日本基督教団 玉川平安教会

■2020年3月29日

■説教題 「義を求め、主を求めて」
■聖書  イザヤ書 51章4〜16節


○ 先ず義という字について、最低のことを説明しなくてはなりません。と言うより、義の意味を知れば、今日の箇所の学びを殆ど終えると言っても良いだろうと思います。逆に、30分の説教で、義について、その全てを網羅することは不可能です。たくさんのことを説明しようとすれば、かえって散漫になるだろうと考えます。

 旧約の長い歴史を経て発展し、深められて来た義という概念のうち、特に今日の箇所と関係する所に限定してお話しすることに致します。


○ 義は、聖書の言葉でセデクと言います。同じ単語が、文脈によって何通りもの日本語に訳されています。正義、公正などは頷けるとして、勝利、救い、助けという訳を当てた箇所さえあります。そのことからも分かりますように、正義という日本語の延長上で聖書の義を考えるにはどうしても無理があります。むしろ、義理の方がましかも知れません。


○ 初期ユダヤ教では、義とは、文字通りに、律法を行うことです。これが即ち義です。旧約聖書が未だ正典となっていない初期ユダヤ教では、律法と言っても、甚だ漠然としており、狭い意味ではモーセ五書、特にその中の律法的な部分を指しますが、一番広い意味では、先祖たちの言い伝え、その時代の慣習なども含めて言うことがあります。つまり、義とは、ユダヤ人社会の約束事を守ってその中で暮らすこと。それを決して逸脱しないことです。

 この辺りまで見てまいりまして、既に、日本語の正義と重なる部分、またどうしても外れてしまう部分があることが分かります。


○ 私たちの感覚では、地域・社会の法に違反せずに生活することが義です。この場合の法=のりとは、自然という言葉と大きな違いはないと思います。

 しかし、地域・社会そのものが悪に染まり、汚れてしまう場合があります。このような時には、覚悟して地域・社会から離れ、己が信ずる道を行く、これがまた義です。

 だから、義にも何段階かあって、より高度の段階にある義に沿って生きることが、真に義しい生き方となります。この辺りは現実生活ではかなり複雑になってしまいます。だから、低いレベルのものであっても、目の前の義を守ろうとする人の方が正しい人と映ります。これが、義理堅いということの内容だと考えます。


○ 初期ユダヤ教の考え方は、もっと徹底しています。堅苦しいと言うか、あまり融通のない考え方のようです。

 日本には、交通規則や選挙規則のように、違反することが常識みたいな法律があります。交通違反で罰金を受けた話は、少しも恥ずかしいとは思われず、平気で公言されます。

 交通違反なんてしたことがない、駐車違反もしないと言いますと、何か奇矯な人、変人に思われます。牧師の間でさえ、交通違反は当たり前のことのように考えられています。実は私がそうなんですが、交通法規通りのスピードで運転するなどと言いますと、変わり者扱いです。


○ そのようなことは、ユダヤの律法理解では、絶対にあり得ないことです。ユダヤの律法は厳格、絶対的なものです。

 安息日の規定があります。出エジプト記35章2節。

 『六日の間は仕事をすることができるが、第七日はあなたたちにとって聖なる日であり、

   主の最も厳かな安息日である。その日に仕事をする者はすべて死刑に処せられる』

 なんと、安息日違反は死刑です。

 ですから、厳密にこの規定を守らなくてはなりません。安息日に仕事をしてはならないから、出張しても金曜日までに帰ります。しかし、金曜日に何かしら支障が出来て帰れなくなれば、出張が続いていることになります。律法を緩やかに解釈するラビによれば、安息日つまり土曜日にホテルから出ずにじっとしていれば、安息日を守ったことになります。

 しかし、厳格なラビは、それでは不十分だから、余裕をもって木曜日の内に出張を終えなさいとなり、更に厳格には水曜日に戻りなさいとなります。

 このような意味での厳格さ厳密さです。


○ 初期ユダヤ教的な義と、日本人的な義は、重なる所、外れる所があります。それを厳守する程度では大違いですが、とは言え、義とは何かというその根本では、大差ないと言えるだろうと思います。

 それを守りさえすれば、義しい生き方が出来る、ひいては、救いに与り、憎い敵を滅ぼすことが出来る、要するに幸福になれる規範、これが、初期ユダヤ教での義の考え方であり、同時に、旧約の義の基本です。

 ユダヤ的な徹底、厳密さには欠けるとしても、日本人的な義も、そんなには違わないと考えます。


○ 第1イザヤ、イザヤ書の1〜39章で、この思想が大きく変えられます。そして、日本人的な義の概念とは掛け離れたものになってまいります。

 第1イザヤでは、神の義は、神の聖、聖書の聖です。神の聖と結び付きました。少なくとも、結びついて語られました。神の義は、人間に対してさばきとなって臨むことになります。神のさばきとその結果としての滅び、これを抜きには、義は考えられないものになりました。

 この間の事情を詳述しようと思えば、預言者アモスから初めて、預言者の歴史をおさらいすることになります。この2年間だけでも2回繰り返しておりますので、今日は省略致します。

 結論部だけを言うならば、聖なる神・義なる神は、その聖の故に、その義の故に、そしてユダヤに対する愛の故に、ユダヤに聖を、義を要求し、結果、これに耐え得ないユダヤは滅びてしまいます。ほんのひとにぎりの残りの者を例外として、滅びてしまいます。。

 第2イザヤ、イザヤ書の40〜55章では、神の義は、むしろ、神の慰めと結び付きます。その結果としての回復・帰還が、第2イザヤの義の基本となります。


○ 第2イザヤの先駆者としてエレミアを上げなければならないのですが、今日はその余裕がありません。

 第2イザヤで、義が救いと密接なものであることは、その用例に当たってみれば、直ぐに分かります。更に、勝利という言葉に結びつきます。

 一番強調したいことは、イザヤの義は、新約聖書の十字架理解と直結する部分があるということです。つまり、義が、人間の業として捕らえられている間は、そこには自己満足・自己義認、逆に絶望があっても、真の救いはありません。神の恵みの業として、初めて、義が、救いにつながるということです。

 これが更に、パウロ的な信仰義認論となります。

 また、イザヤの義は、貧しい者への思いやりといったような面に展開します。これも神の恵みとしての義を考えるならば、頷けることです。初期ユダヤ教でも、それは信仰的な功徳として現れますが、イザヤ的な認識とは大分性質が異なります。


○ 51章の1節を見ます。

 『わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ』

 義を求めることと、主を求めることとは全く重なります。重ならないような仕方で義を求めることは誤りであり、空しいことです。


○ 1節の後半から2節の意味する所を、読んでまいりたいと思います。

 『あなたたちが切り出されてきた元の岩 掘り出された岩穴に目を注げ。

  2:あなたたちの父アブラハム あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。

   わたしはひとりであった彼を呼び 彼を祝福して子孫を増やした』

 ここには、義の思想のスタートラインが見え隠れするように思います。最初に申し上げたユダヤ社会の法則に沿って生きること即ち義、これは、原則的に否定されたことでは決してありません。

 丁度、パウロの律法理解のようなものです。律法によって救われると考える間は、人間には救いがありません。しかし、律法に違反することに義かあるかというと、そんなことはありません。

 ユダヤ教を、教会に当て嵌めても、全く同じことが言えるかと思います。教会の歴史伝統の中から生まれて来たものがあります。戒律という程大袈裟なものではありません。これにどっぷりと浸かっていれば、救われるというものではありません。しかし、これに違反し、これを破壊するところに救いがあるのではないということは、もっと確かなことです。

 もっと平たい言い方をすれば、この世の常識の延長上には救いはありません。しかし、非常識で、この世からも受け入れられないものに救いがないことは、もっと確かです。


○ 3節。

 『主はシオンを慰め/そのすべての廃虚を慰め 荒れ野をエデンの園とし

   荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く』

 神が義を行うことが、最終的には、喜び、楽しみ、感謝を生むことが言われています。

 私たちはどうしても、義・正義を強調すると、そこには人を拘束する不自由があり、裁きがあり、刑罰があり、そして滅びが待っているような印象を持ちます。旧約の諸預言書でも、それは否定出来ません。しかし、それが義の到達点ではありません。義の到達点は、『喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く』ことです。


○ このことと、所謂終末論とが重なると思います。何だか、終末論と言うと、裁き、刑罰、滅びの時というイメージが強くなります。昔、「もうじきこの世はお仕舞いだ教」という言葉が流行しました。野坂昭如がその代表的人物でした。

 この野坂昭如と神学書である『終末論』をベストセラーにした大木英夫先生がテレビで対談したことがありました。番組のことは良く覚えておりませんが、これに触れた大木英夫先生のお話は覚えています。終末論における滅びは、終末論の一面に過ぎません。終末論の究極は、正しい裁きが行われ、神の御心が行われ、正しいが故に苦難する者の苦難が報われる時、真の平和が実現する時なのです。終末は、信仰者にとって喜びの時です。

 イザヤの預言は、全くこれに当て嵌まります。


○ 4節。

 『わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。

   教えはわたしのもとから出る』

 この4節こそが、51章の預言全体の結論分であり、最重要部分だと考えます。

 神の義が行われる、実現する時とは、人が神の言葉に耳を傾ける時のことです。『心して … 神に … 聞』く時です。


○ 5節。先ず前半を読みます。

 『わたしの正義は近く、わたしの救いは現れ/わたしの腕は諸国の民を裁く』

 主の日、終わりの日、は近づいています。それは確かに裁きの日に違いありません。

 しかし、5節の後半。

 『島々はわたしに望みをおき わたしの腕を待ち望む』

 主の日、終わりの日、更に裁きの日は、悪魔のような帝国の支配に苦しむ国々、その民にとっては、救いの日であり、『待ち望む』べき日です。


○ 時間の関係で6節前半は省略し、後半だけを読みます。6節前半に描かれたようなおぞましい状況の中でも、

 『わたしの救いはとこしえに続き/わたしの恵みの業が絶えることはない』

 そして7節。

 『わたしに聞け 正しさを知り、わたしの教えを心におく民よ。

   人に嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな』

 神の言葉を聞き信じる者は、試練に耐え、乗り越え、神の義を、神の平和を見出すと約束されています。

 このことは、私たちの教会にも全く当てはまることです。

 この世に、この世の現実に義がないならば、ないからこそ、私たちは、神の言葉を、神の義を、神の平和を追い求めなければなりません。


○ 8節。7節の後半から読みます。

 『嘲られることを恐れるな。ののしられてもおののくな。

  8:彼らはしみに食われる衣 虫に食い尽くされる羊毛にすぎない。

   わたしの恵みの業はとこしえに続き わたしの救いは代々に永らえる』

 神の言葉を絶対のものとして聞かなくてはなりません。

 その逆は、嘲る者の言葉に聞き、それに従ってしまうことであり、罵る者の言葉を受け入れて、弱ってしまうことでしょう。

                                                           

○ 途中は省略して最後に16節を読みます。

 『わたしはあなたの口にわたしの言葉を入れ わたしの手の陰であなたを覆う。

   わたしは天を延べ、地の基を据え シオンよ、あなたはわたしの民、と言う』

 ここはイザヤ書6章を前提にしています。既に読みましたし、先週も触れていますので、詳しくはもうしません。神の言葉が与えられたということは、神の民となったということであり、神の御翼で覆われ守られるということです。

 ここに魂の平安を見出すことが、信仰者には可能です。ここに魂の平安を見出すことが出来るということが、信仰です。

 神の言葉が頼りにならなければ、他に頼るものはありません。神の言葉以外のものに頼ることは、偶像崇拝に他なりません。