○ この譬話を、そのまま素直に読めば、「口先だけなら何でも言える。大事なのは行いだ」となります。しかし、このように解釈するには、二つの理由で躊躇を覚えます。 一つは、それでは行為義認論となりはしないかという点です。ルカによる福音書の著者は、医者ルカであり、使徒パウロの弟子です。その人が、使徒パウロの神学の根本である信仰義認論に抵触するようなことを書くだろうかと、疑問に思います。 まあ、これだけなら、信仰義認論と行為義認論は必ずしも矛盾しないと説明することは可能です。 もう一つの疑問。25節をご覧下さい。 『すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。 「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」』 この律法学者は、「何をしたら」と問うています。つまり、なすべき行いを問うているのです。知識を問う人に、「知識ではない。行いが大事だ。」と教えられたのなら分かりますが、初めから、何をなすべきかと、行いを問うている人に、行いが大事だと教えても、これは話になりません。 以上二つの理由だけでも、この譬話を、そのまま単純に、「口先だけなら何でも言える。大事なのは行いだ」と読むのは間違いだと言わなくてはなりません。 ○ この頃は、この譬え話を、差別の観点から説明することが流行しています。 サマリヤ人とは、被差別的境遇にある人の象徴であり、祭司とレビ人は、差別する側だと前提する所から、解釈が始まります。 結論は、被差別的な境遇にある者こそが、本当の愛を知っており、かつ、自由人であって、差別する側の人間は、実は愛を知らず、浄不浄というような間違った観念に縛られて生きている不自由な人間だとなります。 その通りかも知れません。このような説明は、理解できないでもありません。人を差別する人、差別しないと安心出来ない人は、実は押しつけられた価値観の奴隷となっている人で、不自由な生き方をしている人だと言うのは、当たっているかも知れません。 サマリヤ人が被差別的境遇にあり、祭司・レビ人は体制側だというのも、全くその通りでしょう。しかし、この解釈が正当なものであるか、イエスさまの意図に合致しているかと言えば、ちょっと、疑問を感じてしまいます。 強盗の被害に遭ったのは、ユダヤ人であってサマリヤ人ではありません。強盗傷害事件の被害者も、おそらくは加害者も、ユダヤ人なのです。 イデオロギーが先行して、その構図に聖書を当てはめて読むのは、甚だ危険だと思います。どうしても恣意的解釈になります。 ○ さて、同胞の者を助けることをしない、祭司・レビ人は、明らかに律法に違反しています。もし死んでいたとしても、埋葬することが律法上の義務でした。 交通事故で、このようなことが問題になります。ひき逃げをしますと、救護義務違反となり、単なる自己責任より遙かに重い責任を問われ、罪に定められます。 自分が起こした事故ではなく、たまたま通りかかっただけの場合には、この救護義務は発生しませんが、道徳的には、責められるでしょう。 『良きサマリヤ人の譬え』に当てはめるならば、祭司やレビ人の行為は、矢張り信仰的にも道徳的にも、そしりを免れないでしょう。 ○ これが傷付いたサマリヤ人を助けるかどうかという問題ならば、不浄の者に交わるなという律法に拘って、見殺しにしたということになります。つまり、人の命よりも、律法の字面の方が大事だという判断をしたことになります。イエスさまは、随所でこのようなファリサイ的律法主義を批判しておられます。 つまり、この譬話が差別問題を論じているとしたならば、配役を間違えていることになりはしないでしょうか。強盗に襲われた人がサマリヤ人だった方が、譬え話として形が整います。 何がどうと細かいことを言うまでもなく、そもそも、この時代に差別・被差別などということが、論点になり得たかということに疑問があります。この譬を差別問題から論ずるのは、結論を用意して聖書を読むからであって、謙虚に聖書に聞いた結果得られた答えだとはとても思えません。 百歩譲って、差別問題に基づいた解釈が成り立つとしても、それがこの譬の本来の主題であるとは考えられません。 ○ もっと穿った解釈があります。強盗とは、ゼーロータイ・熱心党の人々のことだそうです。彼らは、聖なる目的のためには手段を選びません。資金稼ぎの強盗も正当化されます。そういう特権意識を持っています。こういう人は何時の時代にも存在します。 同様に、祭司もレビ人も、特権意識に生きていて、聖なる御用を果たして、エルサレム神殿から帰る途中だから、この世的な瑣末な事には拘わらないのだそうです。こういう人は今日の時代にも存在します。 一方、サマリヤ人には何の特権意識もないから、当然のこととして、難儀している人に同情し、これを助けたというのです。 有力な注解書に出て来る有名な学者の説ですが、どうでしょう。私には、差別に基づく解釈の場合と同様に、結論を用意して読んだ結果としか見えません。強盗がゼーロータイを指すという説に、根拠は何もありません。少なくとも、この箇所の中にはありませんし、聖書の他の箇所にもありません。この時代のゼーロータイの実態がそうだったということだけを論拠にして、この解釈が成り立つとはとうてい思えません。 もし、この譬えが譬えではなくて、実話だとでも言うのなら、一つの可能性として、今のような解釈が成り立つかも知れません。しかし、始めっから、譬え話なのです。 イエスさまが、強盗とゼーロータイを重ねて、ここに描き出すというようなことがありますでしょうか。 ○ 今までの説明で、この譬が決して単純なもの、分かり易いものではないということは、ご理解いただけたと思います。 常に申しますように、イエスさまの譬は、決して理解し易いものではありません。それは、むしろ、聖書自身が言う通りに、躓づきの石・妨げの岩なのです。 教会学校の聖書物語のような解釈は、一度、捨てていただかなくてはなりません。 ○ さて、それでは改めて、どう読むのか。どう読んだらいいのか。やはり、聖書に聞くしかありません。聖書そのものを読みたいと思います。 25〜28節までは、マルコによる福音書とおおよそ共通しています。おおよそと言いますのは、10章の『富める青年の話』と12章の『一番大切な戒め』とが複合していると見えるからです。分量も違いますし、文脈も違いますが、内容的にはそんなに違いはありません。おおよそ同じ、殆ど同じと言っても良いかと思います。 決定的な違いは、29節にあります。 『しかし、彼は自分を正当化しようとして、 「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。』 この29節によって、この出来事は、マルコ福音書にはない展開に入り、マルコ福音書とは全然違った主題を持ちます。 当然、この29節の上にこそ、この譬の主題が盛られています。 ○ 29節の律法学者の問いは、問いの形式を持ってはいても、実際には反論です。 譬を話し終えられたイエスさまは、逆に、律法学者に質問されます。36節。 『さて、あなたはこの三人の中で、 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』 これも、問いの形式ではあっても、実際には律法学者の問いに対する答えです。そして、最早、議論は決着し、律法学者はグウの音も出ません。 ○ 縮めて言えば、この譬は、「隣人とは誰か」という問いに対する答えです。当然、主題は「隣人とは誰か」です。 しかし、もしここで、私たちが「それでは隣人は誰か」と問うならば、その答えは明らかにサマリヤ人です。そして、今度は、それではサマリヤ人とは誰ですかと問うて行くならば、私たちは、またもや進むべき道を誤ってしまいます。またもや、差別問題にはまり込むかも知れません。ローマ帝国とユダヤの関係、そしてサマリヤとの関係と、深みにはまって、革命家イエスなどとという見当外れの答えに行く着くかも知れません。 ○「隣人とは誰か」と問うことが、そもそもの間違いなのです。問い自体が、根本的に間違っているのです。 何故ならば、「隣人とは誰か」と問うことは、即ち、私にふさわしい隣人を選ぶことに過ぎないからです。それが間違いなのです。 「問いそのものが退けられている」というのは、分かり易い論理ではないかも知れません。しかし、福音書には、このように問いそのものが退けられるという類型に分類される出来事または譬話が、頻繁に出て来ます。 ○ さて、この譬話の解釈について、一応結論めいたことを申しましたが、それで、この譬が理解し易いものになったかと言うと、全然そうはなりません。依然として、私たちにとって、躓づきの石・妨げの岩なのではないでしょうか。 「孟母三遷の教え」というものがあります。「朱に交われば赤くなる」という諺もあります。私たちには、隣人を選ぶ権利があるのではないか、子供たちのことを考えれば、隣人を選ぶ義務さえあるのではないか。そんな風に考えてしまいます。 これがまた、脱線です。 「選ぶ」ことは、神さまの業です。私たちは、選ぶ者ではなくて、「選ばれた者」なのです。「選ばれた者」と言うと大変偉い者のようですが、「罪人の中から選ばれた者」に過ぎません。 「選ばれた者」と言うと、キリスト者ではない人には、思い上がっていると聞こえるかも知れません。しかし、「選ばれた者」の逆は、選ばれなかった人ではありません。「選ばれた者」の逆は、選ぶ人なのです。 ○ このことは、聖書の一大テーマである『裁く』『裁かれる』と全く重なります。私たちキリスト者は、神によって裁かれる人です。裁かれることここそが、正しい裁きを受けことこそが、救いに繋がります。 世の人は、神を裁く人です。イエスさまを十字架に付け裁いた人です。 と言っても、簡単には納得して貰えないかも知れません。納得して頂くためには、マルコ福音書全体を読まなくてはなりません。 しかし、一例を挙げます。世の人は、「何々の神社には、何々の御利益がある」と言います。「これには何神社が効き、何々には何神社が効く」と言います。正に神社を裁いています。裁く、つまり、振り分けています。人間が、神社を適宜使い分け、利用します。本当に役立つかはともかく、人間が神社を拝んでいるようで、実際には、人間が神社を裁いています。神社の上に君臨しています。 このような意味合いとは真逆が、キリスト者は「選ばれた者」だという意味です。 ○「わたしの隣人とは誰ですか」という問いそのものが退けられていると申しました。退けられているのは、この問いだけではありません。そもそも、25節の「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」という問いが、退けられているのです。 私たちは。「何事かをなすことによって、永遠の生命を得られるのではありません。即ち、救われるのではありません。」唯、イエスさまの十字架の贖いに拠るのです。選びに拠るのです。このような意味合いで、私たちは、「選ばれた者」であって、「選ぶ者」ではありません。 ○ 自分を何か優れた者のように思い込んで、私にふさわしい隣人は誰だろうと考える人は、イエスさまの十字架を理解しない人です。逆に、被差別的な境遇にある人を隣人としなくてはならないと考える人も、隣人を選ぶ者であり、イエスさまの十字架を理解しない人だと言わなくてはなりません。 ○ 最後に、今日の譬話から私たちが読むべき結論を言います。今まで難しい話だった割には、単純と言えば単純です。 隣人とは、今、あなたの隣に居る人のことです。それだけです。 これで、イエスさまの譬は、簡単なものになったでしょうか。ますます、困難なものになったかも知れません。隣人を愛すること、今、私の隣に居る人を愛することこそ、大変に困難なことなのです。隣に居る人を愛することが出来ないから、もう少し遠くに、或は、体臭や体温を感ずることが出来ない程ずっと遠くに隣人を求めることが多いのが現実なのです。私たちは、一所懸命に、隣人を選ぶことをしているのです。 ○ 差別・人権問題を論ずる人の、何と、隣人を憎悪し、その人生を価値観を全く否定していることか。同様に、かく言う私も、差別・人権を論ずるキリスト者たちに如何に冷淡なことか。 隣人を愛することは至難の業です。律法は、私たちに、この至難の業を求めているのです。 しかし、同時に聖書は、イエスさまの十字架の愛に出会った者にとって、このことは、決して不可能事ではないと教えているのです。 ○ 37節。「あなたも行って同じようにしなさい。」 隣人を評価し、前別するのではなく、隣人を選ぶのではなく、神によって、選ばれ、隣人の所に使わされている、イエスさまの理解は、かくのごとしです。 |