○ 一ヶ月以上前に、礼拝月間予定で、一週間前に週報で予告した箇所ですが、それがなければ、他の箇所に代えていたかも知れません。少なくとも代えたくなります。非常に重い感じがします。とても、30分で読むことが出来るとは思われません。 料理に例えて申しますと、盛りだくさんで、とても食べきれません。三日くらい掛けていただくのだったら、喜んで全部食べるのにという、そんな気持ちです。 そうしましたなら、一番美味しそうなもの、一番欲しいものだけをいただくしかありません。 ○ 先ずは、4節です。 『恐れるな、もはや恥を受けることはないから。 うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。 やもめのときの屈辱を再び思い出すな』 1節からそうですが、イスラエルの惨めな様を、夫のいない女に準えて表現しています。夫のいない女の恥と、苦難、これが、イスラエルの現状と重ねられています。 この場合、夫がいないという恥が、苦難そのものであり、夫が無いために苦労していることが恥です。恥と苦難とが重なりあっています。 現代の日本では、あまりピンと来ません。成る程と肯くことは困難かも知れません。しかし、戦前の日本だったら、正にこの現実だったかと思います。 ○ さて、最初に、今日の礼拝でイザヤ書を読むことを、料理を食べることに準えました。そして、盛りだくさんで、とても食べきれないから、一番美味しそうなもの、一番欲しいものだけをいただくと申しました。 強い抵抗を覚えた方があったも知れません。聖書の言葉、つまり、神さまの言葉を良いとこ取りするのか、自分の物差しで、ここは良い、ここは大したことはないと判断して、人間が神さまの言葉を取捨選択するのかと。 そういう抵抗を覚えられた方は、むしろ、信仰的に健全です。 これが、比喩の限界です。 私は勿論、そのようなつもりで言ったのではありません。強調したかったのは、30分では時間的に無理があると申し上げたかったという点だけです。 しかし、比喩というものは、それを用いた人の意図を超えて解釈される可能性が存在します。 ○ 夫のいない女云々は、確かに、耳障りに聞こえるでしょう。ある人にとっては、正に不快な表現かも知れません。まして、1節には、 『不妊の女、子を産まなかった女よ』という表現も取られています。 あくまでも比喩です。そして、この時代にはいかにも現実にピッタリだったのです。そして、『夫のいない女』や『不妊の女、子を産まなかった女』を蔑むことに意図はありません。あくまでも比喩として聞いていただきたいと思います。 ○ 今までした話は、全部要らないかも知れません。無駄かも知れません。もし、誰もが聖書を神の言葉として謙虚に聞く姿勢を持っているなら、イザヤの言葉を預言として受け止めるなら、面倒臭いことは、省略しても良かったでしょう。しかし、聖書のこのような表現に拘る人、強い抵抗を感じる人がいることも事実です。こういう箇所をあげつらって聖書そのものを批判する人がいることも確かです。そこで、無駄とは知りつつ、簡単に触れました。とにかく、この箇所で性差別問題を論じても全く無意味だと考えます。 肝心なことに話を戻します。 『若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな』このように言います。 6節7節を重ねて読みますと、この女、つまりイスラエルには、罪がありました。しかも不貞の罪です。 それならば、「決して忘れてはならない」と言われそうなものです。しかし、『忘れよ。…再び思い出すな』です。 これは、100%完全に手を切った、最早、何の関係もないと言うことです。完全に抜け出て、最早、記憶もない、そのくらいの意味です。 ○ かつて犯した罪を忘れずに、常に反省し、再び過ちを犯さないようにすることは、とても大事なことだと考えます。普通はそのように考えます。しかし、それは別の角度から見れば、何時までもそのことに拘り、自由にはなれない、縛られているということにもなります。 罪を犯した当人が忘れられないことを、神さまが『恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな』と言われます。自由になりなさいと言っておられるのです。許すと言うことはそういうことでしょう。忘れなさいと言うことです。忘れても良いと言うことです。 ○ 一方、神さまの方は、 『捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。 若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる』 神は、決して忘れないのです。 人間は犯した罪を忘れてしまう程に、罪から離れた方が良いし、神は、その人間の良い時のことを、未だ罪を犯していない時のことを、決して忘れないと言うことです。 これは、親子の関係に似通っているかも知れません。正確には、逆で、親子の関係が、神とイスラエルの関係に繋がる所があります。 覚えているということは、何時までも恨みを忘れない、という意味と、逆に、幼く無邪気だった子どもの頃のことを覚えているから、今日の罪を赦すということにもなります。幼く無邪気な子どもは、沢山の失敗をします。それどころか、罪を犯します。しかし、親たる者は、失敗を罪を忘れ、だだ可愛かったことだけを覚えています。そうでなくてはなりません。そうでなくては、親は務まりません。 ○ 『忘れよ。…再び思い出すな』ということの根拠が、5節に述べられています。 『あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。 あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神 全地の神と呼ばれる方』 夫を持つことが出来るから、恥がすすがれ、苦難が終わるというのです。そして、その夫とは、神です。イスラエルは、面目を取り戻すのです。 ○ さて、この結婚です。 6〜7節を見ますと、これは、再婚というよりも、復縁です。 『捨てられて、苦悩する妻を呼ぶように/主はあなたを呼ばれる。 若いときの妻を見放せようかと/あなたの神は言われる。 7:わずかの間、わたしはあなたを捨てたが/ 深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる』 単純な結婚ではありません。復縁です。それ以前に離縁が有りました。だから復縁です。 ○ その離縁については、8節で述べられています。 『ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの 慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる』 怒りはひととき、そして、慈しみはとこしえ、そう述べられています。 これも、勿論比喩の中で語られたことです。ですから、この表現を捕まえて、神さまは短気だとか、一時の感情に流されることがあるとかと、批判することは全然意味がありません。 肝心なことは、この一点、怒りはひととき、そして、慈しみはとこしえ、です。 これが、神さまの赦しの根拠です。 ○ ここまでのところで、1回、私たちの身の上に重ねて思い巡らすことが必要かと思います。 ここに語られている預言は、教会そのものに当て嵌まることだと思います。私たちは、そのことに、思いを巡らすべきでありましょう。 しかしまた、全く忘れる程に、この罪から遠ざかること、離れることも必要なのです。 その逆のことをやっていてはなりません。 ○ 何よりも、 『ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが とこしえの 慈しみをもってあなたを憐れむと あなたを贖う主は言われる』 教会が犯した罪が赦されるとしたら、その根拠は、神さまのこの言葉に存在します。神さまの『とこしえの慈しみ』、ここにだけ根拠が存在します。 一つの例でお話ししますと、日本基督教団は第2次世界大戦時、戦争協力をしました。否定しがたい事実です。 しかし、この罪を購う術は、正しく立派な、戦争責任告白を作ること、それを唱和することではありません。 過去の教団幹部の罪を調べ上げて批判することではありません。イザヤ書に語られる赦しを言葉を聞くことこそが、罪の悔い改めです。 ○ さて、9節も、是非、読まなくてはなりません。 『これは、わたしにとってノアの洪水に等しい。再び地上に ノアの洪水を起こすことはないと あのとき誓い 今またわたしは誓う 再びあなたを怒り、責めることはない、と』 これも、一種の比喩です。ですから、神さまも誓いを破るのか、一度破った誓いをもう一度するのかとかと、批判することは無意味です。 そもそも、ノアの洪水後の約束に神さまは拘束されて、最早人間を罰することは出来ないなどということは、屁理屈にもなりません。 ノアの洪水後の約束は、洪水を起こさないとか、罰しないとかということに本質はありません。肝心なことは、人間を粘土細工のように、潰してしまって、もう一度一から作り直すようなことはしないという意味です。 ですから、むしろ、人間を糺すためには、罰します。それ程の罪だと言うのです。 ○ このことも、日本基督教団の罪とその赦しということに、重なると考えます。 神さまは、日本基督教団を一度解体して、最初から造り替えることを望んでおられるのでしょうか。疑問です。 解体した方が良いと考える人は、結局、神さまが日本基督教団をお作りになられたとは信じていません。 ○ 10節も、当然ながら、読まない訳にはまいりません。 『山が移り、丘が揺らぐこともあろう。しかし、わたしの慈しみは あなたから移らず わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと あなたを憐れむ主は言われる。』 『わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはない』 その通りなのです。神さまの御旨を、神さまの意志を、人間の罪くらいで、日本基督教団の罪くらいで、変えることは出来ないのです。 勿論、これも、逆説です。 『山が移り、丘が揺らぐこともあろう』とも、 そして、その変わらない根拠は、『わたしの慈しみ』つまり神さまの人間に対する慈しみであり、『憐れみ』だからです。 ○ 11節以下は、もう読んでいる時間が限られます。 絞って、読みます。 13節。 『あなたの子らは皆、主について教えを受け/あなたの子らには平和が豊かにある』 『主について教えを受け』る、つまり、主について知ることが、平和の根拠なのです。主の慈しみを知ることが、平和の根拠なのです。 平和運動ではありません。主の慈しみに裏付けられた平和運動ならば勿論、結構です。と言うよりも、主の慈しみを説く伝道こそが、平和運動だと思います。 憎しみに裏付けられた平和運動は、真の平和運動ではありません。 ○ 14節は、読むだけとしまして、17節。 『どのような武器があなたに対して作られても 何一つ役に立つことはない。』 なぜならば、後半、 『裁きの座であなたに対立するすべての舌を あなたは罪に定めることができる。』 簡単に言えば、死後の裁きの場で、弁明出来るからです。例え殺されても、滅びることはありません。どんな武器が、信仰者の命を奪っても、魂を信仰を奪うことは出来ません。 |