◆20節、『ゼベダイの息子たち』とあります。『ゼベダイの息子たち』という表現は、私たち日本人の感覚からしますと、このゼベダイさんが、特別な地位に着いているとか、初代の教会で重要な役割を担っていたことなのかなと、想像させられる表現です。 しかし、必ずしも、そういうことではないようです。何々の子という言い方は、他の弟子たちについても似たような表現が用いられています。12弟子の中には、『アルパヨの子ヤコブ』もいます。こういう呼び方が普通になされていたのに過ぎません。 ゼベダイがどんな人物であったのかは、殆ど何も分かりません。聖書に書いてあることは、自分の船を持つ漁師であったことぐらいです。自前の漁師だけれども網元でもないということでしょうか。そこにも特別の強調、意味はありません。 ◆特別なのは、『ゼベダイの息子たちの母』の方です。 ヨハネ福音書19章25節には、このようにあります。 … イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、 クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。 … また、マタイ福音書27章56節には、やはり十字架の場面です。 … その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、 ゼベダイの子らの母がいた。 … マルコ福音書では、15章40節です。 … また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラの マリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメがいた。 … これらの記述を重ね合わせますと、『ゼベダイの息子たちの母』は、イエスの母の姉妹ではないかという説が生まれてきます。 母親が姉妹ということは、ヤコブとヨハネの兄弟は、イエスさまの従兄弟ということになります。何故そうなるのかという理屈はややこしくて、説明が諄くなりますので、割愛します。 ヨハネ福音書の『その母と母の姉妹』つまり、母マリアの姉妹に言及されているのもここだけです。これと、マタイ福音書の『ヤコブとヨセフの母マリア』、更に『小ヤコブとヨセの母マリア』とが、名前の並べ方からしても、同一人物だと言う説になります。 ◆本当かどうかは分かりませんが、しかし、今日の出来事そのものと、内容的にかみあうような気もします。兄弟の年齢も記されていませんが、少年ではないと思います。その母親が、イエスさまに頼み事をするのは、かなり出過ぎです。しかも、その後を見ますと、兄弟は母親に従い、後ろに控えています。 それを考え合わせますと、ゼベダイの妻は、イエスさまと特別の関係があったとなり、母マリアの姉妹だったという説も、あり得るかも知れません。 ◆『ゼベダイの息子たちの母』は、21節。 … 王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、 もう一人は左に座れるとおっしゃってください。 … 『ゼベダイの息子たちとその母』は、根本的に誤解しています。 イエスさまのご計画は、間もなく成就しようとしています。しかし、成就とは十字架に架けられて死ぬことです。 ゼベダイの家族は、イエスさまがイスラエルの王となって玉座に座るものと考えています。実際、間もなくイエスさまはイスラエルの王となって玉座に座られます。しかし、その玉座は、金銀ちりばめられた椅子ではなく、十字架なのです。 ですから、『王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください』とお願いしていることは、イエスさまの十字架の『ひとりを右に、ひとりを左に』架けて下さいと願っていることになります。 彼らには勿論そんな自覚・覚悟はありません。左大臣・右大臣になれるものと勘違いしているのです。 ◆22節。 … イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、 分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」 二人が、「できます」と言うと、 … イエスさまは十字架のことを仰っています。ゼベダイ親子らの欲望とは、全くずれています。彼らは、『自分が何を求めているのか、わかっていない。』のです。 私たちはそうした存在です。『自分が何を求めているのか』『何を求めたら良いのか』さえ分かりません。 イエスさまに従って、長い旅をして来たゼベダイ兄弟でさえ、それが分からないのです。 ◆23節。 … イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。 しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。 それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」 … この言葉は二重の意味を持っています。一つは、文字通りです。 『わたしの右と左』、イエスさまの十字架の右と左です。そのことからしますと、『あなたがたはわたしの杯を飲むことになる』とは、やがてはこの二人も殉教するということでしょう。 もう一つ重ねられている意味は、これも文字通りなのですが、殉教者は、他のことは何もしないで、まっすぐに殉教者になるのではありません。やはり、伝道者として牧会者として働くからこそ、或いは指導者として働いてこそ、ユダヤ人やローマ人に憎まれて、殉教者になります。イエスさまの右と左とは、教会で指導的な役割を担うと、ほのめかされているのでしょうか。 ◆何れにしても、イエスさまは、『わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。』と言われました。 これは不可解と言えば不可解な言葉です。 『わたしの決めることではない。 それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。』 イエスさまのこの言葉を、人選や用兵のこととして読みますと、イエスさまは、雇われ監督のように見えてしまいます。少なくとも、オーナーではありません。 そんなことはありませんから、この表現は、殉教を強く意識しているのだと思います。 ◆殉教を、人選や用兵と同一次元のこととして読みますと、非常にいやらしいことになります。自爆テロを連想させられます。 ここは、イエスさまの力は限定されていて、人選・用兵に、制限があるのかという話ではありません。そうではなくて、事柄の性質から言って、イエスさまは、一人の人に敢えて殉教を強いるようなことはなさいません。 しかし、イエスさまは、やがては、ゼベダイの子らが、教会の指導者になることも、その結果、殉教の道を辿ることをも、知っておられるのです。 ◆ところで、22節に戻って、ヤコブとヨハネは、『「できます」と』答えました。 これは、勿論、殉教の道を考えてのことではありません。もっと他のことを考えています。しかし、覚悟の程を言い表しているには違いありません。この二人も、単に出世したいと考えて、イエスさまの杯を飲むと応えたのではないと思います。 何を考えていたのか、何を求めているのか、当人が分からないかも知れません。しかし、この問答の結果、『「できます」と』答えました。誓約しました。 この上は、彼らは、自分のこの言葉を、自分の身に負って生きるしかありません。 ◆24節。 『ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。』 殉教者が決められる話だったならば、他の者が腹を立てる理由がありません。 ヤコブとヨハネは、これから起こるべき十字架を理解していないけれども、ほかの十人の者もまた、理解していません。 … それだけではなく、教会を理解していません。 ◆このように、弟子たちの行動を批判的に言いますと、冒涜的に聞こえる人があるでしょう。その気持ちは分かります。弟子たちの批判など聞きたくないかも知れません。私も聖書学者によるパウロ批判などは聞きたくもありません。 しかし、これは、私が弟子たちの行動を批判しているのではありません。弟子たち自身が、そのように記しているのです。そのように捉え、総括し、自ら告白しているのです。 何よりも、十字架も、復活も、イエスさまの預言の言葉を聞いていながら、本当には理解していなかった、受け入れる用意が出来ていなかったと、自ら告白しているのです。 福音書には、ペトロだけではなく、他の弟子たちも含めて、数々の失敗談、更には不信仰な行いが、露骨に描き出されています。 しかし、それを伝えたのは、ペトロや12弟子に反感を持つ人たちではありません。ペトロたちに好感を持つ人、それどころか、その後継者たちによって伝えられて来たのです。 ◆私たちもまた、その伝承を伝え続けることによってこそ、福音を語って来ました。 福音書を書いたのが12弟子でなくとも、弟子たちの口から口に伝えられ、残されたイエスさまの言葉が、福音書の内容です。 私たちは、福音書を読んで、弟子たちを批判したり、まして軽蔑したりするものではありません。しかし、逆に、弟子たちを弁明したり、弟子たちの罪や欠点に目を瞑る必要はありません。 むしろ、実に、赤裸々に描かれている、弟子たちの罪や失敗こそ、私たち自身が持っている、罪や欠けなのですから、このような聖書を読み、そして、私の身の上に起こったこととして、告白する必要があります。 それは福音を伝えることと、全く重なることだと考えます。弟子たちの失敗や罪を庇う人は、自分の失敗や罪も覆い隠してしまう人でしょう。そも、弟子たちを庇うという発想が、弟子たちを見下げています。神格化する必要を感じている人こそ、実際には、見下げているのに過ぎません。弟子たちの実存を賭けた赤裸々な証言を、隠してはなりません。 ◆さて、弟子たちの愚かしい罪とは、一言で言えば、出世争いです。これが、最も深刻な、人間の欲望の一つです。 政治家の果てしもない権力争いから、ちっぽけなグループの中の主導権争いまで、数も限りもありません。こういうお話をするのに、具体例などはいりません。どこにでもあり、どなたもよくよくご存じだからです。 ◆このような現実に対して、イエスさまのメッセージは、26節以下です。 … しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、 27:いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。 … 『あなたがたの間では』とは、言い換えれば、教会ではということです。 『皆の僕』公僕のような考え方は、聖書に由来します。 長くなりますから、省略せざるを得ませんが、例えばサムエル記や申命記などに、この問題が主題として上げられています。 ◆最後に、28節。 … 人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人 の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。 … これは、教会にあっては、所謂、上の者が下の者に仕えるという、全く新しい倫理の根拠です。その根拠は主の十字架の死にあります。と言うことは、この倫理を否定する者は、主の十字架の死の意義を否定しているのです。 ◆もう大昔と言って良いほど昔ですが、時の総理大臣・佐藤栄作と同性同名の人が集まるという企画があって、テレビで放映されていました。 佐藤栄作首相が挨拶に立ち、「全国から佐藤栄作が集まっています。上は会社の社長から、下は … 」そこでちょっと間を置いてから言いました。「下は … 日本国民の公僕たる佐藤栄作まで」。 私には佐藤総理の人物人柄やその仕事など評価する知識もありません。あの時代には、現在よりも酷い、利権政治家がいたのは事実だと思います。それでも、当時には未だ、公僕、分かり易く言えば、世のため人のためという意識はあったようです。少なくとも、佐藤総理には、総理が一番偉いようなことを言ってはならないという政治センスはありました。現代の政治家にそれがあるかどうか、 … 私には分かりません。 |