○ 今日の箇所は、所謂『主の僕の歌』の第3番目に当たります。『主の僕の歌』とは何かなどと話していたら、際限なく時間が要りますので、全て割愛し、とにかく順に読みます。 『主なる神は、弟子として』『弟子として』を口語訳聖書は『教えを受けた者』と訳しています。神と預言者との関係を師弟関係に準えています。『弟子として』とは、その師・先生に倣い、忠実だということでしょう。『主なる神は』、この預言者を『弟子として』選び用いられました。 ○『弟子として』は、次のように言い換えられています。『舌をわたしに与え』これもその師・先生に倣い、忠実だという強調でしょう。 この表現は、イザヤ書6章に描かれたイザヤの召命の物語を、想起させます。 少し長い引用になります。 『5:わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。 汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」 6:するとセラフィムのひとりが、わたしのところに飛んで来た。 その手には祭壇から火鋏で取った炭火があった。 7:彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」』 『舌をわたしに与え』とは、語るべき言葉を与えられたということであり、預言者として選び用いられたことと同じです。舌を与えられるとは、神の言葉を語ることです。 ○ 逆から言えば、預言者は自分の言葉・思いを語るのではないし、語ってはならないということでしょう。預言者の言葉は、『祭壇から火鋏で取った炭火』で『口に火を触れ』られた者、神によって清められた者の業です。『祭壇から火鋏で取った炭火』で『口に火を触れ』られ、初めて、主の御用に当たることが出来ます。そうでなければ、御用に当たることは出来ませんし、当たってはならないでしょう。 主の言葉を語る預言者と言うと、全く特別な人と聞こえるかも知れません。しかし、私たちも、神さまの言葉を語ります。つまり、聖書を声に出して読みます。 そのことを私たちは当たり前のように思っていますが、ユダヤ教、キリスト教の歴史を振り返ってみれば、決して当たり前のことではありません。 ○ 宗教改革以前には、聖書を読むことが出来るのは、その能力でも資格でも、ごく限られた聖職者の業であって、普通の信徒が聖書を読むことは、能力的にも資格的にも、出来ないことでした。宗教改革の結果、信仰・志のある者は、聖書を読むことが出来るし、声を出すことが出来るようになりました。これは、祈りについても、讃美についても、同じことが言えます。 大胆に言い換えれば、私たちプロテスタントの教会員は、まるで預言者のように、イザヤのように、神の言葉を与えられています。これは、大変なことです。 そもそも、先ほどのイザヤ6章の、少し前を読みます。また長い引用になります。 『わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。 衣の裾は神殿いっぱいに広がっていた。 2:上の方にはセラフィムがいて、それぞれ六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、 二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた。 3:彼らは互いに呼び交わし、唱えた。「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。 主の栄光は、地をすべて覆う。」 4:この呼び交わす声によって、神殿の入り口の敷居は揺れ動き、神殿は煙に満たされた。 5:わたしは言った。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。 汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は 王なる万軍の主を仰ぎ見た。」』 ○ イザヤはとてつもない体験をしました。見てはならないとされていたものを見ました。私たちは、正にこの体験をしているのです。礼拝に与るとはそういうことです。 旧約聖書の時代にはもちろんのこと、その後のユダヤ教に於いても、ローマカトリックに於いても、神を仰ぎ見る、その声を聞く、その言葉を与えられて読む、声に出す、そんなことは許されなかったのです。 逆に言えば、礼拝に与り、聖書を読み、聴き、祈り讃美の声を上げる私たちは、イザヤのように、その唇を、聖なる火で焼かれなければならない、とも言えます。 ユダヤ教のシナゴーグでは、聖書を読む人は、特別な訓練を受け資格を与えられた人です。ローマカトリックでも基本は同じです。何しろラテン語です。讃美も同様で、宗教改革以前には、讃美は特別の訓練を受け、資格を与えられた聖歌隊員にだけ許されることでした。 多くのプロテスタントの教会では、そのような制限はありません。 しかし、誤解されています。それは、誰でも喜楽に、聖書を読むし、讃美するし、お祈りするということでは、本来ありません。 訓練とか修行とか、そういうことよりももっと大事なことがある、つまり、イザヤの言葉のように、神の前にひれ伏し、罪を懺悔し告白する者だけが、聖書を読み、讃美し、お祈りするということです。 誤解を怖れず、もっと簡単な言い方をすれば、宗教改革以前には、技術や資格が問われた者が、宗教改革後は、技術や資格よりも信仰そのものが問われるということです。ローマカトリックは厳格で、プロテスタントは緩やかだという話ではありません。 ○ 4節の続き。ここには、預言者に与えられた言葉の内容が記されています。当然それは、預言者が人々に語るべき言葉、その意味内容に結び付くでしょう。 『疲れた人を励ますように 言葉を呼び覚ましてくださる。 朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし 弟子として聞き従うようにしてくださる』 『疲れた人を励ます』とは具体的にはどのようなことでしょうか。『疲れた者』とは、バビロン捕囚によって打ちのめされた者と解釈するのが普通です。しかし、私たち現代人がここを読む時に、特に限定する必要はないでしょう。何時の世にも『疲れた者』が居ます。『疲れた』という言葉では表しきれない程に、肉体的にも精神的にも打ちのめされた者が存在します。明日への希望などなく、今日一日を乗り切る気力もない者が存在します。 このような『疲れた者』に、預言者は語ります。預言者の舌は、時に人々を弾劾し懲らしめますが、それが究極の目的ではなく、むしろ慰め、励ますために用いられるのです。 ○ その次に、『言葉を呼び覚まし』とあります。時代の現状は、捕囚の民にとっては、神の言葉がないかのような状態でした。神の言葉がない、神の言葉が聞こえないことこそが、もっとも厳しい裁きであり、刑罰です。 しかし今、『朝毎に耳を呼び覚まし』とあります。この表現は、舌と対応しています。『朝毎に耳を呼び覚まし』神の言葉を聞くことが可能になりました。朝毎にとは、常に神の言葉に聞く姿勢を持っていることを言います。 5節も一緒です。 『主なる神はわたしの耳を開かれた』 預言者の耳が開かれ、神の言葉が届きました。赦しの始まりです。救いの始まりです。また、聞くことも、預言者の能力ではなく、全く神の意志に拠ることが表現されています。 更に、聞くとは、従うという行為をも表します。日本語でもそうですが、聞くとは従うと同じ意味を持ちます。 ○ 5節の続きを読みます。 『わたしは逆らわず、退かなかった』 聞くということは、このように具体的な、行為となります。神の言葉を抱いて忍び耐えることを意味します。 ○ 6節。これは全く意外な展開に聞こえます。預言者の耳が開かれ、神の言葉が届きました。それは赦しの始まりの筈です。救いの始まりと思われます。 しかし、 『打とうとする者には背中をまかせ ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。 顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた』 神の言葉が届かない救いなき時代が終わり、神の言葉が預言者の耳に届きました。預言者の舌が開かれ、預言者の言葉によって神の言葉が、人々に届けられました。 しかし、人々は、それを喜びません。歓迎しません。むしろ、退け、むしろ歯をむいて来ました。 『打とうとする』とは、肉体的苦痛を表しています。『背中をまかせ』と記されているのは、打つのは、同胞のユダだからです。背中を打たれるとは、味方に後ろから打たれることです。 更に『ひげを抜こうとする』とあります。ひげを抜くは、蔑みであり、精神的苦痛を表しています。人々は、神の言葉に聞かないだけではなく、これを小馬鹿にしたのです。 ○ 7節。 『主なる神が助けてくださるから わたしはそれを嘲りとは思わない』 6節に『顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた』とあるのに、7節では、『わたしはそれを嘲りとは思わない』と記されます。嘲りだけれども嘲りとは思わないと言うことでしょうか。人々は嘲るけれども、しかし、嘲られることはない、『主なる神が助けてくださるから』という理屈です。 7節は、神への信頼の表白です。また、神の救いの対象である、神の契約の対象であるユダの仕業だから、『顔を隠さずに』頬を任せると言うことでしょう。 ○ 7節後半。 『わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている わたしが辱められることはない、と』 人々が辱めようとしても、しかし、辱められることはないという意味です。人は神を辱めることは出来ません。神を辱めることは、己を恥ずかしめることに過ぎません。ですから、預言者をも辱めることは出来ません。 だから、預言者はどんな辱めを受けても、それで弱ってしまうことはありません。 ○ 8節。 『わたしの正しさを認める方は近くいます。誰がわたしと共に争ってくれるのか われわれは共に立とう。誰がわたしを訴えるのか わたしに向かって来るがよい』 先週の説教で申しましたように、国と国との戦争は、神と神との戦争だと考えられていました。強い神が弱い神を破り、従えます。 イスラエルの神は、バビロンの神に敗れた、バビロンの神の後塵を拝する存在に過ぎないと批判されます。また、バビロンの神は、偶像の神です。目に見える姿を持つ神です。そこで、姿を持つ神に敗れた偶像ではないイスラエルの神を、バビロンの人々はお前たちの神は姿を持たない神などではない、姿を持たないということは、そもそも存在しないのだと馬鹿にします。正に、背中を打ち、ひげを抜き、頬を叩いたのです。嘲り、唾を吐きかけたのです。 この侮蔑は、そのまま預言者に向けられます。イスラエルの預言者は、バビロンの預言者よりも弱い、真実を語ってはいないと。 ○ 偶像ではない姿を持たない神は、しかし、預言者と共に居て、預言の『正しさを認める』とイザヤは言います。預言者に使命を与えられる神は、使命故の苦痛を共に担って下さると言います。 ここで、先週の箇所、イザヤ46章を思い起こして下さい。お休みだった方には、説教のプリントもあります。先週の説教の一部を、割愛して繰り返します。 『彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/ 疲れた動物に負わされる』 バビロンが戦争に敗れました。敵軍が都に迫ります。そうしますと、人々は、ベルやネボを担いで、都を逃げ出します。と言うのは、ベルやネボが貴金属で出来ているからです。大きな財産です。 ○『彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/ 彼ら自身も捕らわれて行く』 偶像の神も、それを担いで来た者も、『かがみ込み、倒れ伏す』ことになります。何とも漫画的に滑稽です。神さまを担いで逃げる、しかし、その神さまの重さのために躓き倒れてしまいます。偉大な神さま、信心を集める神さまほど、重く、結局人を躓かせ、倒してしまいます。こんな愚かなことを、人間は繰り返してきました。今日だって、同様でしょう。 敵軍は、逃亡した者を、どこまでも追いかけます。何しろ、貴金属で出来た偶像を担いでいるのですから、どこまでも追いかけます。 結局捕まえられ、金の偶像と共に、敵の都に連れ行かれ、そして奴隷にされます。 ○ 偶像の神は戦争に負けそうになると、人間に担がれて逃げ出します。追い詰める者は、この金で出来た偶像を奪い、それを拝んでいた人々を撃ち殺します。 しかし、見えざる神、イスラエルの神は、このような時にこそ、一緒に居て下さり、イスラエルの傷みを一緒に背負って下さいます。それが、イザヤのメッセージです。 ○ 50章9節。 『見よ、彼らはすべて衣のように朽ち しみに食い尽くされるであろう』 華やかに見えながら、永遠に光り輝くように見えながら、偶像の神は、脆く儚いものに過ぎません。ここに望みを託すならば、自分が脆く儚いものになってしまいます。 ○ 10〜11節を拾い読みます。 『闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者』が、救いに至ります。 『自分の火の光に頼って/自分で燃やす松明によって』歩もうとする者は、『苦悩のうちに横たわるであろう』。自分の力を頼みとしてはなりません。 |