、もしかしたら、これは該当するかも知れません。マタイ福音書7章7〜8節です。 … 7:「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 8:だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。… しかし、これも天国の見取り図ではありません。 ◆31節を読みます。 … 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。 … いよいよ、天国についての聖書の言葉が示されます。32節。 … 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」 … 出典は、出エジプト3章9節です。ここに、『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と言う表現が出てまいります。 アブラハム、イサク、ヤコブ、私たちからすれば、大昔の人、とっくの昔に『死んだ者』です。イエスさまの時代の人たちにとっても、随分大昔の人です。それがどうして『生きている者』になるのか、不可解です。 ◆そもそも出エジプトの時代に、この3人は既に過去の人です。死んだ人です。それを敢えて『生きている者』と言うのは、この3人が、今も神の許で生きているという意味なのでしょう。随分、簡単な短い表現です。しかし、これが、これだけがイエスさまによる神の国の説明でもあります。 死んだ後のことを、どんなに丁寧に説明したところで、人間には分からないでしょう。私たちの想像を全く超えているから天国なのです。 真に天国に行きたい、天国を知りたいと、そう考えるならば、なすべきは一つです。真摯に問い続けるしかありません。神さまからお答えをいただくまで必死に、問い続けるしかありません。聖書を読み、祈りながら。 本当に答えを知りたい者は、そのようにするのです。 |