日本基督教団 玉川平安教会

■2024年10月27日 説教映像

■説教題 「塩で味つけされた言葉で」

■聖   書  コロサイの信徒への手紙 4章1〜9節 


6節に、『塩で味つけされた言葉』とあります。

 『塩で味つけされた言葉』なんとなく分かります。しかし、もう少し具体的に説明して下さいと言われたら、困り
ます。簡単には答えられません。

 こういうときは、反対のものは何かと考えるのが、効率的です。

 「塩で味つけされていない言葉」、「味のない言葉」、「無味乾燥な言葉」、なんとなく分かったような気がしま
すが、だんだん、本来の意味から離れてしまうかも知れません。

 いっそ、塩の反対は砂糖だと考えたらどうでしょうか。

 「甘い言葉」になります。そうだとすれば『塩で味つけされた言葉』とは、辛口の言葉、聞いた者の胸にグサッと
くる言葉という響きになります。そんな意味合いが込められているのでしょうか。


しかし、それでは続く『快い言葉』と不釣り合いです。

 『塩で味付けされた快い言葉』です。『快い言葉』にこそ、力点が置かれています。

 矢張り、『塩で味つけされた言葉』とは、「味のない言葉」、「無味乾燥な言葉」の逆と解釈した方がよろしい
ようです。

 ここで、やや飛躍かも知れませんが、マタイ福音書を引用します。

 よくよく知られている5章13節、地の塩の譬えです。

 …「あなたがたは地の塩である。

  だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。

  もはや、何の役にも立たず、

  外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。…

 この箇所そのものの解説は、長くなってしまいますので、省略します。


コロサイとマタイの塩を重ねますと、自ずと、見えてくるものがあります。

 塩、則ち意味です。塩で味つけるとは、つまり、意味を持たせることです。

 この当時の塩とは岩塩のことです。海水から採った塩は、聖書世界では、未だ殆どありません。岩塩ですか
ら、様々なミネラルが入っています。ミネラルと言えば聞こえはよろしいのですが、言い換えれば、雑味がありま
す。それが、当時の塩です。

 雑味も味の内、ミネラルや雑味が、味を引き立てます。純粋な塩では駄目でしょう。


シュテファン・ツブァイクの『マゼラン』の書き出しは、「最初に胡椒ありき」です。東方、更に新世界から入ってき
た香辛料は、劇的に西洋料理を変えました。僅か500年前のことです。更に1500年前の、聖書世界の方
が、西洋よりは未だ、香辛料が知られていました。

 長く諄い話になっていますが、兎に角、塩とは、当時の世界では貴重で、料理には決定的な意味を持ってい
ました。現代でも、本来、それは変わりません。香辛料は様々なものが増えましたが、決定的に重要なのは、
塩です。入院して病院食をいただきますと、そのことを痛感します。

 この頃は、塩分控えめと言います。健康のためです。塩分控えめ、糖分控えめ、アルコールなどはもっての
他、その通りかも知れません。

 しかし、控えめにした方が良いのは、塩分よりも、糖分よりも、アルコールよりも、おいしさです。おいしさ控え
め、これこそ、健康の極意です。


果てしなく脱線して行きますので、元に戻します。

 『塩で味付けされた快い言葉』、つまり、味のある言葉です。無味ではない言葉です。味のある言葉とは、ウ
イットが効いた言葉という意味ではありません。いろいろと申しましたから、もう結論を話して良いでしょう。

 『塩で味付けされた快い言葉』、則ち、愛情の籠もった言葉です。

 いろんな機会に申しますが、聖書世界、特にラビたちは、争論術に長けていました。論争で容赦なく相手を
やっつける、反駁の余地を与えない程に叩きのめすのが、優れたラビ・律法学者でした。この技術・能力と、信
仰とが重なってしまっていました。

 争論術に長け、相手を言葉で殺すのが、ラビであり、そして、当時の考え方では優れた信仰者でした。尊敬
されました。当時のギリシャ世界も同様でした。現代にも、そのような宗教があります。キリスト教の中にもありま
す。


ですから、『塩で味付けされた快い言葉』とは、当時、決して当たり前のことではありません。むしろ真逆です。
常識の逆です。

 パウロは、律法学者として争論術を学んだ人です。相手を完膚なきまで叩く争論術を、パウロは得意としてい
ました。その傾向は、パウロ書簡の随所に見えます。

 しかし、パウロは、そのような争論術を捨て、『塩で味付けされた快い言葉』を用いなさいと勧めています。勝
つことが目的ではないからです。悔い改めを迫ることは、相手をやっつけることではありません。あくまでも救うの
が目的です。

 

ですから、5節

 … 時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。…

 とは、上手く立ち回りなさいという意味ではありません。

 先週の箇所を思い出していただきたいと思います。3章22節、

 … 人にへつらおうとしてうわべだけで仕えず、

  主を畏れつつ、真心を込めて従いなさい。…

 更に遡ります。14節から、15節の前半まで読みます。

 … 14:これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。

  愛は、すべてを完成させるきずなです。

  15:また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。…

 16節も読みます。

 … キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。

   知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、

   感謝して心から神をほめたたえなさい。…

 これが、『塩で味付けされた快い言葉』の意味です。


厳密にしたいがために、かなり回りくどい話をしてしまいました。

 要約すれば、未だ信仰を知らない人に、優しく誠意を込めて語りなさいとなります。

 単純です。しかし、この単純なことは、必ずしも実行されません。

 むしろ、逆のことが横行しています。

 霊感商法と結び付いた宗教があります。地獄の苦しみを説き、脅して、勧誘する宗教は数多くあります。い
ろいろと例を挙げるまでもありません。溢れています。私にはどうしても理解出来ませんが、これに惹かれる人が
少なくありません。

 一方、多くの人がこれを嫌い、警戒して、結果まともなキリスト教まで敬遠します。


先に7節を読みます。

 … わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。

   彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。…

 単なる連絡事項でしょうか。そうかも知れませんが、パウロの気持ち、教会の交わりのあるべき姿が伝わって
来る表現です。

 コロサイの教会員がパウロの身を案じています。パウロの様子、近況を伝えるために、ティキコが派遣されまし
た。『主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕』と紹介されています。ティキコについての、この
形容そのものが麗しいと思います。

 この度、橋さんご夫妻が碑文谷教会から、転入して我が教会に加わりました。大変嬉しいことです。その
逆の場合もあります。何度も、他教会への撰書を書きました。

 この時に、「『主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕』を送ります。」と紹介できたら素晴ら
しいと考えます。


8節。

 … 彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、

   彼によって心が励まされるためなのです。…

 つまり、伝えるのは朗報です。勿論、悲しい出来事を伝えなくてはならないこともありますでしょう。しかし、福
音ですから、基本的には朗報です。信仰によって活かされていることの喜びを伝えるのが、福音伝道者の第一
の使命です。

 繰り返しますが、悲しい出来事を伝えなくてはならないこともありますでしょう。しかし、そこに慰め、励ましがあ
れば、悲しい知らせもまた、救いに繋がります。

 『彼によって心が励まされる』、喜ばしい知らせも、悲しい知らせも、信仰者が信仰者に伝える時に、それは励
ましになります。喜ばしい知らせも、悲しい知らせも、祈りを呼び起こすからです。

 励ましにならないようなことは伝える必要はありません。祈りにならない消息は、只のゴシップです。教会員の
消息とは、ゴシップのことではありません。


9節前半。

 … また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。…

 オネシモ、フィレモン書を読めば分かります。奴隷出身者の伝道者です。奴隷でありながら、信仰を与えら
れ、主人フィレモンの元から脱走した、当時の法律では重罪犯です。そのオネシモが、パウロの弟子となり、伝
道者に育ちました。

 この人が、パウロの近況・消息をコロサイ教会に伝える使者とされました。オネシモがここで登場するのは、偶
然ではありません。


9節後半。

 … 彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう。…

 『こちらの事情をすべて』とは、単なる近況報告ではありません。伝道報告であり、牧会報告です。まして噂
話ではありません。

 礼拝の式次第の中に、報告があります。この報告こそ、伝道報告であり、牧会報告です。単なる情報なら
ば、礼拝の中で行う必要はありません。

 逆に言えば、大事な伝道報告、牧会報告は、礼拝の中でなされるのにふさわしいことです。そういう内容性
質でなくてはなりません。


4章1節。

 … また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。…

 奴隷であったオネシモが、『忠実な愛する兄弟』と形容されています。何より、『あなたがたの一人』と言われて
います。

 「パウロは正面から奴隷制度を否定していない。」と批判する人がいます。「パウロが否定していないのだか
ら、則ち初代教会が否定していないのだから、奴隷制度は間違いではない」と主張する人が、最近までいまし
た。今だっているかも知れません。

 しかし、その二人とも、ちゃんと聖書を読んでいない人です。

 パウロは、奴隷オネシモを『あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟』と呼んでいます。

これこそが、真の奴隷解放です。「もうお前にはかまわない。関心もない。」だけなら、それは解放ではありませ
ん。その人を見放した、捨てた、だけです。


2〜3節。

 … 目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。

  3:同時にわたしたちのためにも祈ってください。…

 報告するのは、情報を提供するのは、祈りのためです。祈りで、心で、その人を応援するためです。知りたがり
の人に情報提供するのが目的ではありません。ここを間違えてはなりません。

 情報が伝わらなかったことを、祈ることが出来なかったと悔やむのなら、分かります。そういう心のある人には、
情報があった方が良いでしょう。

 教会の伝道・牧会のために祈る人は幸いです。そのために、もっと教会の働きを詳しく知りたいと言うのなら
ば、大いに結構なことです。


3節の続き。

 … 神が御言葉のために門を開いてくださり、

  わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。…

 教会と教会員の関係は、神さまと教会の関係とも重なります。教会が、神さまのことをもっと知りたいのは、祈
るためです。『キリストの秘められた計画を』知り、そのために働きたいからです。単なる知識欲ではありません。
まして、批判するためではありません。


3節の終わり。

 … このために、わたしは牢につながれています。…

 こういうことです。情報や知識を得て、偉くなるのではありません。むしろ、主の十字架を一緒に負うことになり
ます。

 4節も同じ意味です。

 … わたしがしかるべく語って、この計画を明らかにできるように祈ってください。…

 神さまを教会を、「知る」とは、このような意味です。単なる知識ではないし、教会内の噂話に精通することで
はありません。噂であっても、情報を得たならば、その人のことを思い、その人のために祈りましょう。

 祈らないならば、むしろ、知らない方がましでしょう。