この箇所は、聖餐制定の言葉として知られています。先週の聖餐式でも、式文の1節として読まれました。そ れを今日という日に読みますのには、理由があります。 本日の礼拝は、玉川平安教会創立88周年記念礼拝として守ります。 今日の週報は、第4554号となっています。 一年の日曜日は52.14回だそうです。88×52.14は、4578.32です。4578−4554は、20で す。それから推して、88年前の秋頃に、最初の週報が発行された勘定になります。 その日が、奥沢の地での最初の礼拝とは限りません。もう少し早い可能性もあります。教団年鑑によります と、創立日は4月5日になっています。 いずれにしても、今年が創立88周年であることは間違いありません。 一寸曖昧な言い方をしています。創立90周年までには、正確な日付を調べて、確定したいと思います。 誕生日が確定しないと聞こえるような話で、なんとルーズだと思われないように、言い訳をします。どの教会で もそうです。確定できないことが多いのです。 教会が始まった日とは何時なのか、その地で伝道が始められた日、最初の礼拝が守られた日、教団から教 会として承認された日、これまた簡単ではありません。講義所、伝道所、二種教会を経て、場合によっては数 十年が経ってから、一種教会となる場合もあります。 一種教会設立記念礼拝が捧げられて、初めて教会となると考える人もいます。 更に、宗教法人となった日は、また別にあります。 ですから、なかなか簡単には確定出来ません。しかし、兎に角に、玉川平安教会は創立88周年を迎えまし た。この数字は間違いありません。 88年間には、随分といろいろな出来事があったでしょう。 来月の召天者記念礼拝では、亡くなられた方々の名簿が配られます。300名を遙かに超えました。327 名です。つまり、88年前とは教会員が殆ど入れ替わりました。 牧師も伝道師も神学生も交替しました。勿論、役員もです。 その間変わらないことは、日曜日毎に礼拝が守り続けられ、週報が発行され続けて来たということです。 その礼拝も、牧師と会衆が変わったのですから、全く同じではありません。聖書も讃美歌も変わりました。礼 拝の式次第も、時々変わっています。 88年間、一つも変わらないもの、それは、聖餐式です。聖餐式だけかも知れません。 これが、玉川平安教会創立88周年記念礼拝に、今日の聖書個所、聖餐制定の言葉を読む、理由で す。 とてつもなく長い前置きを終えて、23節を読みます。 … わたしがあなたがたに伝えたこと … 『わたしが』とは、勿論使徒パウロのことです。せいぜい深読みしても、パウロに代表される宣教団のことです。 『あなたがた』とは、コリントの教会員です。『わたしがあなたがたに伝えたこと』とは、23節以下に記されているこ とからして、今日の聖餐式に当たる教えです。今日の聖餐式の元になった、パウロの奨めです。 『わたしがあなたがたに伝えたこと』という表現から一つのことを読み取ることが出来ます。初代教会の集会は、 次第に形式が整えられ、多分に儀式化していたと思われます。これが今日の聖餐式に当たるものです。既に 推測を交えて言っているかも知れませんが、かなり高い確立で断定的に言えます。 『わたしがあなたがたに伝えたこと』とは、そのような表現です。 一方で、『わたしがあなたがたに伝えたこと』は、23節の真ん中。 『わたし自身、主から受けたもの』だそうです。 『主』とは、勿論、十字架に架けられたキリストです。 使徒パウロは、十字架に架けられる前のイエス・キリストには会ったことはありません。所謂ダマスコ途上の顕 現で、復活の主の存在に触れた体験を持っていますが、少なくとも、この後で語られる、所謂最後の晩餐の次 第は直接には、知らない筈です。 にも拘わらず、『わたし自身、主から受けたもの』と言い切っています。 つまり、この表現は、イエスに会って言葉を聞いたことを強調しているのではありません。そうではなくて、直接最 後の晩餐に立ち会った弟子たちを通じて、受け継がれた出来事であり、語り継がれた言葉なのです。 そういう受け継がれた形・言葉のことを、普通に、儀式と言います。 ですから、『わたしがあなたがたに伝えたこと』とは、『わたし自身、主から受けたもの』であり、使徒たちを通じて 伝えられて来た、儀式になります。このように申しますと、もう、聖餐式と呼んでよろしいのだろうと思います。 聖餐式は、パウロや他の誰かの発明品ではなくて、十字架のキリストから受け継がれてきた形・言葉なので す。 当然、後の時代の者が、思いつきで形を変えたり、言葉を変えたり出来るようなものではありません。少なくと も、使徒パウロは、そのように断言しています。 さて、使徒パウロは、聖餐式の所作と言葉とを残しています。所作と言いましても、『パンを裂き』、『杯も同じ ようにして』とあるだけですし、これも、イエスさまがなさった仕草を再現しているだけです。ですから、残されている のは、実際には、イエスさまの言葉だけです。この言葉が、聖餐式の殆ど全内容です。 その前に、24節の最初の表現があります。 … 感謝の祈りをささげてそれを裂き … 『感謝の祈り』とは、直接的に言えば、食前の感謝であり、この食事は、ユダヤ人にとっては、とても大事な祭 り、儀式である過越の食事でした。 厳密に、過越の食事の所作を見なくてはならないし、その中での感謝の祈りの位置付け、意味付けを、調 べなければならないかも知れませんが、今日は、この箇所に実際に記されていることだけを読みます。 『感謝の祈り』とは、過越の食事と深く結び付いていることは間違いないとして、兎に角、これから行われる食 事、つまり、最後の晩餐つまり聖餐式、そして、それが言い表す十字架の出来事です。 24節の、イエスさまの言葉そのものを読みます。これも、順に。 … これは、あなたがたのためのわたしの体である。… 例え、過越の祭りというものを持ち出さなくとも、『あなたがたのためのわたしの体』とは、イエスさまのからだが、 神の前に、犠牲として差し出されたことを意味することは分かります。 聖餐式に於けるパン=『からだ』の意味については、多様な解釈があっても、これが、犠牲であり、贖罪の犠 牲であることは、間違いのないところです。 つまり、パンを裂くという儀式と、この言葉が、重ねられており、一つの意味を持っていることについては、議論 の余地がありません。 そうであるならば、この所作も言葉も、勝手に変えてはならないことは、言うまでもありません。玉川平安教会 は、88年間、その言葉も所作も変えずに守り続けて来ました。 『わたしの記念としてこのように行いなさい』 『記念』という言葉こそ、多様な解釈があり、宗教改革の時、教会分裂の原因となりました。それに触れてお りますと、いくら時間があっても足りませんので、今回は省略せざるを得ません。むしろ、その後の、25節と重ね て読む方が効率がよいと考えます。 … この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい。… ここでは、記念という言葉と、契約という言葉が一緒に語られています。 ここに明確に述べられていますように、聖餐式は契約の食事であり、共同体の食事です。この席で、その都 度、神と教会との契約が新たに更新され、保証されるのです。 以前申しましたように、ユダヤに於いては、士師の時代から、そのような信仰的慣習が存在しました。士師の 導きによって、神とユダヤとの契約が年毎に新しくされました。 つまり、聖餐は象徴であり、同時に、象徴的な行為によって、現在も起こっている出来事です。その意味で は、聖餐は、追憶ではなく、むしろ、追体験です。過去の信仰・教会論の継承だけではなくて、この行為によっ て、信仰が・教会が新に形成される出来事です。礼拝毎に、人は集められ、新たに共同体が形成されます。 古い共同体=規制の共同体が、古い契約を更新するというのに止まりません。新たに生起する聖餐に於い て、新たに共同体が形成され、契約が新たなものとなるのです。 だからこそ、パウロも、23節のように、表現します。 『わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです』 パウロが回心する以前の遠い昔に起こったことではありません。 記念とは追憶が大事なのではなく、契約の更新に強調が存在するのです。 このことこそが、玉川平安教会創立88周年記念礼拝を捧げる意味です。88年間、変わらず、イエスさまの 言葉に従い、聖餐式を守っています。88周年記念とは、過去の追憶ではありません。 さて、契約です。 だれでも食堂・アガペーの報告書を社会福祉協議会に提出するために、毎月、参加者名簿作ります。傷害 保険適用のために、生年月日や、住所、連絡先を記した名簿を作らなければなりません。結構面倒臭い、時 間がかかる仕事です。そして、せっかく作ったものの、報告は、非公開です。今は、生年月日や年齢、住所、 連絡先などは、本人の諒解なしには、印刷や配布は出来ません。しかし、傷害保険には、これは、是非とも、 必要なのです。 本人を特定する証拠が要るのです。 逆の面から見ますと、だれでも食堂・アガペーに参加していても、ちゃんと会費も払い、他の人と同じ行動をし ていても、個人情報を登録していないと、本人登録をしていないと、保険は下りません。当たり前です。 ところで、25節の『食事の後で、杯も同じようにして』という表現は大変気になります。つまり、一つの食事で、 パンと葡萄酒をいただいたのではなくて、パンをいただくのが食事で、その後に、葡萄酒をいただいて、これが契 約の所作なのです。 礼拝で御言葉を読み、その後、聖餐式に与るということと対応しているのでしょうか。 26節。 … だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、 主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。… ここに、神の国の食事に与ることによって、新しく形成された共同体の存在理由、意味、役割が述べられてい ます。 『主の死を告げ知らせる』 十字架の死の宣教です。それが教会の存在意義であり、礼拝を守る意味・理由です。 鬼退治の桃太郎さんの話を、例に採ります。 「桃太郎さん、桃太郎さん。お腰に付けたきびだんご、一つ私に下さいな。 上げましょう、上げましょう。これから鬼の征伐について行くなら上げましょう。」 こういう歌です。これが契約です。 何だか知らないけれども、団子を一つ貰って食べてしまった、そうしたら、鬼退治に無理矢理連れていかれ た、徴兵されたという話ではありません。 聖餐式に与ることも同じです。だから、『主の死を告げ知らせる』十字架の死の宣教を、自覚しない者が、聖 餐に与ることは、意味がないし、具合が悪いのです。 ▼最後に、27〜29節を見ます。 これは、33節以降等を読みますと、極めて具体的なことであり、それ以上でもそれ以下でもないように思い ます。しかし、それもまた、譬喩でありまして、正しい信仰の姿勢、信仰共同体全体の姿勢が問われていること は間違いありません。 少なくとも、改革派の伝統のもとで、ここは、罪の自覚と悔い改め、それに相応しい信仰生活という意味に解 釈され、また同時に、聖餐式に与るための条件とされて来ました。 そのような解釈は、決して間違いではないと思います。 私たちの教会は何故、月に一度聖餐式を執行するのか御存知でしょうか。何故、毎週ではないのか。それ は、こういう次第です。 聖餐式に出席したいと希望する人が、その届けを出します。月に一度開かれる役員会が、これを審査しま す。ですから、月に一度しか執行出来なかったのです。 役員会が、そんな審査をして良いのか、そんな権能があるのか、という新しい問題が起こります。しかし、聖餐 式に望むのは、決して安易なことではないということは、解釈として正しいと思います。 90周年、100周年をやがて迎えるでしょう。それまでに、聖書の翻訳も讃美歌の歌詞も変わるかも知れませ ん。牧師も変わります。 しかし、多少所作は変わっても、聖餐式は守られ続けます。それが記念礼拝の意味です。 |