日本基督教団 玉川平安教会

■2020年3月15日

■説教題 「担い、背負い、救い出す」
■聖書  イザヤ書 46章1〜13節


○ 1節から順に読みます。

 『ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す』

 ベルは、バビロンの神・マルドゥクのヘブル読みと言われています。バビロンの神々の中でも主神、一番の神さまです。マルドゥクは元々小さい町でしかなかったバビロンの部族神・小さな神でしたが、バビロンが周辺を制圧し、帝国として成長してゆく内に、どんどん大きな神、偉大な神になって行きました。

 じゃんけんのゲームがあります。二人でじゃんけんして勝った方が、負けた者を従えます。勝った者が先頭になり、負けた者は後ろに付きます。今度は、二人組同士がじゃんけんして、同様に勝った者の後ろに負けた者が従います。

 繰り返す内に、全員が二つの組に分けられ、それぞれ長い行列になります。最後には、この二つの行列の先頭がじゃんけんして、最終勝者が全員の頭となります。

 このようなことが、聖書周辺の世界で繰り返されました。一つの国が隣国を制圧し従えることは、勝者の神が敗者の神を従え、これが繰り返されて八百万の神が出来上がります。


○ 大雑把な説明でしたが、かような経緯で、ベル即ちマルドゥクは、結果、小さな村の小さなお稲荷さんのような存在から、神々の神、最高神に出世しました。

 ネボは、ベルの次に重要な神で、ベルが軍事の神ならば、ベルは経済、文化の神だったようです。

 この辺りは、日本でも同じようなことが起こります。最後に強いのは、人気があるのは、戦の神と商売の神様でしょうか。


○ さて、ベルが地位を高めるに連れて、その姿も大きくなって行きます。これは文字通りの意味もあります。つまり、その偶像はたっぷりの金属が用いられ、大成長、巨大化して行きます。これが金無垢であれば、重さも大変なものです。


○ 1節の後半を読みます。

 『彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/

  疲れた動物に負わされる』

 バビロンが戦争に敗れました。敵軍が都に迫ります。そうしますと、人々は、ベルやネボを担いで、都を逃げ出します。と言うのは、ベルやネボが貴金属で出来ているからです。大きな財産です。

 今日のような有価証券はありません。貴金属が一番確かな値打ちのあるものです。だからこそ、神さまを貴金属で拵えたのでしょう。イザという時に持ち出す財産です。

 しかし、何とも皮肉なことに、値打ちのある貴金属の神・偶像は重く、とても人間の力に余るから、『獣や家畜に負わされ』『疲れた動物に負わされる』ことになってしまいます。


○ 2節。

 『彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/

   彼ら自身も捕らわれて行く』

 偶像の神も、それを担いで来た者も、『かがみ込み、倒れ伏す』ことになります。何とも漫画的に滑稽です。神さまを担いで逃げる、しかし、その神さまの重さのために躓き倒れてしまいます。偉大な神さま、信心を集める神さまほど、重く、結局人を躓かせ、倒してしまいます。こんな愚かなことを、人間は繰り返してきました。今日だって、同様でしょう。

 敵軍は、逃亡した者を、どこまでも追いかけます。何しろ、貴金属で出来た偶像を担いでいるのですから、どこまでも追いかけます。

 結局捕まえられ、金の偶像と共に、敵の都に連れ行かれ、そして奴隷にされます。

 そこでは、異教の神である偶像は溶かされて、新しい偶像、新しい神さまに造り替えられるかも知れません。その時に、鞭打たれ、汗を流し血を流して奴隷働きをさせられるのは、誰なのでしょうか。


○ 3節。

 『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。

   あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた』

 ここでイザヤの預言、神の言葉は、全く逆のことを語ります。

 ヤコブ・イスラエルは、偶像を拝み担いで来ました。しかし、本当は、神さまこそがヤコブ・イスラエルを『生まれた時から負』い、『胎を出た時から担』って来たと、神は語ります。

 

○ 神は更に語ります。4節。

 『同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう』

 偶像の神を担いで逃げた者は、土壇場では、この偶像を捨てて逃げたかも知れません。神を捨てて逃げたかも知れません。

 しかし、神さまは、『あなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう』と仰います。途中で投げ出したりしません。要らなくなったからと、捨てたりしません。

 偶像は古くなっても、値打ちは下がりません。金無垢ならば、錆びませんし、古びません。人間はどうでしょうか。老い、白髪になり、つまり、古び、錆び付いてしまいます。値打ちは下がります。しかし、神さまは決して、人間を捨てることはありません。


○ 何故ならば、4節後半。

 『わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』

 決して捨てないのは、神が人間を造ったからです。人間が造った神ではありません。『あなたたちを造った』から、だから、『わたしが担い、背負い、救い出す』のです。

 人間が造った神は、人間を捨てます。人間を造った神は、人間を捨てることはなさいません。 イザヤ書もエレミヤ書も、そして今聖書研究祈祷会で読んでいる出エジプト記も、徹底して、諄いほどに、偶像崇拝を非難します。

 それは、神が人間を造った、ここにこそ、聖書の信仰が存在するからです。

 ここを曖昧にしてしまうと、信仰そのものが崩れます。創造の神を否定して信仰は成り立ちません。しかし、キリスト教の教会の中でさえ、このことが曖昧にされます。

 そんなに目くじら立てなくとも、美しいものは美しい。素晴らしいものは素晴らしい。そうして、ややもすれば、教会の中に、礼拝堂の中にさえ、彫像が建てられ、絵画が飾られます。

 勿論、彫刻がいけないのではありません。絵画を否定することもありません。

 しかし、『わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す』。このことを忘れてはなりません。人間が神さまを造ってはなりません。


○ 5〜7節は、こんなに解り易い説明はありません。説明を加えたり、補ったりする必要は全くありません。説明でもありませんし、まして補完ではありませんが、お話ししたくなります。

 以下、『教団新報4500号』からの引用(自分で書いたものですが)。

▼近未来の米国では、高度に進化したコンピューターが、神棚に内蔵されている。柏手を打つとオンになり、適切な助言が託宣として語られる。納得すればアーメンと唱え、スイッチはオフとなり、神様退場。超小型化されたポケット版は、若者の必需品だ。

▼ところが、主人公の神棚は旧式でかさばり背中に担ぐ程。いささかガタが来ていて、勝手にでしゃばっては小言を垂れ何時までも止めない。主人公は叫ぶ、『 アーメンと言ったらおしまい』。これが風変わりなSF小説の題名。

▼都合の良い時に居てほしい。何時でも居られたら迷惑だ。それが人間の本音か。

▼私たちは神の言葉に聞くといいながら、自分の都合・好みで、聖書にオン・オフをつけていないだろうか。人間がスイッチを握っているようでは、神の言葉を聞いているとは言えない。

 以上が2002年の『教団新報4500号』からの引用で、後に2016年、本にした時に、全部にMEMOを加えました。

MEMO この時代未だ携帯も充分には普及していなかった。スマホやモバイルの登場で、この掌編が全く現実化するとは。ブライアン・オールディス、1967年の作。主人公が背負ったパソコンは、ガラケーを通り越して、コナン・ドイルの『ロスト・ワールド』系か。


○ スマホならば軽量です。何時でもどこにでも持って行けます。とても便利で、どんな質問にも答えてくれます。若い人は、スマホがあれば友人も家族も要らないと思っているかのようです。遊びにも使えます。僅かな電気で動きます。勿論ご飯は食べ見ません。臭いもしません。小さいから場所も取りません。何より、見たい時にだけ使える、これが一番の魅力でしょう。

 しかし、スマホは神さまではありません。人間によって造られたものです。ですから、本来、人間には興味がありません。勿論、人間を救うことは出来ません。どんなに、正確な情報を教えてくれたとしても、人間を救うことはありません。人間には興味がありません。勿論、人間を救いたいとも思いません。


○ 46章5〜6節は省略しましたが、7節だけ読みます。

 『彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き/据え付ければそれは立つが

   /そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず/

   悩みから救ってはくれない』

 スマホは、イザヤ時代の偶像よりもずっと優秀で、軽量で便利ですが、本質は変わりません。『それに助けを求めて叫んでも答えず/悩みから救ってはくれない』

 スマホやパソコンに救いを求めても仕方がありません。どんなにスマホやパソコンを重宝しても、愛しても、スマホやパソコンは、人間を愛してはいません。


○ 偶像、英語ではアイドルです。いろんな定義が出来ますでしょうが、本来の意味である偶像と所謂アイドル、アイドルグループと言う時のアイドルと、最大の共通点は、一方通行だということでしょう。どんなにアイドルに夢中になっても、グッズを買いあさり、仕事もほったらかして、公演に出掛け、ファンクラブに入っても、握手会でサインして、貰い手を握って貰っても、互いの関係は、一方通行です。アイドルの方は、そのファンのことを何も知りません。知りたいとも思いません。初めから関心がありません。


○ 8〜9節は、内容的に、『わたしが担い、背負い、救い出す』と同じだと思います。10節の前半も同様です。

 『わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、

  既に昔から約束しておいた』

 ここにだけ救いがあります。人間に関心を持たないものに救いを求めてはなりません。

 急に卑近な例になるかも知れませんが、子どもや孫のことをお考え下さい。誕生した赤ちゃん、可愛いには違いありませんが、どんな子に育つのか見当も付きません。しかし、もう既に、この子を愛し、ずっと見守ることは決まっています。

 子どもだから、孫だから当たり前という話に過ぎないかも知れません。しかし、ここのところが大事なことです。子どもがすくすくと成長して、優秀になるか、そうしたら愛する話ではありません。ちょっと問題を抱えた子かも知れません。そうしたら外れで、愛の対象ではないのか、そういう話ではありません。

 『こどもさんびか』にある誕生日の歌。『生まれる前から神さまに愛されてきたともだちの誕生日です。おめでとう』こういう話です。

 

○ 10節と11節の後半だけ読みます。

 『わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。

  わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる』

 これが私たちの救いの根拠です。救いの根拠は、私たちの中にはありません。神さまの御心の中にあります。だから、確かな救いなのです。

 また話が脱線かも知れません。日本語の『こころ』の語源は、コロコロだそうです。池田弥三郎の本に出て来ます。いい加減な話ではありません。人間の心は所詮コロコロであって、定めのないものに過ぎません。この心を頼りにしていると、とんでもない落し穴があります。

 だったら、客観性の堅いパソコンの知識がよろしいでしょうか。それは既に申し上げた理由で適いません。パソコンは人間には関心がありません。人間の救いなど、考えたこともありません。

 私たちが頼みとすべきは、私たちに関心を持ち、私たちを愛してくれる誰かです。家族であり、友人であり、信仰の仲間でしょう。

 そういう意味合いで、私たちを救う力は祈りにあります。祈りにしかありません。まじないのような意味ではありません。祈りこそ関心であり、愛だからです。


○ 12節。

 『わたしに聞け、心のかたくなな者よ/恵みの業から遠く離れている者よ』

 本当に大事なことは、自分の心に聞く前に、パソコンに聞く前に、神に聞くしかありません。だから、問うしかありません。

 13節。

 『わたしの恵みの業を、わたしは近く成し遂げる。もはや遠くはない。

   わたしは遅れることなく救いをもたらす』


○ 偶像に望みを託しても、絶望しかありません。多くの人が、偶像崇拝の結果、絶望します。偶像の極まりは、聖書で言うならば、ローマ皇帝の姿が刻まれた金貨でしょう。しかし、どんなにローマ皇帝にすがっても救いはありません。ローマ皇帝は、一般民衆など知りませんし、何の関心ありません。聖徳太子も、福澤諭吉もそうです。

 他にもいろいろな偶像があります。私たちがどんなに恋い焦がれても、向こうは何ら関心を持ってくれない、そういう偶像が沢山あります。

 私たちを振り向いてもくれない偶像に、空しい思いを捧げてはなりません。