○ ペンテコステの出来事によって聖霊に打たれた使徒ペトロは、祭りに集まった大勢の人に向かって説教しました。この説教をも含めて、ペンテコステの出来事です。むしろ、この説教の方がペンテコステの大事件かも知れません。 ペトロはそれ以前に説教をしたことはないと思います。そういう勉強もしていないと思います。ペトロが説教をしたこと自体が、聖霊の業に他なりません。 聖霊に打たれるとはどういうことなのか。何かに取り憑かれたようになるとか、忘我の状態になるということがないとは言えませんが、それに大きな意味があるとは思われません。 そういうことではなくて、一個の人間では出来ない筈のことが、可能になるということではないでしょうか。それも超人的な力を発揮するというような意味ではありません。 ペトロが説教したこと、そのことが、聖霊の業です。 ○ 説教する牧師を聖霊によって清めて下さいと、礼拝の中で祈ります。聞く礼拝者を清めて、その耳を、その心を開いて下さいと祈ります。それこそが、聖霊の業です。 何年か前に、ホーリネスの流れを汲む、小松川教会に招かれて説教壇に立ちました。当然、司会者によって、この祈りがなされました。他の教会に比べても、特に熱心でした。礼拝を礼拝たらしめるものは、聖霊の働きだということを思わされた体験でした。 聖霊降臨、ペンテコステなしには、礼拝は成立しません。 ○ ペトロの説教は、2章14節以下に記されています。罪の中に留まっている者に対して、その罪を指摘し、糾弾し、そして、悔い改めを迫る内容です。罪の中に留まっている者に対して、その罪を指摘し、糾弾し、そして、悔い改めを迫ることは、聖霊によって清められた者の、なすべき努めです。聖霊によって清められた者だけが、罪を指摘し、糾弾し、そして、悔い改めを迫ることが出来ます。聖霊によって清められていない者は、これをしてはなりません。 ○ 人々はこの説教を受け入れました。つまり、罪を糾弾する言葉を受け入れました。37節。 『人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、 「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った』 新共同訳では『心を打たれ』、口語訳では『心を刺され』と訳されています。原文は、『刺し貫く』という意味を持っています。新共同訳・口語訳よりも、もっと強い意味合いです。感心したとか、感動したとか、共感したとか、そんな程度ではありません。血が流れる程にグサリとやられたという意味合いです。 ○ 白河教会時代、40年も前の話です。当時はコロニーという呼び方がされていた県の大型福祉施設がありました。そこの一つ、重度の身体障がいを負った方々の暮らす園で、毎月第4日曜日の午後礼拝を持っていました。 宗教への勧誘活動は許されていませんので、教会員の一人をお見舞いする、そこに彼の友人が大勢同席するという建前を取っていました。その集会仲間に、浪江(仮名)さんという60歳くらいの婦人がいました。最初は出たり出なかったり、それがだんだんに真ん中の席になり、ついにはオルガンを弾いてくれるようになりました。元々音楽教育を受けていたそうです。 この人から、ある時打ち分けられた話です。彼女の証だと受け止めています。 浪江さんは、農家に生まれました。小学校に上がるまでは活発な、むしろお転婆な少女だったそうです。しかし、右足に痛みを覚え、だんだん不自由になり、女学校に上がる頃には、足を引きずるようになりました。 ○ その原因が、二つ三つの頃、かかとに出来たあかぎれなのだそうです。ここから黴菌が入り、こじれたのだということを、浪江さんは、物心ついた頃に知りました。誰からともなく知らされたのです。 「交通事故にあったということなら、私も諦めがつきます。でも、あかぎれですよ。たかだかあかぎれ一つのために、私の人生は狂い、辛いものになってしまったのです。私は、娘のあかぎれに気付かず放置した母を恨むしかありませんでした」。 「でも、この集会に出会いました。最初の頃、牧師さんの話す罪という言葉に、反感を覚えました。けれども、なんだかその言葉にひっかかるものがあって、集会に出続けました。そして、この頃、やっと分かりました。母がどんなに苦しんだかを。私が責めるまでもない、母がどんなに苦しんだかを。そして、母を責め続けてきた自分こそが、罪を犯したのだということが」。 ○ 実は、この集会で罪を語ったのは、私ではありません。私にはそんなことは出来ません。苦しい日々を送っている方たちが集会のメンバーです。私は、少しでも耳障りの良い、少しでも気持ちが優しくなれるような、そんな聖書箇所ばかり選んでいました。 しかし、浪江さんは、聖書が語る罪に、真っ正面から向かい合い、真っ正面から自分の罪を見つめ、そうして救われたのです。病人に向かって、大胆に罪を語ったのは、私の前任者です。 ○ 浪江さんがオルガンを弾いてくれるようになって、本当に助かりました。集会の賛美は、格段に向上しました。少なくとも、私はそう思いました。 しかし、長くは続きませんでした。もともと、日常生活で松葉杖が必要なほど不自由な体で、オルガンを弾いてくれたのですが、松葉杖が二本になり、更に車椅子が必要になりました。少女の頃に得た病が、60歳になっても、未だ進行していたのです。少女の頃に得た母への恨みが、60歳になってやっと癒されたのに、病は、彼女を解放してくれなかったのです。 ○ そんな中、唯一洗礼を受けて白河教会員になっていた吉田さんという方が亡くなりました。葬儀の様子を、仲間たちに報告しました。皆が涙を流しました。遠慮も会釈もありません。皆が大声で泣きました。 しかし、浪江さんも含めて、皆で祈り、そして賛美しました。 浪江さんがぽつりと言いました。「神さま、ありがとうございました」。 罪を見詰めるところに、初めて真の救いがあります。 罪が語られない所では、福音は語られません。 ○ 38節。 『すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、 イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。 そうすれば、賜物として聖霊を受けます』 人々はペトロの説教を受け入れて洗礼を受けました。ここで悔い改めと洗礼が、深く結び付いています。洗礼は悔い改めの結果です。悔い改めの起こらないところに洗礼はありません。 洗礼を受ける資格とか、決心の程とかが、問題になります。知識ではないし、体験でもないし、なかなか基準が設けられません。難しいことです。しかし、悔い改めがなければならないことだけは、絶対に確かなことです。 ○ 悔い改めとは、単なる後悔ではありません。単なる懺悔でもありません。償いの行為でさえありません。悔い改めは、人生の方向転換です。進んで行く道・方向を変えることです。もっと具体的に言えば、自分中心の考え方、生き方を、信仰中心の生き方に変えることです。 ○ 『そうすれば、賜物として聖霊を受けます』 洗礼を受けることが何か人間の功績で、そのご褒美に聖霊が下賜されるというような話ではありません。 洗礼を受け、人生の方向転換をし、主のご用のために働く者となる、その任務を果たすために、聖霊が下されるのです。 任務を果たすというと、牧師か何かになって、特別の伝道活動をするようですが、そういうことではなく、宣教とはキリスト者全てに与えられた任務です。極端なことを言えば、任務がないのに聖霊を下されることはありません。 ○ 40節。 『ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、 「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた』 ペトロは再び強い表現で、悔い改めを迫ります。『この邪悪な時代から救われなさい』とは、政治的な発言ではありません。時代の価値観、世俗的な価値観の中に埋没してはならないという意味です。勿論、逆に、反体制的であれとか、常識に縛られない生き方をせよ、とかという意味では全然ありません。 体制的だの反体制的だの、常識的だの非常識だとの言うことが、全く世俗の論理であり、世俗の倫理でしかありません。 問題になっているのは、信仰的・聖書的価値観のことです。 ○ だからこそ、42節。 『彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった』 この世俗の生活とは距離を置いた新しい生活が始まったのです。 それは、聖霊によって結び合わされた「交わり」、「礼拝・聖餐式」、そして「祈り」の生活です。 ○ 聖霊によって誕生した初代教会の様子が、44節以下に、より具体的に描かれています。 『信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、 45:財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った』 この箇所で著者が何を強調しているのかを、聞かなくてはなりません。著者が言わんとしているのではない声を聞くのは、思い込みに過ぎません。 著者が言わんとしているのは、教会に集うた人々が、如何に悔い改め、新しい生き方を始めたかという点です。過去のものに拘泥しないで、それを捨て、真に大事なものを求める生活を始めたという点が強調されているのです。 先ほど申しました、悔い改め、聖霊に打たれ、新しい人生を始めたということを、42節以下の表現で具体的に説明しようと試みているのです。何か、新しいライフ・スタイルのようなものを提案しているのではありません。 ○ 46節以下の方がより重要でありましょう。45節までは、46節の信仰生活のための準備・前提のようなものです。 さて、何しろ46節。47節までもう一度読みましょう。 『そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まっ てパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、 47:神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、 主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである』 これを一行で言い換えるならば、礼拝と伝道です。 ライフスタイルではありません。原始共産主義ではありません。礼拝と伝道の生活、それが悔い改め、そして洗礼、更に聖霊降臨によってもたらされる新しい生活なのです。 ○ また46節は、明らかに42節に対応しています。ここももう一度読みます。 『彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった』 内容的には同じことを述べていますが、42節の方は、教会生活、そして、46節は家庭生活・日常の生活のことです。 つまり、教会でも家庭でも、信仰的な生活をしていた、良心的で、愛の生活をしていたという点に強調が存在します。それ以外のことに力点を移して読んではなりません。 ○ 敢えて47節だけを読みます。 『神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、 主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである』 また、この箇所だけ抜き出して読みます。 約めれば『神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた』 私はこの箇所から、マタイ福音書5章16節を連想させられます。 『そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。 人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである』。 この箇所を詳しく注解する暇はありません。結論部だけを申します。『あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになる』、この『立派な行い』とは、礼拝する姿のことです。 このような、救われた者の交わりを形成する力は、つまり真の『信徒の交わり』『信仰の交わり』は、聖霊降臨そして礼拝によってしか実現しないのです。 礼拝に於いて共々に聖霊に与り、伝道の使命を与えられて、ともに働くこと、それが正しい意味での教会の交わり、信仰の交わりです。必ずしも、人間的な親しさではありません。 ○ 今日の説教題は、『全能の父なる神の右に』です。勿論、使徒信条の1節です。 しかし当初の考え方からは外れてしまいました。聖書の箇所も前後にはみ出しました。32〜33節だけ改めて読みます。 『そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、 その体は朽ち果てることがない』と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。 わたしたちは皆、そのことの証人です。 33:それで、イエスは神の右に上げられ、 約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。 あなたがたは、今このことを見聞きしているのです』 『全能の父なる神の右に』上げられた、どこから上げられたのか、それは陰府からです。 陰府から上げられて『全能の父なる神の右に』おられる方だから、陰府に沈むようにしてかろうじて生きているような者を、引き上げ、救って下さいます。 それが聖霊の力です。私は聖霊を見たことがありません。聖霊は目には見えません。しかし、風を見ることは出来なくとも、風に揺り動かされる枝を見ることが出来るように、聖霊に揺り動かされた人を見たことがあります。先ほどの浪江さんも、吉田さんもその一人です。 |