○ 最初に、10〜12節だけは、厳密に言葉の意味を確認しておきたいと思います。 その前提として、14章の1節以下に述べられられていることを、要約して申します。信仰の弱い者という表現は、普通は、無力、弱い、病弱などの意味で使われるでしょう。しかし、ここでは大分違った意味合いで用いられています。信仰の弱い者とは、宗教的な規律に拘泥する者、厳格に守ることを主張する者の謂であって、現代人の感覚とは180度違っています。 何を食べるなとか、何をしてはならない、何をしなくてはならないという形に拘って、己を律していなければ信仰を全う出来ない弱い者という意味で用いられています。 ○ このような人こそ、自分がもっとも信仰深い、もっとも良く律法を学び理解し実践しているという自負を持っています。そしてその分、他人には厳しく当たります。他の人を批判し、場合によっては退けます。 解り易く言えば、当時の教会で、偉い人だと思われていたことでしょう。誰より自分がそのように思っていたことでしょう。 ですから、これらの人を退けないで受け入れてあげなさいというのは、大いなる皮肉です。 当時のローマ教会にあっては、パウロが指摘する信仰の弱い者、つまり、律法の規定等に拘泥する禁欲派は、むしろ少数派だったと考えられます。 ○ 今申し上げた前提に立って読みます。10節。 『それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。 また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』 『兄弟を裁く』の兄弟とは、禁欲派の人のことであり、信仰の弱い者のことでしょう。 しかし、現代の感覚で言ったならば、全く逆で、ファンダメンタリストとかオーソドクックスということになり、とても熱心な人、むしろ狂信的な人ということになると思います。 ○『兄弟を侮る』のは、逆の立場の自由派のことでしょう。ここでは、一応『信仰の強い者』となりますか。勿論、現代の感覚で言えば、宗教色が弱くなった世俗的な人ということになろうかと思います。 これらの人は、信心深く、教会の規律に厳格な人を小馬鹿にします。自分は深い知識を持ち、その結果、自由な信仰に生きていると自負しています。やかましい規則に縛られるような信仰者は愚かで、深い信仰がないのだと考えています。そして、禁欲派の人を嫌い、出来れば追い出したいと願っています。 現代日本の教会、特に日本基督教団では、禁欲派よりも自由派の人の方が多いかも知れません。 使徒パウロは、この人々をも全く肯定しているのではありません。むしろ逆です。両者に対して皮肉を言っているのです。 今まで申し上げたことは、左右が分からなくなって、ややこしいのですが、どちらが右でどちらが左かということに拘る必要もありません。 どちらも絶対ではなく相対化されるということを、承知して頂ければそれでよろしいかと思います。 ○ 肝心なのは、10節の後半部分です。 『わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』 そのままズバリ、神の裁判席の前に(被告として)立つという意味です。ここでは、終末の裁きを前提としています。キリスト者は神の裁きの前に立つことを自覚する者です。つまり、自分が神の前の罪人・被告人であることを自覚する者であって、告発する側に立つ者ではありません。そのことが強調されています。 禁欲派であれ、自由派であれ、神の前の罪人・被告人であることを自覚することが、それだけが肝心なことであって、告発する側に立つならば、もはや決して敬虔なキリスト者ではありません。 ○ 11節は、イザヤ書45章23節の引用です。 『わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ すべての舌は誓いを立て 24:恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う』 例によって、自由な引用でありまして、元の文脈で読むことは出来ません。 残念ながら、何が言われているのか良く分かりません。難解です。 多分、原文の文脈とかは全く関係なくて、 『すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる』 この一点だけが問題にされ、引用されているのでしょう。 ○ 12節。 『それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです』 口語訳では、『神に対して自分の言い開きをすべきである』。ここでも、終末の裁きを前提にしています。 人間は、誰でも、神の裁きの前に立つべき存在であり、他の人間を裁くべく、裁判官の側、つまり、神の側に立つべきではないと言われているのです。 ○ 10節の後半をもう一度読みます。 『わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです』 私は、牧師という立場上、皆さんとは逆の方向を向いています。 これは根本的に間違っているのではないかと思うことがあります。 牧師だけは、十字架に背を向けているのです。神さまの方を見ないで、牧師一人だけ聴衆の方を見ています。 本当は、会衆席に立って、十字架を見ながら礼拝を進行する方が良いのではないかと思うことがあります。実際、ローマカトリックのミサでは基本的にそのような姿勢になります。私の知り合いの牧師にも、ごく少数ですが、そのような姿勢で聖餐式を執り行う人があります。 仏教の法事でも同じです。大体は、祭儀を執り行う人は、会衆の前で、いわば会衆の先頭に立って、神棚に向かい合い、神事を知り行います。 そんな話を仲間内で致しましたら、牧師が十字架に背を向けるのは当然ではないか、背を向けなければ、それを担ぐことなど出来ないと言った者がありました。一理あるといえば一理ある。詭弁と言えば詭弁です。 形式的な議論とはそんなものです。 ○ 話が少し飛躍するかも知れません。 以前、聖書研究祈祷会でヨブ記を読んでいる時に考えさせられました。ヨブを告発する友人たちは、最初はヨブを慰め励ますためにやって来ました。 七日七晩、ヨブと共に座り、祈り続けた程です。 しかし、結局いつの間にか、ヨブを告発する側に回っています。神さまの側に立って、神を弁護し、ヨブを弾劾しています。 その時、確かに、彼らは、神さまに背を向けてしまっています。自分が神さまを背負って、神さまのために働いているかのような錯覚に陥っていまです。 しかし、真に神さまを求め、神さまに向かい合い、必至に叫んでいたのはヨブなのです。 これは私にとっては、大きな戒めです。牧師は基本的には、教会員と共に、神さまを見上げる立場に立つべきだと思います。しかし、説教があります。気付くと、神さまの側に立って、少なくとも立ったような気になって、神とではなく、教会員と向き合っています。その時に、もしかしたら神さまら背を向けているのではないか、これは、常に自分を戒めなければならないことだと考えます。 ○ 私たちは礼拝を捧げるために教会に集まります。他の目的のためではありません。そうは言いながら、土曜日に教会に見える人は少なくありません。先ず、会堂掃除のために、お花を生けるために、色々な用事で色々な人が教会に見えます。しかし、これ全て、礼拝を捧げるためです。礼拝を守るために掃除をしなくてはならないし、他に、いろいろと仕事が、用事が出来ます。 私たちは賛美し祈るために教会に集まります。他の目的のためではありません。つまり、一番簡単に言えば、人の顔を見るためではない、人の話を聞くためではない、勿論、人に顔を見せるためではない、人に話を聞かせるためではない、神さまにお目にかかり、神さまの言葉を聞くために、集まるのです。 この一番肝心なことを忘れると、どうなるのか、それが、今日の箇所の問題なのです。 ○ つまり、人間が十字架を見上げることをしないで、お互いの顔を見るようになると、どうなってしまうのかです。大勢の顔を見て、いろんなお話をすれば、楽しいことも沢山あるかも知れません。しかし、結局は、裁き合うようになるのです。 お互いに向かい合い、話し合い、そして一致に至ることはとても大事なことでしょう。しかし、もっと大事なことは、別にあります。議論しても解決が付かないような深刻な対立があります。譲ることが出来ない場合もあります。 会社などの社会では、そのような対立の中で如何に自分の意見を通し相手を説得するか、或いは完膚なきまでにやっつけるかが、大事なことであって、それが社会人としての能力かも知れません。 しかし、教会ではそのような時に、互いに半歩ずつでも譲り合い、摩擦を少なくすることが必要でしょう。是非そのようにありたいものです。譲り合いが大事です。 しかし、もっと大事なことがあります。議論で解決付かないなら、議論を止めて、祈ることです。具体的には互いの顔を見ることを止めて、神さまを見上げることが、むしろ教会流です。 ○ 私たちは賛美し祈るために教会に集まると申しました。他には無いと言いましたが、もう一つあると言えばあります。他には無いと言いましたのは、これも厳密には、賛美し祈ることの一部分だからです。 それは、懺悔、悔い改めです。罪の告白です。罪の告白と無関係な信仰の告白はありません。そして、信仰の告白と無関係な、賛美や祈りはありません。 その意味で、教会の営みの全ては、十字架の死を見上げることに始まるのです。 人は対立する相手に負けたくはありません。赦したくも赦されたくもありません。議論で勝利したいのが本音です。まして間違いを認めることは出来ません。 ならば、神さまを相手に頑張って頂くしかありません。神さまを相手に、自分の正しさをあくまでも主張し、その正しさを認めない、実現してくれない神さまを、批判すべきでしょう。 ヨブはそれをしました。端折って言えば、神さまに抗弁し、徹底的に逆らい、そして結果的に見れば、義と認められました。 ○ 10節で強調されていることは、十字架の死を見上げることです。私たち人間は、誰でも、十字架の前で罪人であり、平伏して十字架の死を見上げるべき存在です。 その意味では全然特別な存在ではなく、この世の罪人の一員です。ですから、病や貧しさに苦しむ者と共にある教会とか、彼らのために何が出来るかとか、そんなご大層なものではなくて、自分自身が、十字架の死を見上げて、罪を告白する存在なのです。 世に仕える教会と言うと、如何にも立派で信仰的に聞こえますが、仕えるなどという姿勢が、その自己理解が既に傲慢かも知れません。私たちは、全く世の一員であり、紛れもない罪人の群れであり、十字架の死を見上げて、罪を告白すべき存在なのです。 ○ 日本基督教団は長い紛争の時代を経験し、やっと正常化の兆しくらいは見えたかなと、思ったのもつかの間、気付いたら元の木阿弥状態です。愉快な話題ではありませんから、これ以上教団の紛争のことには触れません。 対立する何れの側であっても、自分にだけ義があって、自分が神さまを背負っているような気分になって、結果、神さまに背を向けてしまうような愚かな真似はしたくないものです。 自分が一人の罪人であり、十字架の死によってのみ救われる存在であることを忘れれば、結局、神さまに背を向けてしまいます。 ○ 13〜16節は、10〜12節の説明で申し上げたことで充分です。 一つだけ強調したいのは、13節です。 『従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、 妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい』 こんな場面を思い浮かべて下さい。十字架があって、その前に、二人の人間がいます。そして二人共に、十字架を見上げています。二人の前には、他に何もありません。二人の内一人が、他の者の視線を妨げてはならなりません。進み行く道をふさいではなりません。そして、十字架の前に、何も置く必要はありません。 ○ 現実には、良かれと考えて置いた様々な大道具小道具が、十字架を見上げる視線を遮り、十字架に進む道をふさいでしまっているのではないでしょうか。 私たちが努力すべきは、十字架に至る道を飾り立てることではありません。むしろ、真っ直ぐに十字架に進むことが出来るように、何も置かないことが大切なのではないでしょうか。 これは、品物のことを言っているのではありません。 何かが教会に持ち込まれて、その結果対立が起こるとします。ならばそんな品物は要りません。対立に繋がるようなものは何も要りません。 十字架を見上げる視線を阻むものは何も要りません。しかし、そうしてだんだん退けていったならば、何も残らないかも知れません。教会はどんどん貧しくなるでしょう。教会に沢山の物は要らないでしょう。しかし、教会にはいろんな人が必要です。それが教会の豊かさです。 |