○ マタイによる福音書の所謂『主の山上の説教』を連続して読んでいます。昔は『山上の垂訓』と呼ぶのが普通でした。『山上の垂訓』はルカによる福音書にもありますが、厳密には『主の山上の説教』ではありません。敢えて言えば『主の平地の説教』です。『平地の垂訓』では、ちょっと語呂が悪くなって、誰もそうは呼びません。 私たちはあくまでも、マタイによる福音書の『主の山上の説教』を連続して読んでいます。 しかし、事の発端は、ルカによる福音書11章1節にあります。 『イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人が イエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、 わたしたちにも祈りを教えてください」と言った』 この弟子は、イエスさまのお祈りを聞いていて何かしら感じるものがあったのでしょう。それは結構なのですが、『ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください』と願いました。 祈りを教えて貰う、この表現に抵抗を覚えます。祈りの何を教えて貰うのでしょうか。言葉遣い、調子、その基本となる精神、まあ、確かに教えることが出来るかも知れません。習うことが出来るかも知れません。 しかし、祈りとは、授業のようにして教え、教わるものではないように考えるのですが、いかがでしょう。 ○ ルカ福音書11章5〜8節。 『5:また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、 真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。 『友よ、パンを三つ貸してください。 6:旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7:すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけな いでください。 もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。 起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8:しかし、言っておく。 その人は、友達だからということでは起きて 何か与えるようなことはなくても、 しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう』 8節の、『しつように頼めば』、これが意味することは、第1に、私たちは、本当に心から願い求めているのかということです。不平不満を言うことと、願い求めるということとは、話が別です。 ○ 今の箇所と言いますか、譬え話は『主の祈りの直後にあります』しかし、ルカ福音書にはありません。そして続く9節は、マタイ福音書7章7節以下に相当します。 7節をご覧下さい。 『「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる』 ルカ福音書の『しつように頼めば』とは、しつこくとか諦めずにと言うよりも、本気になって『求め』ることを意味します。『見つかる』と思って『探』すこと、『開かれる』と信じて、『門をたた』くことです。 本気になって『求め』ることをせず、『見つかる』と思って『探』すことをせず、『開かれる』と信じて、『門をたた』くことをせず、『どのように祈ったら叶えられるのでしょうか』と問うことは、愚かなことなのです。 お祈りの勉強をする前に、なすべきは、本気になって『求め』ること、『見つかる』と思って『探』すこと、『開かれる』と信じて、『門をたた』くことでしょう。 そのことに真に取り組めば、自ずと祈りの言葉が授けられるのです。 ○ 8節。 『だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる』 真にこの通りです。 しかし、これをしない、していないのに、『わたしたちにも祈りを教えてください』と弟子たちは言います。 このルカ福音書11章1節に相当する記述は、マタイ福音書にはありません。マタイでは、主の祈りのずっと前の所から、祈りの在り方について、イエスさまが語っておられて、その中で、今日の箇所に相当する部分に入って行きます。 そも導入部分が違います。しかし、双方の導入部分の主題は一つことのように思います。 マタイでは、偽善者の祈りが取り上げられ、鋭く批判されています。偽善者の祈りの何が批判されているのか、過去数週の説教で既にお話ししておりますから、詳しくは申しません。簡単に結論だけ申しますと、偽善者の祈りが、技巧に走っていて、中味がないことが批判されています。 マタイ福音書6章5節以下。 『祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。 偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。 はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。 6:だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、 隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。 そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。 7:また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。 異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる』 これ程、無視されているイエスさまの言葉は他にありません。イエスさまは、こんなにも明確に、断定的に言っておられる、しかし、祈りを技巧だと考える人が多いようです。 『人に見てもらおうと』して祈るな、神さまに向かって祈るのであって人に向かって祈るな、綺麗な言葉を使う必要はない、飾り立ててはならない、長い祈りが立派な祈りだと思ってはならない。イエスさまの言葉は、はっきりとしています。誤解の余地はありません。 私たちは、主の祈りを唱え続けている私たちは、このイエスさまの言葉を守らなければなりません。 ○ さて、10節をご覧下さい。 『魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか』 ルカ福音書では、11章11節。 『あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか』 これは、一寸分かり難いかも知れません。 しかし、この魚を、鰻や穴子と考えれば、良く分かります。まあ、簡単に言えば似て非なるものと言うことです。 『魚を欲しがる子供』という表現も、『魚の代わりに蛇を』ということもあまりしっくりと来ませんが、あくまでも譬喩です。似て非なるものと言うことです。 このことは、12節でいっそう強調されています。 『また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか』 卵と蠍では、全く似ていません。 マタイ福音書の7章9節では、 『あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか』 パンと石が、譬えに用いられています。これならば、魚と蛇以上に、似て非なるものです。譬えとしてぴったりです。 しかし、ルカは、敢えて、似てもいない、卵と蠍としたのです。 それは、似ているということよりも、違いを強調したのでしょう。 ○ ここで、私たち自身が問われているのです。どのように祈ったら良いでしょうかと問う、その私たち自身が問われているのです。 私たちは、本当に卵を求めているのか、そうではなくて、蠍を求めているのではないのか、そのように問われているのです。 似て非なるもの、そのどちらを願い求めているのかと、問われているのです。 ○ 7〜12節で、繰り返し述べられていることは、祈る者の姿勢です。真心から祈っているのか、ただ、自分の不平・不満、時には怨み辛みを並べ立てているのではないのか、そういうことを振り返って見なくてはなりません。 信頼して、聞いて頂けると信じて祈っているのか、そのことが問われているのです。信仰のない祈りは、もし、それに何かしらの効果があったとしても、祈りではなくて、呪文です。魔術の言葉です。まあ、効果はないでしょうが。 祈る時に自分を省みているのかが、問われています。自分を省みることのない祈りは、どんなに真剣だったとしても、祈りではなくて、怨み、そねみ、怨嗟の叫びです。 ○ ルカ福音書11章13節では、突然のように、聖霊のことに触れられます。 『このように、あなたがたは悪い者でありながらも、 自分の子供には良い物を与えることを知っている。 まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる』 聖霊のことを直接に考えた方が分かり易いかも知れません。 私たちは、祈り求めます。何かしらが、叶えられるようにと、祈り求めます。 その願いを叶えるために、聖霊を求めます。 しかし、聖霊を呼び出すつもりで悪霊を呼び出してはなりません。 ○ マタイ福音書では、ルカ福音書とは違う方向に話が進みます。7章12節。 『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。 これこそ律法と預言者である』 聖書研究祈祷会でマルコ福音書を読んだ時に申しました。直接には3章です。4節だけを引用します。 『そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行 うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた』 普通の表現ならば、『「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、』それとも安息日だから善も行わないのか、の筈です。しかし、イエスさまは敢えて、『善を行うことか、悪を行うことか』と問いました。それは、『善を行う』機会が与えられたのに、それを行わないのは、『悪を行うこと』に等しいからです。 同様に、『命を救うことか、殺すことか』つまり、機会が与えられたのに命を救わないのは、見殺しにする、殺すことに等しいからです。これがイエスさまの倫理の教えです。 ○ この論法で考えれば、自分が『人にしてもらいたいと思うことは何でも』行うべきです。行わないならば、それは、嫌がことをする、悪いことをするのに等しいと、イエスさまは仰います。 そして、そも人は他の人に何を求めるのか。何をして欲しいのか。それは関心を持って貰うことです。愛して貰うことです。 だから、他人に無関心であることは、単なる無関心には終わりません。無関心は、他人を傷つけることに等しいです。 ○ イエスさまが教えられた戒めは、『あなたの隣人を愛しなさい』でした。聖書で一番大切な戒めとして上げられています。ですから、律法を突き詰めれば、『だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である』となります。 ○ マタイ福音書7章13〜14節。 『「狭い門から入りなさい。 滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14:しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」』 突如として、天国に入る試験は難しい、倍率が高いという話になるはずがありません。 この言葉も、当然ながら、7章1〜12節の文脈で考えなければ成りません。『主の山上の説教』の文脈で考えなければ成りません。『主の山上の説教』は何を説いて来たでしょうか。もっとも強調されてきたのは何だったでしょうか。 それは愛です。 『狭い門から入りなさい』とは、天国への道は愛にこそあるということでしょう。とても簡単なようにも聞こえます。愛という言葉を知らない人はおりません。どんな仕方であれ、人を愛したことのない人はいないでしょう。 しかし、『主の山上の説教』が繰り返し説いて来たように、真の愛は、『あなたの隣人を愛しなさい』の愛です。しかし、私たちは隣人をそのまま隣人として受け入れず、自分にとって都合の良い人だけを、隣人として受け入れます。まして『汝の敵を愛せよ』、これが『あなたの隣人を愛しなさい』の究極だとすれば、『隣人を愛しなさい』の愛は、至難の愛です。 ○『滅びに通じる門』とはこの真逆でしょう。 つまり、憎しみです。人は何と容易に他人を憎むか。或いは無関心になれるか。実に簡単なのです。人を嫌う理由、憎む理由は、実に簡単に見つかります。憎むことを正当化出来ます。憎む理由を人にも自分にも説明できます。説得力をもって説明できます。 しかし、それは『滅びに通じる門』なのです。神の国には通じていません。 |