◆2節から順に読みます。 … 「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。 … 『ある王』が神さまを表し、『王子』がイエス・キリストを表していることは間違いありません。それでは『婚宴』は、何を比喩しているのでしょうか。譬え話ですから、読む人ごとに解釈が分かれるのは仕方がありません。むしろ当然です。 『婚宴』を礼拝または教会と受け止める人がいます。確かに、この婚宴への招きを、教会の礼拝への招きを象徴していると考えるのは、キリスト者にとっては当然のことでしょう。そのように読み、我が身を、我が身の信仰生活を振り返ることには、意味がありますでしょう。 ◆このような解釈を嫌う人もあります。何故嫌うのかも含めて、先を読んでまいります。 3節。 … 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。 … 『家来たち』とは、イエスさまの弟子たちのことであり、今日ならば牧師・伝道者を指すのでしょうか。『婚宴』を礼拝または教会と受け止める前提に立って読めば、牧師・伝道者が熱心に伝道しても、その声に耳を傾ける人はいないという話になります。その通りかも知れません。 ◆『婚宴に招いておいた人々』という表現は微妙です。婚宴から考えますと、予め招待状を貰った人となりますでしょう。 ここに重点を置いて読めば、ちょっと違った解釈が生まれます。予め招待状を貰った人とは、ユダヤ人のことになります。彼らは神さまから救いの約束を与えられた民族です。そして、何時の日にか、神さまが自分たちを救い出して下さる、そのためにメシア・キリストを送って下さると信じていました。彼らは、予め招待状を貰っていました。 そして、その日が来ました。けれども彼らは、これに答えることはありません。そこで、わざわざ使いを送りました。『家来たち』とは、預言者のことでしょうか。 結論を急がず、先を読みます。 ◆4節。 … そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。 『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。 牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。 さあ、婚宴においでください。」』 … 予め招待状を貰った人とは、ユダヤ人のことならば、『別の家来たち』とは、別の預言者となります。確かに、繰り返し預言者が送られました。しかし、それに聞こうとする人はありません。 ◆この譬えを教会に重ねて読むならば、繰り返し、何通りにも招待状が送られているのにという話になりますでしょうか。教会は、日曜日毎に、休むことなく礼拝が守り続けられています。余程のことがなければ、お休みはありません。 中越地震の後、『教団新報』として取材にまいりました。その時に、当事者ではなく、その父親から聞いた話です。親子ともに牧師です。 地震が起きた時に、息子の主任牧師は出張中でした。彼は日曜日の礼拝に間に合うように帰途につきました。電車は途中で運休になっています。駅の近くで自転車を買い、電車が動いている次の駅まで向かいます。更にまた自転車、自転車も使えない場所が多く、担いで歩き、やっと、日曜日の朝に、教会に辿り尽きました。 教会員も殆どの人が被災しています。彼は、被害を受けた礼拝堂で、たった一人で礼拝を守りました。お父さんの隠退牧師も出席出来ないくらいの惨状だったと聞きました。 ◆この後、コロナの感染拡大という余程のこと、のっぴきならないことが起こり、礼拝を守ることが困難になりました。多くの教会で、礼拝を二つに分散したり、牧師と役員だけで守ったり、いろいろと切羽詰まった対応がなされたことを聞きます。コロナ対策です。 しかし、全く礼拝を休んだ教会は、私の知る限りでは一つもありません。オンライン礼拝もありましたが、中継しているのですから、最低でも牧師一人で守っています。 ◆脱線が始まっていますので、元に戻ります。5節。 … しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ … これは、ユダヤ人のことであれ、教会員のことであれ、同じです。 礼拝よりも日常の生活の方が大事です。確かにその通りです。そうでなくては困ります。何人か、そのような人に出逢いました。教会のこと、礼拝には熱心なのですが、普通に働いて、自分の、家族の生活を営むことの出来ない人がいました。そのような人を、信仰熱心だと褒める訳にはいきません。 現代でも、新興宗教に帰依して、家族・職場、父母を捨てる人がいます。そのような人を、熱心な信仰の故だと肯定することは出来ません。 ◆脱線の誘惑を避けて先に進みます。6〜7節。 … 6:また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7:そこで、 王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。 … ここは、教会の礼拝と教会員とに準えて解釈することはとても困難です。こじつける必要はありません。 教会員だという説をも踏まえながら読んでまいりましたが、ここを見ますと、やはり、ユダヤ人とメシア・キリストのこととして読むのが正しいようです。それが、教会にも示唆を与えると言うことでしょう。 『王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった』とは、初期のキリスト教伝道で、多くの弟子たちが殉教したことと重なります。これは、イエスさまの譬え話ですから、イエスさまがこのような事態を預言していたと取ることも出来ますでしょうが。無理なこじつけはしなくとも、当時のマタイやルカの教会の現状だったに違いありません。 ◆『王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。』とは、エルサレム陥落のことを指していると考えられます。エルサレムの腐敗が、ローマによる破壊をもたらすという、この時点では預言です。『王』はあくまでも神さまの比喩で、ローマ皇帝のことではありません。しかし、ローマによる破壊も、原因は、エルサレムの腐敗にあるということでしょう。 このような構図は、エレミヤ書にそっくりです。引用していると長くなります。省略しますが、エレミヤは、そっくりな預言を繰り返しています。 ◆8節以下になります。ここが重要な所です。 … そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、 ふさわしくなかった。 … これを読みますと、ユダヤ人の比喩だったことがはっきりとします。 神の民として選ばれたイスラエルは、それにふさわしくなかったと、断言されています。 但し、このことをも、我が身のこと、教会に語られているのではないかと読むことは間違っていないどころか、欠かしてはならない読み方だと考えます。 振り返ってみれば、マタイ福音書18章辺りから、もしかしたらその前から、教会は、ふさわしい信仰の実を生らせているかということが、主題でした。ここも同様でしょう。 ◆9節。 … だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。 … ここが重要な所です。 招かれた者、招待状を持っている者ではなく、大通りを歩いている誰も彼もが、改めて招かれました。この部分は、教会に語られた譬えとして読む方がふさわしいでしょう。 ごく大雑把に言いますと、招待状を持っている者、ユダヤ人は、福音から除けられました。むしろ、ユダヤ人が、これを拒否しました。ために、異邦人、つまりはキリスト者が、婚宴の場に招き入れられました。 ◆10節。 … そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、 婚宴は客でいっぱいになった。 … 譬えですから、全部を合理的に説明することは出来ませんし、ぴったり当て嵌まらない点もあります。しかし、これが教会を例えているとしたら、どのように聞き、受け止めたら良いのか、複雑です。 『善人も悪人も皆』です。大変なことです。 しかし、もしかしたら、それが現実かも知れません。 玉川平安教会には、悪人はいないかも知れません。いないでしょう。しかし、いたかも知れません。日本基督教団はどうでしょう。いたかも知れません。 ◆とにかくに、これを教会の譬えとして聞くならば、今教会に集まっているのは、招待状を貰った、そもそも資格のある人だとは限らないと言わなくてはなりません。 しかし、別の見方をすれば、王の命令・言葉によって、集められた人です。 招待状も来なかったのだから、出席義務はないと考えるか、神さまのお声掛かりだと考えるか、人それぞれです。 誰彼なく集められた内の一人だなどとは、プライドが許さないという人もありますでしょう。人それぞれです。資格がないのに呼ばれた感謝、嬉しいと思う人もいます。 ◆11節。 … 王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。 … 王の命令に従って、『見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので』すから、中に『婚礼の礼服を着ていない者が一人いた』のは、当たり前です。むしろ、呼ばれてもいないのに、礼服を着ている方が不自然です。 何事もこじつけて説明することは可能です。呼ばれてもいないのに、礼服を着ている人が多かったのは、招待状がなくとも、この王子の婚宴に大いに関心があって、礼服を着て、周辺にうろちょろし、様子を覗き見たかったのかも知れません。強引な解釈ですが、あり得ないでもありません。日本でもイギリスでも、そのような光景は見られます。 ◆王が、礼服を用意したのかも知れません。王宮ならば、何百人分もの晴れ着があっても不思議ではありません。もしそうだとすれば、不可解にしか思えない次の11節以下に説明が付きます。特に12節。 … 王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。 … 礼服を、王が用意したのだとすれば、それを着なかったことは咎められます。 ◆それにしても、13節は異様です。 … 王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。 そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』 … これが『礼服を着ない』人への刑罰です。 同じマタイ福音書の23章5節にこのように記されています。 … そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、 衣服の房を長くしたりする。 … 今日の言葉とは真逆にも見えます。23章5節では、上辺着飾ったファリサイ派が批判されています。しかし、今日の箇所では、『礼服を着ない』ことが咎められます。 ◆譬え話を読む限界かも知れません。しかし、こんな風に読み取ったらどうでしょうか。誰もが招待状もなく、教会に集められました。当然、それにふさわしい見てくれではありません。しかし、一度、教会に入ったならば、礼拝に出たならば、最低限整えなければならないことがあるのではないでしょうか。 必ずしも、服装のことではないでしょう。むしろ心のこと、気持ちのことでしょう。神さまの前に立っているという気持ちがなければ、放り出されるかも知れません。 聖書を読む時、祈る時、讃美する時、それにふさわしい服装ならぬ、心構えがあるでしょう。何より、神の言葉を聞き、学びながら、心に、醜い思いを育て、嫉妬や憎しみや差別などという醜い実を生らせてはいけません。 ◆人には、教会を大事に思う心はあっても、他の何よりも優先して礼拝を重んじることが出来ない場合があります。いろいろと礼拝に出られない言い訳があります。成る程と聞いて貰える都合も、そんなことでと受け入れられない言い訳もあります。そのいちいちに例を上げるまでもないでしょう。確かに、この食卓への招きは、教会の礼拝への招きを象徴していると考えられます。ここに上げられたいろんな人のいろんな弁明を聞き、自分も同じではないかと顧みることは大切だと思います。 ルカ福音書の同じ記事の方が、招きに応じられない言い訳が沢山述べられています。それが本当の事情・思いなら仕方がありません。しかし、単に言い訳なら、天国の食卓から追い出されるかも知れません。 |