○ ルカによる福音書を読み続ける中で、隣人とは誰かという問いが、私たちに問い続けられていたように思います。「良きサマリヤ人の譬え」が、最も顕著ですが、これだけではありません。ルカ福音書は、繰り返し、あなたにとって隣人とは誰かと、問うて来ます。 私たちは、良い隣人を探します。自分にふさわしい、良い隣人を探します。『あなたの隣人を愛しなさい』という聖書を教えを知っているから、愛することの出来る、愛にふさわしい良い隣人を探します。 ○ 直ぐ近くにいる人は、近いだけに欠点が見えてしまいます。その欠点を愛することは出来ないから、遠くに愛すべき人を探します。 時に、愛すべき相手は、遠いアフリカにいたり、中南米にいたりします。それだけ遠いと、その人の欠点は見えません。嫌な臭いもしません。耳障りな声も聞こえません。だから、抵抗なく愛することが出来ます。募金に応じれば、月々僅かな負担で、大変な恩恵を与えているような気分にもなれます。 ○ しかしイエスさまの教えは、それとは違うようです。イエスさまの教えは、隣人とは誰か、今、あなたの隣にいる人だと教えます。その隣人を愛しなさいと教えています。隣人を選ぶことは出来ない、選んではならないと教えています。 以上のことが、ルカ福音書が、語っていることだと考えます。 ○ このことは、イザヤ書61章1節にそのまま当て嵌まることだと思います。 『主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために』 預言者イザヤは、神によって立てられ、『貧しい人に良い知らせを伝え』るべく『遣わ』されました。では、貧しい人とは誰のことでしょうか。 ○ 元の言葉は、単純に持ち物のない貧しい人を指すのに用いられる言葉だそうです。 しかし、時の政治権力に迎合することなく、社会悪と戦う人というような意味合いが強くなり、むしろ「敬虔な者」と同じ内容を持つようになったと言われています。『貧しい人』とは、ただ単に貧しいのではなく、その高い志操の故に『貧しい人』出なくてはならなくなりました。 清貧の思想と言って良いかも知れません。 ○ しかし、『貧しい人』を、特定の人を指すものと限定し、術語・専門用語化するのには、ちょっと抵抗を覚えます。 昨年礼拝で読んだばかりの、イザヤ書55章を思い起こしていただきたいと思います。 55章1節。 『渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。 銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、 銀を払うことなく穀物を求め 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ』 ここに言われる『渇きを覚えている者』、『銀を持たない者』が、時の政治権力に迎合することなく、社会悪と戦う人、「敬虔な者」とは、ちょっと考えづらいのです。いかがでしょうか。 少なくとも、バプテスマのヨハネや、イエスさまが、『渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい』と呼びかけられて、そこに寄っていくとは、想像も出来ません。 『貧しい人』とは、一番単純に、当時の社会の最底辺に居て、『渇きを覚えている者』、『銀を持たない者』と受け止めて良いのではないかと、私は考えます。 ○『貧しい人に良い知らせを伝えさせるために』とは、何か特別、時代によって虐げられた人とか、世俗を離れて隠遁的な暮らしをする人とかと、特定する必要はないと考えます。『貧しい人』とは、当時の民衆全てではないでしょうか。少なくとも大部分の人です。 今日でも同じことでしょう。年収何百万円以下に限定して、『良い知らせを伝えさせる』などという話ではありません。平均収入以上の人は除外されるというような話ではありません。 ○ ルカ福音書6章20節。 『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである』 イザヤ書61章1節に通じます。ここでも、『貧しい人々』を特定の人に限定する必要はないでしょう。この時代のユダヤ人は、ローマの抑圧下にあり富を奪われ、貧しい生活を強いられていました。大部分の人がそうです。勿論ローマと癒着し豊かな人もあったでしょうが、多くは貧しい生活にありました。ですから、『貧しい人々』とは、ユダヤ人そのものと言っても間違いではないと考えます。 ○ 今日の日本人はどうでしょうか。ローマ時代のユダヤ人に比べたら、比較にもならないくらいに豊かです。大部分の人は、少なくともローマ時代の基準で言ったならば、『貧しい人々』ではないでしょう。また、誰しも『貧しい人々』に数えられたくはありません。自分が『貧しい人々』の一人だとは思いたくありません。 一昔前は、一億総中流時代と言われました。誰もが、『貧しい人々』に数えられたくはありません。自分が『貧しい人々』の一人だとは思いたくありません。 コロナ禍で、少し様子が変わったでしょうか。変わらないでしょうか。 いずれにしろ、現代人は『貧しい人々』ではないことで、『貧しい人々』であると自覚しないことで、『良い知らせ』つまり福音が届かなくなってしまったのではないでしょうか。 ○ ルカ福音書6章20節に相当するのが、マタイ福音書の山上の説教、5章3節です。 『心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである』 ルカは『貧しい人々は、幸いである』ですが、マタイでは『心の貧しい人々』です。心が貧しいと言うと、賤しいとか、志が低いという響きになってしまいますが、それはマタイの意図ではありません。『貧しい』つまり心が餓え渇いているという意味です。何に餓え渇いているのか、神の言葉、世の正義に餓え渇いているのです。5章6節には、 『義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる』とあります。 ○『貧しい』とは、言い換えれば、切実に求めているということです。つまり、イザヤ書に戻って『貧しい人に良い知らせを伝えさせる』とは、文字通りに貧困な人という意味であり、同時に、神の言葉を、神の義を求めている人という意味でもあります。 現代人は豊かなのか、それとも貧しいのか、自分ではどのように考えているのか、分かりません。しかし、最早、神の言葉を、神の義を求めてはいないかのようです。求めて得られるとは思っていないかのようです。 ○ イザヤ書の続きを読みます。 『打ち砕かれた心を包み 捕らわれ人には自由を つながれている人には解放を告知させるために』 『貧しい』、『打ち砕かれた心 』、『つながれている人』は、バビロン捕囚の民また、そこから帰還した人々の現実であって、これを思想的な意味や、階級的な意味にとる必要はないと考えます。 自分は貧しいと思いたくない人は、自分の心が『打ち砕かれた』とは思わないでしょう。『捕らわれ人』だとは、『つながれている』とは思いたくないでしょう。 そんな風には思いたくない、見られたくない人ほど、何者かに、何事かに、『打ち砕かれ』、『捕らわれ』、『つながれている』のかも知れません。 ○ 少し戻りまして、1節冒頭。 『主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。 わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。』 『良い知らせを伝え』とあります。この言葉は、良いおとずれを伝えるの謂で、新約のエヴァンゲリオンに通じるものです。 イザヤは、バビロンとの戦争、捕囚によって、徹底的に痛め付けられ、貧しさに喘ぐ人々に、『良い知らせを伝えさせるために』、預言者として選ばれました。 ○ ここで、『良い知らせ』は、ヨベルの年の考え方と重ねて描かれています。2節。 『主が恵みをお与えになる年/わたしたちの神が報復される日を告知して 嘆いている人々を慰め』 「ヨベル」は「雄羊の角」を意味し、この角で作った角笛を吹いて「解放の年」の到来を告知したため、この名があります。 一週間ごとの安息日、更に7年ごとの安息の年の延長上にある規定で、50年目に1回守られ、この年には売却された不動産の権利が元の所有者に無償で返還され、すべての奴隷は解放されました。 イスラエルではそもそも、土地は世襲制でその売買は禁じられていましたが、後には、その売却が認められるようになりました。結果、大地主と小作農民、農奴にも等しい土地を持たない農民との大きい格差社会が出来ました。 ヨベルの年は、このような無制限の土地の寡占を禁止し、土地の均等分配という状態への復帰を強調したものです。 無償での回復、無償での赦し、これが「ヨベル」です。 このことは、イザヤ55章とも、合致するのです。イザヤの二つの部分、著者は違っても、同じ主題が追いかけられています。 ○ 3節は、若干の解説がいるかと思います。 『シオンのゆえに嘆いている人々に 灰に代えて冠をかぶらせ 嘆きに代えて喜びの香油を 暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。 彼らは主が輝きを現すために植えられた 正義の樫の木と呼ばれる』 灰は、焼き尽くされ形を失ったものです。価値のないものの代名詞です。「粗布をまとい、灰をかぶる」とは、無念、謙虚、悔恨の情を表わす言葉です。 3節全体では、惨めな生活をしている人々の暮らしが、立て直されるということが預言されています。『灰に代えて冠をかぶらせ』ですから、悲しみの時が喜びの時に変えられます。 『嘆きに代えて喜びの香油を』、同様です。 『暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる』、これも同様です。 私たちの平和、私たちの喜びの根拠は、神さまの側に存在するのです。 神さまがそれを望まれるなら、私たちは、喜び、踊り出すことさえ出来ます。そして、神さまは私たちにそれを望んでおられるのです。 ○ 礼拝とは、正に、『灰に代えて冠をかぶらせ』、『嘆きに代えて喜びの香油を』塗り、『暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる』、そういう時です。 私たちは、喜ぶことが出来ない現実というものを抱えて、毎日を生きています。 それぞれの現実があります。私は牧師という仕事柄、他の皆さんが触れることのないもの、触れることの出来ないことに、触れてしまいます。 他の人から見ると、羨ましいほどの地位や生活を得ている人があります。しかし、実は傍から見るほど順風満帆という訳ではなくて、なかなかに、つらいこと、厳しいことを抱えて生きていることが多いのです。 勿論、この福音は、罪を悔い改めた民に語られるものです。罪を悔い改めることをしない者に、福音はありません。しかし、罪を悔い改め、己を責め、その結果として絶望から立ち直ることが出来ない者が、神さまの言葉を忠実に聞いている者だとは、言えません。悔い改めた者は、福音を受け止め、新しい希望を、未来を持つのです。 ○ 6節。 『あなたたちは主の祭司と呼ばれ わたしたちの神に仕える者とされ 国々の富を享受し 彼らの栄光を自分のものとする』 諸国民の祭司という役割に、ユダヤの未来、希望を見い出すと、イザヤは言います。 6節後半、『彼らの栄光を自分のものとする』とは、彼らから搾取するということではありません。彼らの繁栄が自分たちの繁栄であり、彼らの平和が、自分たちの平和だと言う理解です。 現代の中東の政治的・宗教的現実、特にホメイニ革命と呼ばれるもの、イスラム原理主義と呼ばれるものを見れば、イザヤの預言が、どんなに優れたものであるか、高尚な所に立っているか、そして、実は、一番現実的な路線であるかが、お分かりいただけるかと思います。 イザヤは、革命や戦争での勝利とは全く別の道を見い出すのです。 ○ 7節。 『あなたたちは二倍の恥を受け 嘲りが彼らの分だと言われたから その地で二倍のものを継ぎ 永遠の喜びを受ける』 彼らの恥辱をそそぐのは、武力の回復でも経済力の回復でもありません。信仰の回復であり、礼拝と祈りの再建なのです。教会も全く同じことです。礼拝と祈りの再建が教会の再建です。他のどんなことでもありません。 8節。 『主なるわたしは正義を愛し、献げ物の強奪を憎む。まことをもって 彼らの労苦に報い/とこしえの契約を彼らと結ぶ。』 正義を愛する神だから復讐を肯定するというのが、多くの国々人々の考え方です。 イザヤが言うのは、全く逆です。正義を愛する神は、不法を、暴力を、忌み嫌われるのです。 ユダヤの奪われた富み、奪われた名誉は、取り戻されなければなりません。しかし、暴力で取り戻されることは、決してありません。取り戻されなければならないのは、神の民という名誉です。私たちの教会も同様です。礼拝と祈りこそが、神の民であるという名誉の回復です。 ○ 最後に、もう一度1節。『打ち砕かれた心を包み』 『打ち砕かれた心を包み』とは、油注ぎと対応しています。神さまの聖霊が、『打ち砕かれた心を包み』、癒して下さるのです。私たちの教会でも同様でしょう。 礼拝の場で、傷ついた心が、優しいものに、本当の平和に包み込まれて、そうして、癒されるのです。それ以外には、癒しはありません。仕返しではありません。 |