日本基督教団 玉川平安教会

■2023年5月21日 説教映像

■説教題 「らくだが針の穴を通る

■聖書   マタイによる福音書 19章16〜30節 

       

◆この出来事には、実にいろいろな教えが重ねられています。前後にある記事との比較も大切です。それを全て読み解くことはなかなか困難です。3時間くらいは時間が欲しい所です。それは叶いませんし、もし、徹底的に礼拝説教2ヶ月分くらいの時間を掛けて読むとしたら、マルコ福音書で読んだ方が良いとも考えます。

 そこで、今日は、あくまでマタイ福音書に限定して、また、一つのことに絞ってお話ししたいと思います。


◆16節。

  … 一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、

   どんな善いことをすればよいのでしょうか。」

 この時代、聖書世界でも、地中海世界でも、更に中国でも、永遠の命、むしろ不老長寿に憧れる人が多くなりました。王侯貴族のみならず、一般人の間にも、不老長寿を求める人がありました。

 皇帝の中には、世界中に部下を遣わして、不老長寿の薬を探させる者もいました。

 一般市民はそんなことが出来る筈もありません。だからこそ、信仰にそれを求めたと思います。この男も、その一人なのでしょうか。


◆彼は『どんな善いことをすればよいのでしょうか』と問います。どこに探したら良いでしょうではなく、何をしたら良いでしょうでもありません。『どんな善いことをすれば』と尋ねています。良いことをすれば、『永遠の命を得る』ことが出来るという結論が、既にこの男の中にあります。その上で、『どんな善いことをすれば』と尋ねています。

 普通の発想だし、健全な発想だと言っても良いかも知れません。

 坊主を食らえばとか、人魚の肉を食えばとか、赤子の血を吸えばなどという、とんでもないことを考える人がいた時代としては、まともな考えでしょう。

 現代のいろんな宗教を信じる人も、似たようなことを考えていると思います。


◆この問に対して、イエスさまは答えました。17節。

  … もし命を得たいのなら、掟を守りなさい …

 実に簡単な答えです。『永遠の命を得るには』というという問なのに、答えは『命を得たいのなら』と、答えています。気になりますが、余所道にそれないように、無視します。

 『もし命を得たいのなら、掟を守りなさい』、あまりにも簡単すぎる答えです。そんなことなら、イエスさまに聞かなくとも、誰もが言うでしょう。自分でも思い当たるでしょう。何だか、ちゃんと問に答えて貰った、という満足はありません。


◆ですから、この人は、なおも尋ねます。

 『どの掟ですか』。「どんな掟ですか」ではありません。

 律法は沢山あります。沢山ありますが、この人は大方知っているのでしょう。ユダヤ人ならば、ごく普通のことです。ですから、「どんな掟ですか」ではなく、『どの掟ですか』と尋ねました。


◆イエスさまは答えました。18〜19節。

  … 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、

  19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

 『隣人を自分のように愛しなさい』という掟はなかなか簡単なことではないと思います。イエスさまは他の所、例えば山上の垂訓で、このことを詳しく教えておられます。しかし、それも余所道になる恐れがありますので、今日は触れません。

 18〜19節は、モーセの十戒の一部、後半部分です。

 ユダヤ人ならば、誰もが知っています。日々口に唱えています。


◆この青年は、多分、がっかりして、なおも言います。20節。

  … そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。

   まだ何か欠けているでしょうか。」

 当然の反応です。彼が求めているのは『永遠の命を得るには』何をしたら良いか、です。尋常のことではありません。尋常のことではないから、今評判の、深い知恵を教えてくれるイエスさまに尋ねているのです。

 その答えが、誰もが知っていて、日々口に唱えているような教えならば、これは、がっかりします。


◆この問答は、現代でも繰り返されていると思います。多くの青年が、牧師に尋ねます。「私は何をしたらよいでしょう」。それは殆どの場合、今やっていることではなく、今いる場所ではなく、「私は、他の何をしたらよいでしょう」「他のどこに行ったらよいでしょう」、つまり、今やっていることを止めたい、今いる所から離れたいという意味です。学校を止めたい、仕事を変わりたいという意味です。

 そうしますと、真面目な牧師ならば、その人のことを思うならば、答えます。「今いる場所で、今やっていることを続けなさい。」そうして、がっかりされてしまいます。


◆20節。

  … そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。

   まだ何か欠けているでしょうか。」 …

 これは、がっかりした言葉です。『そういうことはみな守ってきました』、「とっくに知っています。元からやっています。そんなことではなく、そんなつまらない答えではなく、もっと別の答えを下さい」という意味です。そういう意味でしかありません。

 それならばいっそ、「私はこれが良いと考えていますが、イエスさまどんなものでしょうか」と聞いたらどうでしょう。

 そもそも、青年は『どんな善いことをすればよいのでしょうか』と聞いています。『善いことをすればよい』、「そうすれば永遠の命を得られる」と、既に答えを出しています。今更聞くことはありません。ない筈です。『どんな』だけが、意味のある質問です。


◆21節。

  … イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、

   貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。

   それから、わたしに従いなさい。」 …

 22節には

  … 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。 …

 とあります。しかし、これは、おかしなことです。おかしな反応です。

 イエスさまは、ちゃんと青年の問に答えています。しかも、青年の問に添って答えています。

 青年は、『どんな善いことをすればよいのでしょうか』と聞いています。これは、「今までも良いことをして来ました。」という前提に立っています。ですから、イエスさまは、この青年の問の前提に立って、未だ足りないことを教えて上げました。『どんな』という問にも答えて上げました。


◆それなのに、

  … 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。 …

 自分で自分の問を否定したのです。

 説明もあります。

  … たくさんの財産を持っていたからである。 …

 このことをも考え合わせると、この青年の本当の問は、こういうものになります。

  … 『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』「私   はこれまでも良いことを重ねて来ました。でも少し足りないようです。後どのくら   い善いことをしたらいいでしょうか。もうちょっと出来るかと思います。でも自ず   と限界もあります。私に出来るほどほどのことを命じて下さい。」 …

 彼の問は、本当は、このような問でしかありません。

 私は言いたくなります。この青年は、永遠の命を、なるべく安く買いたいと考えているのではないでしょうか。永遠の命は欲しい、しかし、法外な値段を支払うことは出来ない、なるべく廉くして貰いたい、それが本音ではないでしょうか。


◆23〜25節。

  … イエスは弟子たちに言われた。

  「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。

  24:重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、

   らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」

   25:弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、

  「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。

 弟子たちが驚くのは、ごく当然です。現代人でもそのように考えるでしょう。この時代はもっとです。つまり、この時代の人は、誰かが金持ちなのは、それだけの善いことをして来た結果であり、神さまから祝福を受けた結果なのだと考えていました。

 現代人のように、金持ちなのは何か悪いことをして儲けたのだろう、とは考えません。

 

◆この箇所を読むと、何時でも思い出します。安部公房に、『壁』という短編があります。

砂漠の中でキャラバンが、壁に行く手を阻まれます。どうしたものかと悩んでいると、一人が言います。「らくだに乗れば、壁は越えられる。らくだが針の穴を通るのは、金持ちが神の国に入るよりも易しいと書いてある。」そうして、らくだに乗って壁を越えます。

 その通りかも知れません。


◆27節に飛びます。

  … すると、ペトロがイエスに言った。

  「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。

  では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 …

 嘘です。ペトロは捨てていません。『何もかも捨てて』、大嘘です。ペトロは肝心なものを捨てていません。

 『では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』

 これを捨てていません。報い、一番肝心なものを捨てていません。


◆元々の出典は分からなくなってしまいましたが、こんな話があります。猿は、バナナが入った壺に手をつっこむと、その手が抜けなくなるそうです。バナナを握った手を解けば、バナナを手放せば、壺から手を抜くことが出来ますが、手を離さないから、どうしても抜けないのだそうです。

 これは、嘘です。日光で、観光客や土産物店から食べ物を奪い、暴れまくる猿を、壺を使って捕まえたなどとは、聞いたことがありません。

 壺に突っ込んだ手を抜くことが出来ないのは、握った物を離せないのは、人間です。人間だけです。

 『では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』

 ペトロは、壺の中で握った手を離していません。一番肝心なものを捨てていません。


◆26節に戻ります。

  … イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、

   神は何でもできる」と言われた。 …

 何だか、比喩に限界を感じますが、敢えて言えば、手を離すことが出来るのは、捨てることが出来るのはイエスさまです。

 イエスさまは何を捨てたのか、命です。十字架に架けられ、命を捨てられました。そうして、永遠の命への道を切り開かれました。


◆28〜29節は、読むと長いので省略しますが、捨てることが出来た者だけが、本当に値打ちあるものを手に入れることが出来ます。

 『永遠の命を受け継ぐ』ことが出来ます。

 念を押すまでもないでしょうが、統一原理や他の、でたらめな新興宗教が言っていることとは違います。

 『家、兄弟、姉妹、父、母、子供』を捨てて、これらを教団に寄付して、従って来なさいと言っているのではありません。

 そもそも、18〜19節で『父母を敬え』と言っています。普通の教え、常識を覆すことを奨励しているのではありません。むしろ、当たり前のことを当たり前として説いています。しかし、これらを壺の中のバナナにしてはなりません。


◆30節。

  … しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。 …

 これは、むしろ次回の箇所に入れた方が通りが良いでしょうが、今日の箇所で読めば、壺に手を入れていれば、背中に大荷物を負っていれば、入り口を通らないということです。