◆この出来事には、実にいろいろな教えが重ねられています。前後にある記事との比較も大切です。それを全て読み解くことはなかなか困難です。3時間くらいは時間が欲しい所です。それは叶いませんし、もし、徹底的に礼拝説教2ヶ月分くらいの時間を掛けて読むとしたら、マルコ福音書で読んだ方が良いとも考えます。 そこで、今日は、あくまでマタイ福音書に限定して、また、一つのことに絞ってお話ししたいと思います。 ◆16節。 … 一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、 どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 この時代、聖書世界でも、地中海世界でも、更に中国でも、永遠の命、むしろ不老長寿に憧れる人が多くなりました。王侯貴族のみならず、一般人の間にも、不老長寿を求める人がありました。 皇帝の中には、世界中に部下を遣わして、不老長寿の薬を探させる者もいました。 一般市民はそんなことが出来る筈もありません。だからこそ、信仰にそれを求めたと思います。この男も、その一人なのでしょうか。 ◆彼は『どんな善いことをすればよいのでしょうか』と問います。どこに探したら良いでしょうではなく、何をしたら良いでしょうでもありません。『どんな善いことをすれば』と尋ねています。良いことをすれば、『永遠の命を得る』ことが出来るという結論が、既にこの男の中にあります。その上で、『どんな善いことをすれば』と尋ねています。 普通の発想だし、健全な発想だと言っても良いかも知れません。 坊主を食らえばとか、人魚の肉を食えばとか、赤子の血を吸えばなどという、とんでもないことを考える人がいた時代としては、まともな考えでしょう。 現代のいろんな宗教を信じる人も、似たようなことを考えていると思います。 ◆この問に対して、イエスさまは答えました。17節。 … もし命を得たいのなら、掟を守りなさい … 実に簡単な答えです。『永遠の命を得るには』というという問なのに、答えは『命を得たいのなら』と、答えています。気になりますが、余所道にそれないように、無視します。 『もし命を得たいのなら、掟を守りなさい』、あまりにも簡単すぎる答えです。そんなことなら、イエスさまに聞かなくとも、誰もが言うでしょう。自分でも思い当たるでしょう。何だか、ちゃんと問に答えて貰った、という満足はありません。 ◆ですから、この人は、なおも尋ねます。 『どの掟ですか』。「どんな掟ですか」ではありません。 律法は沢山あります。沢山ありますが、この人は大方知っているのでしょう。ユダヤ人ならば、ごく普通のことです。ですから、「どんな掟ですか」ではなく、『どの掟ですか』と尋ねました。 ◆イエスさまは答えました。18〜19節。 … 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 『隣人を自分のように愛しなさい』という掟はなかなか簡単なことではないと思います。イエスさまは他の所、例えば山上の垂訓で、このことを詳しく教えておられます。しかし、それも余所道になる恐れがありますので、今日は触れません。 18〜19節は、モーセの十戒の一部、後半部分です。 ユダヤ人ならば、誰もが知っています。日々口に唱えています。 ◆この青年は、多分、がっかりして、なおも言います。20節。 … そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。 まだ何か欠けているでしょうか。」 当然の反応です。彼が求めているのは『永遠の命を得るには』何をしたら良いか、です。尋常のことではありません。尋常のことではないから、今評判の、深い知恵を教えてくれるイエスさまに尋ねているのです。 その答えが、誰もが知っていて、日々口に唱えているような教えならば、これは、がっかりします。 ◆この問答は、現代でも繰り返されていると思います。多くの青年が、牧師に尋ねます。「私は何をしたらよいでしょう」。それは殆どの場合、今やっていることではなく、今いる場所ではなく、「私は、他の何をしたらよいでしょう」「他のどこに行ったらよいでしょう」、つまり、今やっていることを止めたい、今いる所から離れたいという意味です。学校を止めたい、仕事を変わりたいという意味です。 そうしますと、真面目な牧師ならば、その人のことを思うならば、答えます。「今いる場所で、今やっていることを続けなさい。」そうして、がっかりされてしまいます。 ◆20節。 … そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。 まだ何か欠けているでしょうか。」 … これは、がっかりした言葉です。『そういうことはみな守ってきました』、「とっくに知っています。元からやっています。そんなことではなく、そんなつまらない答えではなく、もっと別の答えを下さい」という意味です。そういう意味でしかありません。 それならばいっそ、「私はこれが良いと考えていますが、イエスさまどんなものでしょうか」と聞いたらどうでしょう。 そもそも、青年は『どんな善いことをすればよいのでしょうか』と聞いています。『善いことをすればよい』、「そうすれば永遠の命を得られる」と、既に答えを出しています。今更聞くことはありません。ない筈です。『どんな』だけが、意味のある質問です。 ◆21節。 … イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、 貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。 それから、わたしに従いなさい。」 … 22節には … 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。 … とあります。しかし、これは、おかしなことです。おかしな反応です。 イエスさまは、ちゃんと青年の問に答えています。しかも、青年の問に添って答えています。 青年は、『どんな善いことをすればよいのでしょうか』と聞いています。これは、「今までも良いことをして来ました。」という前提に立っています。ですから、イエスさまは、この青年の問の前提に立って、未だ足りないことを教えて上げました。『どんな』という問にも答えて上げました。 ◆それなのに、 … 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。 … 自分で自分の問を否定したのです。 説明もあります。 … たくさんの財産を持っていたからである。 … このことをも考え合わせると、この青年の本当の問は、こういうものになります。 … 『先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。』「私 はこれまでも良いことを重ねて来ました。でも少し足りないようです。後どのくら い善いことをしたらいいでしょうか。もうちょっと出来るかと思います。でも自ず と限界もあります。私に出来るほどほどのことを命じて下さい。」 … 彼の問は、本当は、このような問でしかありません。 私は言いたくなります。この青年は、永遠の命を、なるべく安く買いたいと考えているのではないでしょうか。永遠の命は欲しい、しかし、法外な値段を支払うことは出来ない、なるべく廉くして貰いたい、それが本音ではないでしょうか。 ◆23〜25節。 … イエスは弟子たちに言われた。 「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 24:重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、 らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 25:弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、 「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 弟子たちが驚くのは、ごく当然です。現代人でもそのように考えるでしょう。この時代はもっとです。つまり、この時代の人は、誰かが金持ちなのは、それだけの善いことをして来た結果であり、神さまから祝福を受けた結果なのだと考えていました。 現代人のように、金持ちなのは何か悪いことをして儲けたのだろう、とは考えません。 ◆この箇所を読むと、何時でも思い出します。安部公房に、『壁』という短編があります。 砂漠の中でキャラバンが、壁に行く手を阻まれます。どうしたものかと悩んでいると、一人が言います。「らくだに乗れば、壁は越えられる。らくだが針の穴を通るのは、金持ちが神の国に入るよりも易しいと書いてある。」そうして、らくだに乗って壁を越えます。 その通りかも知れません。 ◆27節に飛びます。 … すると、ペトロがイエスに言った。 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。 では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 … 嘘です。ペトロは捨てていません。『何もかも捨てて』、大嘘です。ペトロは肝心なものを捨てていません。 『では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』 これを捨てていません。報い、一番肝心なものを捨てていません。 ◆元々の出典は分からなくなってしまいましたが、こんな話があります。猿は、バナナが入った壺に手をつっこむと、その手が抜けなくなるそうです。バナナを握った手を解けば、バナナを手放せば、壺から手を抜くことが出来ますが、手を離さないから、どうしても抜けないのだそうです。 これは、嘘です。日光で、観光客や土産物店から食べ物を奪い、暴れまくる猿を、壺を使って捕まえたなどとは、聞いたことがありません。 壺に突っ込んだ手を抜くことが出来ないのは、握った物を離せないのは、人間です。人間だけです。 『では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。』 ペトロは、壺の中で握った手を離していません。一番肝心なものを捨てていません。 ◆26節に戻ります。 … イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、 神は何でもできる」と言われた。 … 何だか、比喩に限界を感じますが、敢えて言えば、手を離すことが出来るのは、捨てることが出来るのはイエスさまです。 イエスさまは何を捨てたのか、命です。十字架に架けられ、命を捨てられました。そうして、永遠の命への道を切り開かれました。 ◆28〜29節は、読むと長いので省略しますが、捨てることが出来た者だけが、本当に値打ちあるものを手に入れることが出来ます。 『永遠の命を受け継ぐ』ことが出来ます。 念を押すまでもないでしょうが、統一原理や他の、でたらめな新興宗教が言っていることとは違います。 『家、兄弟、姉妹、父、母、子供』を捨てて、これらを教団に寄付して、従って来なさいと言っているのではありません。 そもそも、18〜19節で『父母を敬え』と言っています。普通の教え、常識を覆すことを奨励しているのではありません。むしろ、当たり前のことを当たり前として説いています。しかし、これらを壺の中のバナナにしてはなりません。 ◆30節。 … しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。 … これは、むしろ次回の箇所に入れた方が通りが良いでしょうが、今日の箇所で読めば、壺に手を入れていれば、背中に大荷物を負っていれば、入り口を通らないということです。 |