◇ 2節から読みます。 … そのとき、人々は自分自身を愛し、金銭を愛し、ほらを吹き、高慢になり、 神をあざけり、両親に従わず、恩を知らず、神を畏れなくなります。… 何とも、人間の悪徳を並べ立てたものです。嫌になる程です。 これだけ並べ立てたのには、それだけの理由があるでしょう。理由なく、このような表現を並べ立てる筈があ りません。つまり、このようなことが、テモテの教会、初代教会にはあったのでしょうし、それが深刻な問題だったの でしょう。 ◇ 根拠なく、初代教会を美化し、その姿を取り戻さなくてはならないと唱える人がいます。しかし、どうでしょう か。初代教会が今日の手本になるような麗しい姿をしていたでしょうか。とてもそうとは思えません。聖書自身 が、そのようには描いていません。 むしろ、このテモテ書に記されているのが、初代教会の真実の姿であり、聖書は、それを隠そうともしていませ ん。ですから、私たちは、この耳障りな言葉にも聞かなくてはなりません。聖書に、神の言葉を聞こうとするなら ば、人間の知恵で、聖書を隠したり歪めたりしてはなりません。 ◇ 2節の言葉一つ一つを、読み、聞き、そして我が身のこととして考えなくてはなりません。この説教も、一つ一 つの言葉を取り上げ、注釈する必要があるのでしょう。しかし、それは致しません。しんどいことも、理由ですが、 多分、解説する間までもないからです。 程度はあるでしょうが、誰しも、身に覚えがあることです。 「そんなこはとない。私には当て嵌まらない。」と反発する人がいたら、反発出来る人がいたら、その人はも素 晴らしい人でしょう。そのような人を、批判する必要はありません。しかし、本当でしょうか、本当にそんな人がい るのでしょうか。もしかしたら、正しく自分を振り返ることが出来ず、自分を客観視出来ないだけかも知れませ ん。 ◇ この何とも、耳に痛い言葉は、3節にも続きます。 … また、情けを知らず、和解せず、中傷し、節度がなく、残忍になり、 善を好まず、… これこそ、我が身には当て嵌まらないと言いたい所です。多くの信仰者は、このような思いを心から追い出し、 このような行動を取らないようにと、自分を戒めていると考えます。私も、その一人です。自戒しています。 しかし、自戒しなくてはならない現実もまた、あります。あってはならないことと思いながらも、現実にはありま す。 この3節についても、一つ一つ注釈する必要は感じません。誰でも、理解出来ます。 ◇ もう辟易とする人もあるかも知れませんが、聖書が記しているのですから、4節も続けて読みます。 … 人を裏切り、軽率になり、思い上がり、神よりも快楽を愛し、… 流石に、これは当て嵌まらないと抗弁したい所ですが、分かりません。 そんなつもりはなくとも、結果的に『人を裏切』ることが、ないとは言えません。ある意味、相手の人がどのよう に受け止めるかです。 他人のことを例に取ることは出来ませんので、自分の話になります。 白河教会に赴任した時に、それ以前にゴタゴタがあった教会ですから、何人もの、高齢の婦人たちが言いま す。 「これで安心出来ます。私の葬式は、先生にお願いします。」 その時は、「ご安心ください。何時でもどうぞ。」とは言えませんが、そんな気持ちでした。 しかし、殆どの人との約束は果たせませんでした。皆さん長生きしたからです。葬式をお願いと言った人は、そ の当時80歳でしたが、104歳まで元気でした。 私は、松江北堀教会を経て、その時にはもう、玉川教会にいました。 この人には、約束を履行しなかったことに、裏切ったことになるかも知れません。 ◇ その経験から、玉川教会に赴任してからは、この玉川平安教会でもそうですが、葬儀の約束はしません。 その時に、牧師として働いているかどうか、分からないからではありません。 「そんな約束は出来ません。私の方が早いかも知れません。」と答えることにしています。本当に分かりませ ん。 それでも、何人かの人にはお願いされて、安心して貰うために、了解しましたと返事しています。その約束は 果たせますかどうか。 まあ、裏切られたと感じる人には、神さまに文句を言って貰うしかありません。そして、牧師が私よりも長生きす るようにと、祈って貰うしかありません。 ◇『軽率』以下は、省きます。解説無用でしょう。一人一人が、胸に手を当てて考えるべきことです。5節の前 半だけ読みます。 … 信心を装いながら、その実、信心の力を否定するようになります。… いざその時にならなければ分かりません。普段、どんなに信心深いことを言っていても、耐えがたい試練に遭っ た時に、その信心で生きられるかどうかは分かりません。本人に分からないのだから、まして他人には分かりませ ん。 勿論、私にも我が身のことは分かりません。牧師ですから、あまりみっともない死に方はしたくないとは考えます が、分かりません。牧師が、あまりみっともない死に方をしたら、教会員を躓かせますから、それだけは避けたいと 願ってはいます。 ◇ このことについて、実例を話すことは出来ますが、まあ止めて置いた方が、教会のためでしょう。逆の例をお 話しします。 ある時、教会員一人が、それこそ、信心深いと、他の教会員に評価されている人です。この人が、私に言い ます。 「◎○教会の牧師には、がっかりした。本当に信仰深い牧師だと思って尊敬していたのに、自分が癌にかかっ て、余命宣告されたら、せめてあと5年生きたいと言うんですよ。がっかりです。」 「せめてあと5年生きたい」とは、人情であって、牧師だからと言っても、何の問題もないとは思うのですが、実 は、私はたまたま、この牧師と会って、話を聞いていました。 この牧師の教会は小さい教会です。付属幼稚園 がなければ、教会も成り立ちません。しかし、園舎が老朽化し、このままでは、生徒も集まらないと考えて、金 額は覚えていませんが、多額な借金し、園舎を建て直す計画が進んでいたのです。 「せめてあと5年生きたい」とは、計画を実現し、教会の将来を安心出来るようにしたいという意味だったので す。 ◇「今日、召されても、神の御心ならば、アーメンと言って死にます。」と言う人もいます。それはそれで結構なこ とです。アーメンです。 しかし、後に残された教会は、家族は、〜それを心配することは不信仰ではないでしょう。後に残される人の ことを考えないことこそ、不信仰かも知れません。 それも全て含めて、神さまにお任せするしかありません。表面のことだけ見て、あの人は信仰的だとか、不信 仰だとか言っても仕方がありません。 ◇ 5節後半を読みます。 … こういう人々を避けなさい。… 勿論、2〜5節に描かれたような人のことです。『こういう人々を避けなさい。』随分厳しい言葉です。 人それぞれに事情や、思いがあるのだから、外目で判断してはならないと、今さっき申しました。しかし、聖書 は、『こういう人々を避けなさい。』とはっきり言います。 大変に難しいことです。 私が言ったことも間違っていないと考えます。そのように読める、否、読まなくてはならない聖書個所が沢山あ ります。無数にあります。 しかし、『こういう人々を避けなさい。』との、この言葉も、聖書の一節です。無視出来るものではありません。 つまり、このことさえ、表面的に判断してはなりません。「外見や言葉だけでは分かりません。」、その通りです が、これが、間違いを糺す、改めることをしない、言い訳になってはなりません。 間違ったことを見て見ぬふりする、弁解であってはなりません。 ◇ 6・7節を読みます。 … 彼らの中には、他人の家に入り込み、 愚かな女どもをたぶらかしている者がいるのです。 彼女たちは罪に満ち、さまざまの情欲に駆り立てられており、 7:いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することができません。… これこそ、耳を覆いたくなるような言葉かも知れません。 しかし、テモテ書は、女性を皆そのようだと決め付けているわけではありません。そのような女性がいたことは事 実でしょう。 何よりも、『彼ら』『他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者』が問題なのです。 そういう宗教、宗教者が、現代にも存在します。占い師や、霊媒師、手相見などは、これを生業としていま す。こういう人、そのような考え方は、ややもすれば、教会の中にさえ入り込みます。それが問題なのです。テモ テ書には、女性を貶める意図はありません。 ◇ そして、『彼ら』『他人の家に入り込み、愚かな女どもをたぶらかしている者』こそが、2〜5節に描写されて いるのだと思います。 しかし、これを、私とは関係ない、ごく一部の、インチキ宗教や、偽牧師の話だと読んでは、読み足りないと考 えます。 矢張り、我がこと、我が教会のこと、として読まなくては、読んだことにはなりません。 勿論、我が教会にも、そんな駄目な人がいると言う話ではありません。あくまでも、我がこととして、聞かなくて はなりません。 ◇ 8・9節は、省いてよろしいでしょう。注釈したくとも、根拠がありません。『ヤンネとヤンブレがモーセに逆らった ように』とは、聖書のどこに該当するのか、不明です。そのような資料或いは伝承が、当時にはあったのでしょ う。 ただ、9節の … これ以上はびこらないでしょう。 彼らの無知がすべての人々にあらわになるからです。… ここは大事かも知れません。 偽の教えは、偽牧師は、何時か、その正体が暴かれます。 しかも暴かれるのは、また暴かれる理由は、『彼らの無知』故です。 勿論、彼らには本当の教養がない、学がないというようなことではありません。こういう人が、人並み以上に、 知恵・知識を持っている場合は少なくありません。肝心な信仰のことが分からないという意味です。むしろ、本 当には信仰なんかないという話です。 ◇ 信仰のない人が、信仰のある人を、少なくとも、信仰を求めている人をたぶらかすとは、不思議な話、あり 得ない話と思われるかも知れませんが、あります。残念ながら、あります。統一原理一つを見ても、それは断言 できます。 この話をすると、時間が足りませんから、今日は止めておきますが、信仰のない人が、信仰のある人を、少な くとも、信仰を求めている人をたぶらかすことがあることを、私は、つくづくと体験しました。そんなことが、教会の 中で起こってはなりません。 ◇ 1節に戻ります。 … しかし、終わりの時には困難な時期が来ることを悟りなさい。… 最初に、2節以下に記されていることは、理想視される初代教会の現実だと申しました。しかし、1節を見ま すと、今現在のことではなく、『終わりの時に』起こることの預言だと言えます。 5節の『こういう人々を避けなさい。』も、今現在教会の中にいる人のことではなく、これから侵入して来るとも 読めます。 しかし、将来起こる預言だとしても、既に2000年が経っています。私たちにとってこそ、遠い未来のことではあ りません。むしろ、現在のことです。 2節以下の警告は、私たちの時代に、極めて現実的なことになっています。 未来の予言ですが、現代への警告です。 私たちは、この警告を、自分たちに語られているものとして聞かなくてはなりません。 これも最初に申しましたように、一つ一つの言葉の注釈は必要ありません。私たちには分かっています。この言 葉の意味も、その重要性も、よくよく分かっています。自分の周囲に、自分の中にも、現実に見ているからで す。 分かっているなら、これを退けるしかありません。その勇気が、覚悟が必要でしょう。 |