◎今日はイースターです。普通ならば、福音書から復活顕現の場面を取るべきかも知れませんが、連続で読んでいるマタイ福音書を、そのままテキストにしました。敢えて換える必要を感じないほど、イースターに読むのにふさわしいと記事だと思うからです。 順に読んでまいります。1節。 ◎ … 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、 高い山に登られた … 『 ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて』、繰り返しお話しておりますように、3と言う数字は、しばしば、十字架と復活の出来事に重ねられて用いられます。 十字架は3本、イエスさまは午後3時に息を引き取り、3日の後に甦り、という具合で、3は、十字架と復活の合い言葉の感があります。 そして『ペテロ、ヤコブ、ヨハネ』この顔触れは、十字架と復活を巡って大事なことが起こる時に、必ずそこに居合わせる特別な弟子です。ゲッセマネの園に連れていかれたのもこの3人です。十字架と復活の神秘に関係する顔触れです。 つまり、これから起こる出来事は、十字架と復活の神秘に直結する出来事だと、私たちに教え、念を押しています。十字架と復活を踏まえないでは理解出来ませんし、それ以外の観点で理解しようとしてはなりません。 ◎2節。 … イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、 服は光のように白くなった。 … 時代を遡る程に、衣服を真っ白に染め上げる事は困難で、ために白い布は高価で珍重されました。後には紫や赤が尊いとされますが、理由は染色が難しく高価だったからです。最初は純白です。純白を強調し、イエスさまの栄光を表現しているのでしょう。 ◎しかし、何よりも大事なことは、ここに起こった出来事が、モーセがシナイ山で十戒を授けられた時と重ねられて、描かれていることです。十戒を授かったモーセの顔がまぶしくて人々には直視出来ない程に光り輝いていたと、出エジプト記に述べられています。ここでは、イエスさまの顔が、『太陽のように輝き』とあります。34章29〜30節。 … 29:モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。 モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、 自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。 30:アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、 彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかった … 今日の出来事は、十戒の出来事と重ねて読まなければなりません。そうでなければ、理解出来ません。この出来事は、イエスさまの復活の預言なのです。また、神の国が垣間見えた出来事なのです。 ◎3節。 … 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 … 2節でお話した通りです。この出来事は、十戒の出来事と深い関連が存在します。 14章、15章には、パンの奇蹟が描かれています。誰もがシナイでの出来事を連想させられます。食べ物がないと不安がる人々に、マナが降りました。 その後に、『あなたこそキリストです』という最初の信仰告白が語られ、そうした準備の元に、この『山上の変容』が起こります。そこにモーセが登場しているのです。 モーセが十戒を授けられた出エジプト記の出来事と、この山上の出来事とは、完全にパラレルに描かれているのです。 ◎このことは、マタイ福音書でもマルコ福音書でも、同じ順番、同じ構造です。 『モーセとエリヤが現れ』とは、何より、旧約聖書の歴史・預言の成就として、この出来事が起こったと表現しています。逆に言えば、旧約に預言されているキリストが問題になっているのです。 旧約に預言されたキリストが、今ここに現れたことに、意味があります。キリストが何者か、旧約聖書の預言者はキリストをどのように描いたかということと関係ない所では、今日のこの出来事は意味をなしません。 ◎4節。 … ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、 すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。 一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」… マルコ福音書では、これに説明が付いています。9章6節。 … ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。 弟子たちは非常に恐れていたのである。… 『何を言ってよいか、わからなかった』のなら、何も言わなければ良いし、何もしなければよろしいと思います。しかし、これはペトロの性格でしょう。『何を言ってよいか、わからなかった』からこそ、何か言わずにはいられません。何かせずにはいられません。 これは性格です。簡単に良いとも悪いとも言えません。しかし、非常に現実味があります。本当に、その場にペトロがいて、本当にこのように言ったのだろうと思わせるような、現実感、臨場感があります。 ◎ 本人が『何を言ってよいか、わからなかった』くらいだから、私たちがこの言葉の意味を考える必要はないかも知れません。しかし、無視出来ないことのように思います。 先週の箇所のここを思い出していただきたいと思います。23節です。 … イエスは振り向いてペトロに言われた。 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、 人間のことを思っている。」 … ペテロはまたも人間的に考え過ぎています。 『小屋を三つ建てましょう』とは、モーセ・エリヤをこの場所に止めると言う意味になりますでしょう。時間を止めることにもなるでしょう。無意識であったかも知れませんが、ペトロは、またもイエスさまの十字架を回避しようとしています。十字架の出来事が起こらないようにと、願っています。勿論、その結果は、復活をも回避することになります。十字架の出来事がなければ、復活はありません。 ◎これまでにも読んでまいりましたように、主を十字架に追いやろうとする人と、主の十字架を回避しようとする人々が存在します。そのどちらも、本当には、十字架を理解していません。 イエスさまの十字架は、イスラエルの王として座る玉座です。十字架に架けられることは、王として即位することです。白く輝く栄光の姿に変容されたとは、そのような意味です。主を十字架に追いやろうとする人も、主の十字架を回避しようとする人も、どちらも、十字架の本当の意味を理解していないのです。 ◎5節。 … ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。 すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」 という声が雲の中から聞こえた。 … 出エジプト記に記されているように、預言者にして民の指導者モーセを通して、十戒が授けられ、そのことによって、イスラエルが神の民とされ、契約が結ばれました。 同様に、今、イエスさまを通して、神さまが語られ、新しい契約が結ばれようとしています。その契約は、十字架の血によって、成就するのです。 契約書にサインする、印鑑を押すのと同じことです。血判が押されたのです。 マタイ音書3章16〜17節。 … イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。 そのとき、天がイエスに向かって開いた。 イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。 17:そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、 天から聞こえた。… 17章5節とぴったり重なります。今、神の国が始まったのです。 更に、マタイ福音書4章17節。 … そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、 宣べ伝え始められた。 … 主の山上の変容のできごとによって、『天の国は』もはや現実になったのです。 ◎6節。 … 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 … 私たちは、日曜日毎に、神さまの招きの声に呼び出されて、教会に集まり、礼拝を持ちます。この礼拝に集うということと、主の山上の変容とが、重なります。 私たちは、三人の弟子と同じように、選ばれて集められ、山に登ったのです。そして、多くの者には隠されたままの神秘に与ったのです。イエスさまが、白く輝く栄光の姿に変容されるのを見たのです。イエスさまがキリストであることを知ったのです。 そうした時に、私たちは、『ひれ伏し、非常に恐れ』ないではいられません。 礼拝とは、恐れおののいて、神の前に、ひれ伏すことです。 恐れおののくことを知らないのは、イエスさまがキリストであることを知らないからであり、それは、イエスさまが、白く輝く栄光の姿に変容されるのを見ていないからです。 また、逆に言えば、ひれ伏して拝むことをしない者には、白く輝く栄光の姿に変容されたキリスト・イエスは見えないでしょう。 ◎恐れおののく者に対して、7節、 『起きなさい。恐れることはない。』というイエスさまの言葉が与えられます。恐れおののくことを知らない者には、この言葉が与えられることはありません。つまりは、本当の平安が与えられることはありません。 9節。 … 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、 今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 … ここでも、「山上の変容」と復活とが関係付けられています。そのことに先ず私たちは注目しなければなりません。 また、例によって、この不思議は、限られた者にだけ、教会にだけ、信仰を告白した者にだけ示され、他の者には秘密にされます。それは、或る意味で、今日でも同じです。「山上の変容」のような出来事は、信仰を持って受け止めるべき事柄であって、そうでないと唯のオカルトになってしまいます。 私たちは、隠されていた出来事を目撃し、秘密の言葉を授かったのです。それは、やたらに人に見せるものではありません。しかし、同時に、宣教せずにはいられないものです。 この逆説の上に、伝道という言葉が成り立ちます。 ◎弟子たちは、十字架の出来事が起こることも、その意義も理解していません。10節。 … 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと 言っているのでしょうか」と尋ねた。 … 内容的にも後退しています。今弟子たちが論じているのは、一般論のようなものです。 私たちも、十字架と復活の神秘に触れたのに、それを、一般論に戻してしまうようなことを、言ったり行ったりしています。 この辺りのことは、時間が足りませんので、またの機会にお話したいと思います。 ◎これに対して、イエスさまは答えられます。11〜12節。 … イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。 12:言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、 好きなようにあしらったのである。 人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 … イエスさまは、ここで初めて明確に、ご自分の身の上に起こったことと、キリスト預言とを重ねて語られました。 あなたは、 … 山上の変容 … を目撃したか、と問われているのです。真にイスラエルの王として即位されたお姿を見たかと問われています。勿論、主の十字架と復活に出会って初めてそのことが分かるのですが、その逆もまた成り立ちます。イエスさまをイスラエルの王・キリストとして告白する者に、復活の主は声を掛けて下さるのです。 『これはわたしの愛する子、私の心に適う者、これに聞け』 ◎私たちの教会には、イエスさまを通して、神の言葉が与えられています。聖書を通して、イエスさまの言葉が与えられています。 主の山上の変容は、神の国の到来、そして復活を告げる出来事です。『これに聞け』と言われました。私たちは、主の言葉に聞いて従うのみです。 |