◆今日からアドベントに入ります。クリスマスの飾り付けも行われました。街には既にクリスマス・イルミネーションが見られます。当然ながら、路行く人々も、教会に関心を持ってくれるのではないでしょうか。 普段から、教会玄関前に立ち止まって、看板を眺めている人があります。何故か、ワンちゃんたちは教会に興味があるらしくて、座り込んだり、スロープを上がったりしています。不思議なことに、教会玄関前で、おしっこやうんちをするワンちゃんはいません。何か神聖なものを感じているのではないかとも思いますが、分かりません。こんな話をしていると、明日の朝には、おしっこ跡を発見するかも知れません。 ◆そこで、12月は説教題を工夫してみました。普通は聖書個所からそのまま抜き出します。たった1行でも聖書の言葉をそのまま伝えたいと思うからです。あまり細工しません。 今月は、凝ってみました。クリスマスの後の礼拝は、どうしても礼拝出席が少なくなります。特に今年は12月31日、大晦日です。そこで説教題は『子供たちがもういない』、まるでミステリー小説のような題です。人目を惹くことが出来るかも知れません。しかし、これは聖書からの抜き書きです。聖書のままです。 ◆抜き書きではないのは、今日の題だけです。『月日は百代の過客にして』、どなたもご存じの松尾芭蕉『奥の細道』の冒頭部分です。『月日はひゃくだいの過客にして』と覚えていましたが、今ははくたいのようです。古典文学でも、何故か読み方が変わります。 何故、聖書にないこの言葉を説教題にしたのか、それが、今日の箇所の注釈になります。 ◆私は未だ10代の時に、あるきっかけがあって聖書を読みたいと思い。本屋さんに行きました。当時の私の知識では、古い旧約聖書は必要ないから、新しい新約聖書をと思い、値段も廉いから新約聖書だけを買いました。 最初の頁を開いて、よっぽど止めようかとも考えましたが、お金を出したのだから、もう少し読んでみようと、続け、その夜の内に読み終えて、次の日に教会に出掛けました。 旧約聖書から始めていたら、教会に出掛けるのは何年か後だったかも知れません。結局行かなかったかも知れません。 マタイ福音書の最初の1頁で諦めていたら、信仰生活は始まらなかったでしょう。 ◆どうして新約聖書は、マタイ福音書1章の系図から始まるのでしょうか。多くの人がこれに躓き、聖書は読むに値しないと、見切るのではないでしょうか。 ある小説家は、「最初の3行が書けたら、大方書き終えたようなものだ」と言っています。最初の3行を書くまでに、考えたり調べたり、時間が要るという意味もあるでしょうが、それ以上に、最初の3行で、読んで貰えるか、それとも見捨てられるかが、決まるという意味でしょう。 実際、私たちは、多くの名作と呼ばれる作品の冒頭を知っています。冒頭部分だけを覚えています。『奥の細道』然り、『枕草子』然り、『徒然草』、そして『平家物語』。 ◆それなのに、何故、聖書の冒頭は、マタイ福音書1章の系図なのでしょうか。 その理由になるかと思いますので、『平家物語』を上げます。冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者(じょうしゃ)必衰の理(ことわり)をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。」、あまりにも有名です。何とも言えない美しい、力ある日本語の響きです。『平家物語』には、那須与一の段、鹿(しし)ヶ谷、熊谷直実(なおざね)の件、他にも名場面が沢山あります。 後の時代、宴席などで、琵琶法師がこれをうたいます。物語が長大ですから、リクエストに応えて、名場面を、それも触りだけを披露することになります。最もリクエストが多いのは、どの物語でしょうか。 それは、誰もが知る名場面ではなく、誰それの郎党に何々ありと、人名が羅列される場面でした。その中に、自分の祖父や父、先祖の名前を聞き取り、拍手喝采するのだそうです。この件こそが、どんな名場面よりも、人気がありました。 ◆マタイ福音書が系図から始まるのは、同じ理由だと考えます。私たちにとっては、ほぼほぼ無意味な名前の羅列が、ユダヤ人にとっては、意味深いものです。 それでは、羅列された名前を見なくてはなりません。 1〜3節辺りは、創世記を読んでいる人には馴染みの名前です。5〜7節辺りも知っている人が多いでしょう。しかし、それ以外はあまり馴染みがありません。やはり、無味乾燥に聞こえます。 ◆今日の礼拝では、あまりにも長く、聴衆がうんざりしてはならないと、16〜17節だけを読んで貰いました。16節をもう一度ご覧下さい。 … ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。 このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。… お気づきになりましたでしょうか。100人中99人までは気がつきません。『ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアから』、そうしますと、これはヨセフの系図です。マリアは、ヨセフの結婚相手に過ぎません。そして、マリアは、ヨセフによってではなく、聖霊によって身ごもったとすれば、この系図は、イエスさまの系図にはなりません。あくまでも、義父ヨセフの系図です。 小見出しにも、1章1節にも、『イエス・キリストの系図』と記されていますが、これは『イエス・キリストの系図』たり得ません。 ◆映画『ベン・ハー』の原作を読みますと、ヨセフはマリアの叔父だったと書いてあります。当時のユダヤでは、叔父と姪の結婚はあり得ないことではありません。もしそうなら、この系図は、ヨセフの系図であり、かつマリアの系図となり、つまりは、イエスさまの系図となります。作者ルー・ウォーレスは、系図の矛盾に気づき、辻褄を合わせるために、ヨセフをマリアの叔父としたのでしょう。そういう伝承もあったのでしょうか。 しかし、ヨセフがマリアの叔父だったと書いている聖書個所はどこにもありません。 この系図は、普通の系図ではありません。系図と言えるかも疑問です。 ◆系図というものをあまり見たことはありません。日本史の本に付録として載っているものくらいです。この系図を見ると、女性の名前は出て来ません。 一例として、『更級日記』の著者を辞書で引くと、「父は菅原孝標(たかすえ)。母は藤原倫寧(ともやす)の娘。小母は『蜻蛉日記』の作者である藤原道綱母。」とありました。『更級日記』の著者は、菅原孝標の娘です。系図に名前はありません。小母に当たる『蜻蛉日記』の作者も名はありません。藤原道綱母です。紫式部でさえ本名は不明です。来年の大河ドラマの主人公だそうですが、本名は不明です。 系図では、男の名前だけが記され、女性は、女とか娘という標記です。名前が載る女性は女性天皇くらいです。 ◆しかし、マタイの系図には、女性が何人も登場します。一人ずつ見ます。 3節。 … ユダはタマルによって … 『によって』とあるように、タマルは女性です。長くならないように説明します。タマルはユダの息子の妻でしたが、子どもがないままに夫を失いました。本来なら、その弟が夫となるべきでしたが、彼に受け入れられません。そこでタマルは遊女に化けて、舅であるユダと関係し、その子を身ごもりました。夫の血筋を残すためでした。 詳しくは描かれませんが、この系図は、この出来事に触れています。そこまでして夫の家系を残すのは美談なのでしょうが、決して系図の飾りにはならない話です。 ◆5節。 … サルモンはラハブによってボアズを … ヨシュア記2章に登場するラハブは、遊女です。結果的にはイスラエルに貢献しますが、街の人々を裏切ったとも言えます。遊女ラハブと、ボアズの母ラハブは別人物だという説もありますが、そもそも、ラハブという名前の意味は、娼婦です。 同じく5節。 … ボアズはルツによってオベドを … ルツとはルツ記の主人公です。夫の亡き後も姑に仕えた貞女として描かれますが、彼女はユダヤ人ではありません。旧約聖書は普通混血を嫌います。忌み嫌います。 ◆極まりは6節です。 … ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ … この出来事は、サムエル記下に詳しく描かれています。ダビデは忠実で有能な部下であるウリヤ『の妻』に魅せられ、奸計を用いて、ウリヤを戦死に追い込みます。執拗で狡い仕方で、彼を殺します。そして、そもそもは、『ウリヤの妻』・バト・シェバが、湯浴みする姿をダビデに見せて誘惑したのが、物語の発端です。 とんでもない女です。およそ系図にふさわしくありません。だからなのか、バト・シェバは、他の女性3人とは違う扱いで、名前が伏せられています。 ◆そして、系図に登場する最後の女性は、マリアです。 マリアさんについては、ルカ福音書はいろいろと書き記しています。それを見る限り、とても有能で信仰深い人のようです。しかし、マタイは、マリアの人柄については、何も記していません。マリアさんを美化して描くのはルカだけです。マルコ・マタイでは、むしろ逆です。また、福音書以外には、登場しません。 ◆17節。 … こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、 ダビデからバビロンへの移住まで十四代、 バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である。… 『アブラハムからダビデまで』が何年間に当たるのかは、分かりません。聖書のあちこちの記述から類推する人がいますが、科学的には勿論、聖書的にも根拠はありません。 『ダビデからバビロンへの移住まで』は、かなり正確に分かります。ダビデが王に即位したのは、紀元前1000年頃です。少なくともそのように覚えた方が、覚えやすいと思います。辞書には1002年頃とあります。 ◆そして、『バビロンへ移され』は、紀元前587年としたら、やはり覚えやすいと思います。何故なら、バビロン捕囚が終わったのが、紀元前538年です。これは覚えやすい数字です。538、つまり、イザヤです。語呂合わせです。 そして、バビロン捕囚が49年とすれば、587年になります。50年ではなく49年なのには理由があります。ヨベルの年です。ユダヤでは、畑を耕作する周期が7年、7年に1回畑を休ませます。その7倍が49、つまり、奴隷も解放されるヨベルの年です。 実際のバビロン捕囚期間については議論があります。 1000年から587引きますと、413年間となります。それが14代ですから、1代平均29.5になります。ほぼ30年、妥当な数字です。ダビデの産まれた年から数えますと、少し長くなります。 ◆『バビロンへ移されてからキリストまで』 つまり、紀元前587年から、紀元0年まで、これを14で割りますと、約42年になります。30年に比べてかなり長めです。 『アブラハムからダビデまで』も、これで推測するしかありません。500年くらいでしょうか。しかし、創世記の記述とは一致しません。真面目に電卓で計算しましたが、殆ど意味をなしません。結論として、やはり、これは普通の意味での系図ではありません。 ◆普通の系図との違いにこそ、この記事の主題が見えると考えます。 違いとは、第1に女性が登場することです。しかも、彼女らは、決して理想的な姿を持っている人ではありません。むしろ逆です。 今一つの違いとは、この女性たちをも含めて、世の流れに翻弄された人々の名前が列記されていることです。彼らは、流浪とも言える人生を経験しています。 アブラハム、イサク、ヤコブは言うまでもありません。その生涯は旅の連続です。単に旅ではなく、むしろ流浪です。 ダビデも同じです。若い時にはサウル王に追われ、晩年にいたり息子アブサロムから逃れなくてはなりませんでした。 その後、民族単位での流浪、幾度にも渡る捕囚を体験し、また、故国に帰還しました。 ◆イエスさまの家族も同様です。住民登録のために、住み慣れたナザレから離れて、訪れた先のベツレヘムでクリスマスの出来事は起こりました。ヘロデ大王の迫害により、家族はエジプトに逃亡、亡命しなくてはなりませんでした。 そもそも、イエスさまの生涯は、伝道旅行に費やされ、十字架へと向かう旅でした。 『月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり』、その通りの生涯でした。 ◆芭蕉晩年の句に『この道や行く人なしに秋の暮れ』があります。『この道』とは俳諧の道であり、その真の後継者はいるだろうか、枯れ葉舞う寂しい『秋の道』を独り行くという意味でしょうか。 信仰の道には、十字架を背負ってイエスさまの後に従う大勢の人がいるのでしょうか。 使徒言行録には、イエスさまの後に従う大勢の人が登場します。それ以来、2000年、福音の灯火を持った信仰者の旅は続けられて来ました。 私たちもまた、クリスマスの灯りを頼りに、1年ごとの旅を続けています。 |