日本基督教団 玉川平安教会

■2020年11月1日 説教映像

■説教題 「誰が放蕩息子か
■聖書  ルカによる福音書 15章11〜32節




○ お読みしましたルカによる福音書15章11節以下は、通例『放蕩息子の譬え』と呼ばれます。福音書にはイエスさまの譬え話が、たくさん盛られていますが、その中でも、最も親しまれているものの一つと言えましょう。

 聖書を読んだことのない人でも知っている話、そういう表現も出来ますでしょう。

 一番素直に、一番簡単に解釈すれば、こんな話になるかと思います。

 物語に登場する父親とは、神さまを比喩しています。この神さま・父親に息子が二人ありました。その弟息子が、とんでもないことを考えます。「父親の財産の半分は将来自分に貰う権利がある。けれども、父親が亡くなり、自分もいいかげん歳を取ってから、遺産を貰ってもおもしろくもない。若く元気なうちこそ、お金の値打ちがあるというものさ」。

 そこで彼は、現代の表現によるなら、遺産の生前分与を要求し、父親はこれを聞き入れます。そして、至極当然の帰結として、あまり時間が経たない内に、全ての分け前を使い果たしてしまいました。


○ とうとう豚のえさで腹を満たしたいと思う程に、零落してしまいました。そうなって初めて、自分の非を悟り、父親のもとに帰りたいと思います。

 彼は、勝手なことをした自分が、もはや息子として受け入れられる余地はないと考えています。19節は、そのことを強調しています。

 『もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』

 『雇人のひとりにしてください』とは、最早親子ではないということを強調しています。

 ところが、父親は、彼の帰って来る姿を遠くから認め、走り寄って彼を抱き締めます。


○ 毎日毎日、息子の帰って来るのを待っていたから、未だ豆粒のように小さい姿でも、直ぐに息子と分かったのだと解釈しても、勿論、間違いではないと思います。神さまは、そのようなお気持ちで、毎日毎日、人間が正しい道に立ち帰るのを待っておられると解釈しても、間違いではないと思います。

 この放蕩息子とは、新約聖書の中にしばしば言及される『異邦人』を比喩していると考えられます。『異邦人』、単純に言えば、ユダヤ人から見た時の外国人ですが、単に人種・民族のことを言っているのではなく、むしろ、異教徒であるということ、ユダヤ教徒ではないということに強調があります。

 更に、『異邦人』であり異教徒であるということは、ユダヤ人が神さまから与えられた律法を守っていないということです。それはまた、人生のなすべき課題に向き合わず、この世の楽しみに捕らわれ、長い間信仰を忘れて過ごしてきた、ユダヤ人から見ればそのような意味合いです。


○ 息子が帰ったことを喜んだ父親は、彼に着物を着せ、指輪をはめさせ、履物を出し、更に肥えた子牛を屠ってごちそうします。

 これに、兄息子が嫉妬・反発しました。当然と言えば当然です。29〜30節の兄息子の言い分はもっともだとさえ言えます。

 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もあり  ません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、

  子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。

 30:ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を

   食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』

 この兄は、弟が異邦人を表しているのに対して、ユダヤ人を比喩しています。

 長い間神さまに仕え、信仰を守り続けて来たのに、昨日今日に聖書を読み始めたような者と一緒にされてはかなわないという訳です。ユダヤ人こそ神の民であり、神の宝を相続する特別な権利を持つのだと、そう考えています。

 しかし、神さまは心の広いお方で、悔い改めた者を、全く無条件に赦し、受け入れられる。神さまの赦し受け入れられた者を拒むとすれば、本当に忠実に神さまにお仕えして来たとは言いがたいのではないでしょうか。 


○ ここから結論のようなことを3行で表現することが出来ます。福音が異邦人に、全世界に宣べ伝えられていく、一人でも多くの者が神の元に帰って来ることを、神は望んでおられるのだ。既に救われて教会にいる者は、新しく救われて、仲間に加えられる者を歓迎すべきで、嫉妬などしてはならない。とまあこんなことになるかと思います。


○ 以上申し上げたことが、一番基本的な解釈であると言って良いと思います。更に、ここから具体的な教訓のようなものが出て参ります。

 神さまから遠く離れているようにしか見えない人が確かに存在する。しかし、そういった人々も、間違いなく、神さまの視野に捕らえられている。少なくとも、その視野に入って来る日を、神さまは忍耐強く待っておられる。だから、私たちはそのような人々が帰って来た時に、つまり教会にやって来た時に、決して拒んだりしてはならないのは勿論、むしろ、積極的に働き掛けて、そのような人々を教会に招き入れ、あるいは出掛けて行ってでも、お世話しなくてはならない。こういった教訓です。


○ 今は、父親の財産を、信仰を比喩しているものとして説明致しましたが、これを愛と考えれば、ちょっと違った説明になります。特に31節に、注目して下さい。

 『すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。

   わたしのものは全部お前のものだ。』

 『わたしのもの』とは、何か。『いつも私と一緒にいる』とはどういうことか。それを考えなくてはなりません。


○ 父親の元に未だ手付かずに残っている財産、それに注目しなくてはいけません。その財産とは、父の愛のことです。お金の他に、目には見えないし、手に取って触ることもできないが、愛という財産があるという仮定の元に、もう一度この譬え話を、整理し直してみます。


○ 弟は、多くの若者がそうであるように、目に見えるお金にしか、関心がありません。だから、父親の財産の半分を要求して、それを持ち去ったけれども、父親の愛の内の、彼の取り分、父親の愛の半分は、置き去りにしてしまいました。

 悔い改めて父親の元に帰った時に、彼はかつて置き忘れていった財産の残り、つまり、父親の愛を発見するのです。


○ ところで、兄は弟が去ったことで、残された財産の半分は勿論自分のものとしましたし、父親の愛については、弟の分まで、独占してしまっていました。しかし、彼には弟と全く同様に、この父親の愛が全然見えていません。もう一度29節をご覧下さい。

 『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。

  言いつけに背いたことは一度もありません。

  それなのに、わたしが友達と宴会をするために、

  子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。』

 彼は、我慢して、いやいや父親に仕えていた、仕方なしに父親と一緒にいたかのようです。つまり、兄もまた、神の愛が見えず自己中心の生き方しかできないという点では、放蕩息子なのです。

 そんなに嫌なら、我慢していないで出て行ったらと言いたくなります。そんな人生を送っている人もあるかも知れません。今が、この場所が、嫌で嫌で仕方がない。しかし、出て行く決心も付かないし、行く当てもない。だから我慢して止まっている。

 信仰者にもそんな場合があります。我慢して我慢して教会に仕えている。我慢しているのだから、神さまも私の苦労は見ていて下さる筈だ。そんな暗い、マイナーな信仰に生きている人は実は少なくありません。我慢することを、手柄のように考えているかも知れません。もしかしたら私もその一人かも知れません。


○ このことも、私たちの教会の姿に重ねて考える必要があると思います。私たちは、この譬え話に於いて、自分を弟の放蕩息子に重ねて見ることが多いと思います。

 しかし、私たちは兄息子かも知れない。弟の分まで、父親の愛を、神さまの愛を独占してしまっているのです。

 日本のキリスチャン人口は1パーセントと言われます。その中で、私たちの日本基督教団が圧倒的に大きいのですが、20万人ちょっとです。たったこれだけの人数で、神の国の食卓である聖餐式に与っています。つまり、たった100万人程で、1億3000万人分の神の愛を独占しているのです。人口の1パーセント、逆に言えば独占率100倍以上です。

 しかし、そのことは全然思わないで、どうして教会はかくも奮わないのか、貧しいのかと嘆き、どうも、教会が喜びに満ちていない、むしろ不満に満ちています。更には、何故神さまは、私たちのこのような弱い教会を助けて下さらないのかと、文句を言い始めます。

 そうじゃありません。私たちだけで独占して申し訳ない。早く本来の持ち主にも分けて上げなくてはならない。これが正しい伝道の動機でなくてはなりません。神さまの愛を、私たちだけで独占して申し訳ない。伝道の熱心は、その点に基づくのです。


○ さて、父親の財産を、信仰でもなく、愛でもなく、生命と取れは、また新しい読み方が出てまいります。本当は、この、第3の解釈が一番大事なことなのですが、なるべく簡単に申します。この点については、毎週の説教で、必ず触れる十字架復活の問題に全く重なりますので、出来れば、毎週の礼拝で、少しずつ読んで頂ければと願います。


○ 私たちは、一人一人が神さまから生命を貰って、この世に生まれ出て来ました。しかし、その限りある大事な生命を、放蕩ざんまい、無駄に費やしてしまったとします。つまり、他の誰かのためになるような、世の中のためになるようなことは何一つなすことが出来ず、ただ己の楽しみのためだけに、全人生を費やしてしまった。もう幾らも生命が残っていない、それこそ末期ガンの宣告を受けたような事態になって、初めて、ああなんて俺の人生は空しいものだったのだろう。彼は激しく後悔します。

 しかし、その人生の終わりにであっても遅すぎることはない。悔い改めさえすれば、彼が全く予想もしていなかったものが、彼を待っている。つまり、悔い改めて神のもとに帰ろうとしさえすれば、天国には父親が豊かな食事を用意して待っておられる。こんな風に、読むことも可能だと思います。


○ 今、特別の人のことのようにお話致しました。なんだか、遊び人のことのように聞こえたかも知れません。しかし、実は私たち人間は、誰もが、同じ状況に置かれています。

 神さまから生命を貰ってこの世に生まれ出て来ました。その命は、いつの間にか、使い減って、残り少なくなって来ます。本当にそのことに気が付いた時には、いくらも残っていません。しかも、補給は出来ません。倹約だって出来ません。時間は無情にも、どんな時計よりももっと正確に流れて行って、二度とは帰りません。

 その人生の間に、生きることの意味を真面目に考えたことがあるのか。自分の死と、自分の生命を真剣に見つめたことがあるのか。それが問われているのです。


○ 自分の体が火葬場の火で焼かれる後にも、尚残る愛があるのか、真に天国のことを考えたことがあるのか。何かしら、天国に入るための準備をしたことがあるのか。そう問われているのです。

 放蕩息子の譬えに聞き従うならば、聖書の結論はこうです。遅いということはありません。今、この瞬間にでも、神さまの愛に立ち帰りなさい。そうすれば、神さまがずっと待っていて下さったことを知るでしょう。

 今、この瞬間にでも、生まれ出た所を目指して立ち帰りなさい。生まれ出た所、父母の愛、神さまの愛、そこに立ち帰りなさい。そうすれば、神さまがずっと食卓を用意して、待っていて下さったことを知るでしょう。


○ 本日は召天者記念礼拝に当たります。日本基督教団の暦では、聖徒の日・永眠者記念礼拝です。

 今日列席の方々は、母親か父親か或いは祖父母か、誰かしら、地上での信仰生活を全うされ、そして神さまの御許に召された家族を覚え、懐かしみ、思い出を新たにするために、この礼拝に出席されたのだと思います。

 もしかすると、その愛する家族から、家屋敷・財産を相続された方もあるかも知れません。財産よりも、愛情を与えられ、それによって今も生かされている方が多いかと思います。

 そしてこれは例外なく、命の灯火を相続され。同じ命を、教会流に言うならば霊を受け継いで、ここにおられると思います。

 そのような方々に、このことを申し上げたいと思います。

 この教会で教会生活を送られた方々の、財産が、教会に残っています。蓄えられています。皆さんが相続すべき財産が残っています。信仰という財産が残っています。

 この教会から、沢山の信仰を引き出し、外でそれを使われた人ほど、教会の信仰残高は増えています。


○ どうか、なるべく頻繁にこの教会にいらして、父母の財産を引き出し、それを外で使って頂きたいと思います。この財産は使っても目減りすることはありません。使えば使うほどに増える、不思議な財産です。