日本基督教団 玉川平安教会

■2020年5月31日

■説教題 「思い悩むな
■聖書  マタイ福音書 6章25〜34節


○ 新世紀を迎えて20年、年号が変わって1年が経ちました。しかし、新しい時代にふさわしい新たな希望は見えてまいりません。むしろ、世紀末的現象が、誰の日にも色濃くなって来ました。今年も、過去数年と同様に、話題は、増え続ける凶悪犯罪であり、幼児虐待であり、政界・経済界の、さらには警察・検察まで含む官僚の不祥事であり、景気の低迷、それと相侯った政治の大混乱でした。明るい出来事はあまりありません。せいぜいメジャーリーグやサッカーでの日本人選手の活躍くらいのものですか。それもコロナウイルス騒動で頓挫しました。

 20年経っても、依然として21世紀の展望が見えてまいりません。暗闇のような壁が、行く手に立ち塞がっており、閉塞感が世の中を覆い尽くしています。

 国家の財政も全く行き詰まり、国の借金は国民一人当たり、900万円になるそうです。21世紀になってから300万円増えました。納税者一人当たりでは、7千万円と言う計算もあります。これもコロナウイルス騒動で恐ろしく増大したことでしょう。一億になるかも知れません。経済面も、政治も、教育の分野でも、20世紀100年間のしわ寄せが、全部詰まって来ています。

 そして、私たちは、この負の遺産を、21世紀の間中、今後80年、引き継がなければなりません。


○ 経済的なこと、数字のことよりも、もっと深刻なのは、人の心の荒廃です。少年犯罪・幼児虐待は、この時代にあって、特殊な事例ではありません。親が親であること、理屈なしに子供を愛し育てること、これが当たり前のことではなくなってしまいました。同様に、大人が大人であること、教師が教師であること、警察官が警察官であること、これが既に自明のことではなくなりました。牧師もそうかも知れません。

 価値観もモラルも、全て崩壊してしまったかのようです。


○ 子供たちには、未来への夢がありません。所謂成績不良の子供たちのことではありません。学校で一定以上の点数を取ることが出来る子供たちでも、決して例外ではありません。

 少し前までは、夢がないとは次のような意味で使われていました。つまり、或る程度の成績を収めればしかるべき学校に入り、そして、或る程度の会杜に就職する、そして、或る程度の年数を経れば或る程度まで出世する、30年後の年収まで計算することが出来る、そんな人生は詰まらない。そのような意味合いで、夢がないと言われていました。

 しかし、今や、夢がないとは、文字通り、先の見込みが全くないことです。必死に勉強して学校を出ても、就職がないかも知れないし、就職しても、その会社が倒産するかも知れない、リストラに遭うかも知れない。今や、そのような意味合いで、夢がないと言われています。

 このようなご時勢では当然のことかも知れません。役人や政治家に対する信頼などは、かけらもありません。中学生でも、政治家とは悪いことをして金儲けする人で、役人はそのお先棒を担ぐ人、そのように思っています。あくまでも、そのような前提で、将来、役人になりたい、政治家になりたい、つまり、あぶく銭を稼ぐのが夢と言う子供もいるそうです。

 ここから先は、もうブラックジョークに聞こえてしまいますが、中学生でも、このことは知っています。政治家の一族でなければ政治家にはなれない、そこで、政治家を志す子供は、先ず、吉本興業のお笑いタレントを目指すしかないのだそうです。正にお笑い話です。


○ 実は、イエスさまの時代も、世紀末的現象に溢れる時代でした。ユダヤを占領統治するローマ帝国そのものが、一大経済不況下にあり、オリンピック開催の資金がなく、後に大王と呼ばれるヘロデが、その資金を提供した程です。その資金は結局ユダヤ人の税金で賄われる訳ですから、口ーマ占領下にあり、かつ、異民族の王ヘロデの支配を受けなければならないユダヤ人の困窮は、想像するまでもありません。ヘロデは自分の地位・出世のために国民を売ったのです。これも現代に似通っています。

 当然のごとく、独立運動が起こり、繰り返し武装蜂起の試みがなされましたが、その度に圧倒的な軍事力で鎮圧されます。数百人、時に数千人単位で起こる革命運動は、殆ど、白殺行為にも等しいものでした。そして、むしろローマに迎合し、地中海世界を舞台に商売で生き残ろうとする者と、つまり、グローバリゼーショに乗っかる者と、故国に留まり、政治的に・信仰的に自立を日指す者との、乖離は、大きくなっていきました。絶望的な戦いを繰り返したあげく、紀元70年、つまりイエスさまの時代から30数年、遂に、ユダヤは滅び去りました。

 世紀末的現象という点では、今日の日本よりももっと凄まじいものがありました。当然、精神的な荒廃もまた、日本の比ではなかったでしょう。


○ そういった時代背景の下で、人々はイエスさまに何を期待したのでしょうか。或る者は、政治的な解放運動の指導者を見ました。これは、軍事的な指導者ということです。経済的な期待を持ったのも当然です。そして、もっと切実なもっと現実的な願いは、今日の飢えを凌ぐパンを提供する奇跡、今死にかかっている子供たちを病から救う奇跡でした。

 このような願いに対して、イエスさまは何をもって応えたのか。それが今日の聖書の箇所です。当時の時代背景を全く考慮しない人こそが、イエスさまの教えはもっともだと賛成するかも知れません。物質的な欲望を捨てた、自然に即した生き方、それは、現代でも大いに賛同を得ることでしょう。しかしそれはあくまでも、時代背景を無視した解釈です。イエスさまが自然に即した生き方を提唱していると読むならば、それは間違いです。少なくとも不充分です。


○ マタイ福音書の5章以下は主の山上の説教と呼ばれます。今日の箇所もその一部です。ここから、拾い上げて見ます。 5章38節。

 『38:【目には日を、歯には歯を】と言われていたことは、

  あなたがたの聞いているところである。

  39:しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。

  もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい』

 この言葉は、ユダヤ人にとって憎んであまりあるローマを抜きにして解釈出来ません。ローマの存在が、その暴力があるにも拘わらず、今、イエスさまはこのように仰るのです。

 5章43節。

 『43:『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、

  あなたがたの聞いているところである、

  44:しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ』

 ここも、ローマやヘロデの存在を前提にしながら語られているのです。

  6章19節。

 『19:あなたがたは自分のために、虫が食へさびがつき、

  また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。

  20:むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出す  こともない天に、宝をたくわえなさい。21:あなたの宝のある所には、心もあるからである』

 そして、今日の箇所の直前、6章24節。

 『24:だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、    あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。

  あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない』


○ 以上のことを前提にして、31節をご覧下さい。

 『だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな』

 『何を食べようか、何を飲もうか』これは、グルメのことを言っているのではありません。有り余る食べ物の中から、『何を食べようか、何を飲もうか』と迷っているのではありません。今日は果たして食べることが出来るのだろうかという不安なのです。

 『何を着ようか』衣装箪笥の前で迷っているのではありません。むしろ、「どうやって食べようか、どやって着ようか」という不安です。

 32節も同様の前提で読まなくてはなりません。

 『これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、こ  れらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである』

 異邦人は賛沢な暮らしをしているという前提で語られているのではありません。

 そして、肝心な33節。

 『まず神の国と神の義とを求めなさい。

  そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう』

 これは、ギリギリの生活の中で、尚迫られている決断なのです。

 念のために、要らぬ誤解を除いておきます。これは、所謂革命思想ではありません。ローマからの軍事的・政治的独立が至上のもので、独立さえたち成出来れば、豊かになれると言っているのではありません。むしろ絶対平和を説いています。ユダヤにとって憎むべき敵であるローマをも敵としてはならないと言っているのです。


○ しかし、革命的と言えば、もっと熾烈に革命的です。順にお話致します。

 日本でもそうですが、経済不況の前には、一大バブル期が存在致しました。ユダヤでも同様でした。理由も似通っています。あまり詳しく述べている暇はありませんが、日本でも、ユダヤでも好景気と不景気は交互にやって来ます。そして、好景気が次の不景気の根本原因です。また、隣国の紛争、戦争、飢餓、が好景気の理由になるという点でも同じです。そして、また、同じことが、不景気の根本原因でもあります。まあ、経済の時間ではありませんし、私は経済学には門外漢ですから、これ以上詳しく述べる必要もないでしょう。問題は、不景気の中で、その根本原因・何が経済恐慌をもたらしたのかという肝心なことを忘れて、バブルよもう一度という発想が生まれて来る点です。極端には、もう一度戦争が勃発することを、人々は願うようになります。


○ 『まず神の国と神の義とを求めなさい』

 バブルを願ってはならなりません。まして、戦争など他国民の不幸を下敷きにした繁栄など願ってはなりません。

 もっと根本的には、富を恋い慕う者は、所詮、金銭地獄から抜け出せないということです。根本的な問題解決のためには、金銭という価値観から白由になるしかありません。

 イエスさまがここで仰っていることを直接的に聞けば、こういうことなのです。最低限必要なものは必ず与えられるから、毎日を生き延びる以上の富を願ってはならない、それよりも、もっと根本的な価値観を大事にしなさい、それが、神の国と神の義だというのです。


○ 先程、山上の垂訓の前半部を拾い読みしましたので、今度は、後半部を拾ってみます。 7章1〜2節。

 『人をさばくな。自分がさばかれないためである。2:あなたがたがさばくそのさばきで、  自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」何度も申しておりますように、裁くとは、重さを量ると言う字に語源があります。つまり、重さや量、数字に換算できるもので、人の値打ちを計ってはならないが裁いてはならないの意味です。人生そのものにも宛て嵌ります。重さや量、数字に換算できるもので、人生の豊かさは決まりません。もっと数字を上げることが幸福ではありません。数字から自由にならないと、本当の幸福はありません。

 7章7節。

 『求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。    門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

  8:すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである』

 自分が本当には何を求めているのかということを、人は先ず知らなければなりません。真に価値有るものを求めているのか、それが問われています。

 7章13〜14節。

 『狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。

  そして、そこからはいって行く者が多い。

  14:命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない』

 所謂狭き門の語源です。ここでも、人は本当には何を求めているのか、何を求めるべきなのかが、問われています。

 最後に、7章24〜25節。

 『それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、

  岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。

  25:雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。  岩を土台としているからである』


○ 今日の箇所全体を通じて、このことが間われています。つまり、あなた方は、真に幸福を願っているのか、真に平和を願っているのかということです。幸福ではなくて、賛沢を、平和ではなくて、己一人の生活の向上を願っているのではないのか。

 ユダヤの民は、苦悩からの解放を願っていました。しかし、彼らに与えられたのは、勝れた軍人ではなく、政治家ではなく、大金持ちではなく、一人の貧しい赤ちゃんでした。しかし、真に幸福を願っている者には、真に平和を願っている者には、この貧しい赤ちゃんこそが、キリスト・救い主だったのです。


○ 聖書のクリスマス物語は、貧しい家畜小屋が舞台です。登場人物も全て貧しいささやかな平和を願う善良な人々です。しかし、いつの間にか、クリスマスは、煌びやかな飾り付けがなされ、豪華さを競い、驚沢な御馳走を食べる日となってしまいました。質素なクリスマスは教会にしか残っていません。そして、平和を願うことを忘れてしまいました。

 しかし、皆が、真に平和を願うならば、先程諄い程引用した、山上の垂訓に説かれるように、それは必ずや叶えられる筈なのです。何故なら、人々が真に平和を願うならば、その時点で、既に平和が実現しているのです。

 平和が実現していないのは、真に平和を願っていないから、平和よりも、つまり、神の国と神の義よりも、もっと他のものを、優先して願っているからに他ならなりません。

 教会は、平和を、この日一日の平和を祈りましょう。