日本基督教団 玉川平安教会

■2020年7月26日

■説教題 「聖所で幻を見た
■聖書  ルカ福音書 1章5〜25節 


○ この不思議な出来事が起こったのは、エルサレム神殿の中です。しかも、9節に述べられていますように、聖所の内です。

 聖所とは、エルサレム神殿に於ける祭儀を執り行う所、つまり、動物を犠牲として捧げる場所、エルサレム神殿の中心の中心です。一番簡単に言えば、正に神さまがおられると考えられていた、その場所です。普通の人間はここに入ることは、絶対に許されません。

 ちょっと諄いかも知れませんが、大事な点ですから、念を押します。聖書の最後の頁をご覧いただきますと、エルサレム神殿の見取り図と申しますか、神殿の地図があろうかと思います。エルサレムは城壁で守られた城砦都市です。その中にまた壁があります。そして壁に囲まれて神殿の建物があります。

 それ以上詳しい見取り図が載っている聖書もあります。壁の中に入った所が異邦人の庭と呼ばれる場所です。名前の通り、ここまでは異邦人でも入ることが可能です。例えば、使徒言行録3章の舞台となる麗しの門なども、この異邦人の庭に入るための門です。

 神殿の建物の中に、ユダヤ人の庭があります。つまり、ご婦人も入ることが許されます。その奥に男性でなければ入ることの出来ない場所があります。

 そして、更に聖所があります。ここには、一般人は入ることが出来ません。犠牲を捧げるために、祭司だけが入ります。更に、至聖所があります。


○ ここに、ザカリアという人物が登場します。この人は、マリヤさんの親戚に当たります。いとこの夫、私たちの感覚ではあまり近い親戚という感じはしませんが、当時のユダヤ人にとっては、ごく近い関係でしょう。それはともかく、この人は、祭司職にあります。アビヤの組の祭司と記されています。アビヤとは何者かという点は無視して良いと考えます。大事なことは、アビヤの組という表現そのものです。

 当時、エルサレムに2000人もの祭司がいたとも言います。これらの祭司が、13の組に分かれていまして、月毎に当番で神殿のご用に当たっていたのだそうです。その組の中から、9節にありますように、籤をひいて当たったザカリア一人だけが、至聖所に入ったのです。


○ つまり、ザカリアが当番となって至聖所に入ることは、滅多にないことでした。

 10節にありますように、彼は、香をたき、そしてイスラエルの平和を祈っていたに違いありません。祭司として当然の努めです。しかし、どうもそれだけではないようです。

 13を見ますと、このように記されています。

 『あなたの願いは聞き入れられた』

 天使がこのように言うのですから、ザカリヤには願いが有ったことになります。つまり、ザカリアは、祭司として公の祈りをしていただけではなくて、もう一つ個人的な祈りを携えて、至聖所に入っていたことになります。そういうことが許されるのかどうか、悪いことなのか、私には分かりません。しかし、ザカリアが、切実な願いを持っていて、どんな時にも、その祈りが頭から離れなかったことは確かです。


○ その祈りとは、切実な願望とは何であったのか。

 ザカリアについては、ここに記されていることしか分かりません。

 5節に彼の名前と身分そして夫人の名前と出自が簡潔に記されています。そして、6節、

 『二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった』

 それにも拘わらず、7節

 『しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、

   二人とも既に年をとっていた』

 『神の前に正しい人で…非のうちどころがなかった』その後に『しかし』と記されています。お子さんのないご夫婦がおられたら耳障りな表現かも知れません。しかし、ルカ福音書は『しかし』と表現しています。

 つまり、この当時のユダヤ教の考え方では、子どもが生まれることは神さまの祝福のしるしであり、子どもがないということは、即ち、この祝福が与えられないということになってしまったのです。まして、祭司です。子どもがいないということは、この夫婦にとって、単に寂しいという問題ではなくて、自分の信仰が・自分の存在が否定されるような辛い現実だったのです。


○ だからこそ、当番で籤に当たって、聖所で香を焚くという重大任務に就く時にも、ザカリアの思いから、子どもが欲しい、神さま与えて下さいという祈りが、去りません。今は祭司として、エルサレムのことを、ユダヤ人全体のことを祈るべき時であって、個人的な祈りの時ではないと考えていたことでしょう。しかし、聖所で神さまの間近にいて、子どもが与えられたならばという思いを、どうしても抑えることが出来ません。

 

○ 10節を見ますと、

 『香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた』

 他の誰も中に入ることが出来ない、そういう特別な場所に、神聖な場所に、主の御使が、突然現れました。

 ザカリアは、どういう反応を見せたでしょう。この頃の言葉で言えば、どういうリアクションを取ったでしょうか。12節。

 『ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた』とあります。

 まあ、分かると言えば分かります。びっくりするのは仕方がないかも知れません。何しろ天の御使を見たのですから。勿論初めてのことでしょう。しかし、そこは神殿の聖所の中です。神さまがおられる所です。そこに天の御使いがいたら、不思議なのでしょうか。


○ さて、御使ですから、当然、メッセージを持っていました。13〜17節までがそうです。何より、最初の13節。

 『「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。

   あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい』

 待望の子どもが与えられるという、実に、ありがたいメッセージでした。

 さて、今度は、ザカリアは、どういう反応を見せたでしょう。どういうリアクションを取ったでしょうか。18節。

 『そこで、ザカリアは天使に言った。

 「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。

  わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」』

 何ということでしょうか。とうてい信じられないと、反発したのです。

 いや、反発ではなかったも知れません。しかし、途惑い、素直に聞くことが出来ずに、反論したのです。

 確かに、容易に信じがたいメッセージではあります。常識を越えています。

 しかし、ザカリヤはもう既に、御使の姿を見、その声を聞いています。既に奇跡に与っています。奇跡を体験しているにも拘わらず、それでも信じられないと言うのです。


○ そもそも、ザカリアは、それならば何故、何を祈っていたのでしょうか。

 決して叶えられない祈りであることを知っていて、祈っていたのです。叶えられない祈りであるからこそ、祈っていたのかも知れません。私たちにもこういうことがあります。しかし、そこは神殿の聖所の中です。神さまがおられる所です。そこ出祈ったことが叶わないなら、他のどこで叶うのでしょうか。

 私たちは、適うと信じて祈るのではなくて、まあ駄目だろうと思いながら祈ります。是非とも叶えて頂きたいと願って祈るのではなくて、駄目で元々、そんな気持ちで祈ります。駄目だからこそ、祈ります。つまり、既に自分では手も足も出ないからこそ、祈るのです。


○ さて、少し話題を変えます。何だか、何時大地震が起こっても不思議はないようなことが言われています。そのような警告が出てからもう10年以上経っています。

 もし、今、地震が起こったら、或いは火災が起きたなら、それが礼拝の最中に起こったら、そんなことを考えさせられます。

 例えば説教中であったら、慌てずに、ゆっくりと対応する、場合によっては避難して下さいと案内します。何事もなかったかのように説教を続ける必要はありません。それは厳格ではなくて、ただ愚かなだけだと考えます。

 玉川平安教会では、避難訓練はしていますが、新しい人の中には勝手が分からない人もありますでしょう。避難経路の説明をします。

 玉川平安教会の場合は単純です。火災ならば、玄関から逃げるか、中庭に逃げるかです。地震ならば、耐震工事が終わった教育館が安全でしょう。中庭も安全性が高いと思います。

 冷静に対応すれば何とかなりますでしょう。

 もし慌てて、牧師が真っ先に逃げだしたりしたら、もうどうしようもありません。


○ ところで、地震や火災には対応出来ても、御使が現れたら、どうなることでしょう。

 …私にとっては、初めての体験ですから、腰を抜かすかも知れません。逃げだすかも知れません。何より、ザカリアのまねをして抗弁を始めるのではないでしょうか。

 例えば、伝道活動が伸びますようにと絶えず祈っている訳ですが、御使が現れて、その願いは聞き届けられるであろう、大胆に宣べ伝えなさい。新しい集会を始めなさいなどと託宣が与えられたら、「いや、そうは仰いましても、今の世の中の情勢はなかなか厳しくて、資金のことも考えなければなりませんし」などと言い訳を始めてしまうかも知れません。


○ 若い牧師たちと話していて、自分は何も言わない方が良いと思うことがあります。新しい伝道ビジョンとかの話です。若い牧師からいろんなアイデアが出されます。

 その殆どについて、私には自ら試みた体験があります。そして、大抵上手くは行きませんでした。失敗体験、挫折体験だけがタップリあります。ですから、皆さんそう仰いますけどもと、反論すること反対することは簡単です。

 しかし、それでは若い人の意欲を挫くだけです。私のような年齢経験の牧師がなすべきことは、若い牧師にアドバイスすることではありません。まして、なかなか簡単ではないないよと、意欲をそぐことではありません。

 自分がかつて失敗したことならば、なおさら、知ったかぶりをしないで、応援して上げることです。手伝い出来ないならば、献金することです。献金もしない手伝いもしないで、上手くは行かないよと、悲観的な預言をすることは、ベテランが一番してはいけないことだと思います。

 それは教会にも全く当て嵌まります。ベテランの信徒は若い人の意欲を潰してはなりません。


○ ザカリヤへの幻は、聖所の中で与えられました。もし、教会の中で、教会という建物の中で、教会の礼拝の中で与えられた幻ならば、しかしと言ってはなりません。

 神さまに与えられた幻であると信じて働くかどうかだけです。それが、まあ、とたんに人間的な言い回しになりますが、成功するか失敗するかの分かれ目です。


○ 19〜20節を読みます。

 『天使は答えた。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、

   この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。

 20:あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。

   時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」』

 厳しい罰が下されました。祭司ですから、口が利かなかったら全く仕事にはならないでしょう。『喜ばしい知らせ』福音を信じなかったら、語ることを禁じられるのです。

 福音を信じなかったら、福音を語ることは出来ないでしょう。


○ もっとも、ザカリアにとって、話をすることの出来ない日々は、辛いよりも、期待に充ちた時だったでしょう。

 1章57節以下をご覧下さい。此処には、ザカリアの物語の後半部分が記されています。あまりに長くなるので読みませんでしたが、この箇所も併せて、一つの物語です。

 63〜64節だけ読みます。

 『父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。

 64:すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。』


○ 社会も教会も、縮こまって生きて行かなくてはならないような、この時代に、こんな時代だからこそ、伝道の幻が与えられますようにと祈りたいと思います。

 幻が与えられたならば、主の御心ならば必ずなると信じて働くばかりです。ザカリアが始めて幻に触れた時のように、主の御言葉を拒んではなりません。人間の思いで、主の御言葉を裁いてはなりません。

 『喜ばしい知らせ』福音を信じて、喜びに溢れて働くならば、必ず、私たちの思いを超えた、恵みが与えられるのです。


○ 昔、『トムとジェリー』というアニメがありました。今でも時々再放送されているようです。このアニメの中でしばしば繰り返される場面があります。

 ネズミのジェリーを追いかけていた猫のトムが、勢い余って、屋上の壁を通り越して、空中を走り続けます。間もなく、自分が屋根の上にはいないことに気付き、気付くと途端に、落下し始めます。実際には気が付こうが付くまいが、空中に飛び出した瞬間に落下が始まるのですが、『トムとジェリー』では、しばらくは空中を走り続けます。そして気が付くと落下してします。

 この話はもしかしたら聖書に起源を持つのかも知れません。マタイ14章26〜33節。

 『弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖  のあまり叫び声をあげた。

  27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

  28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩い     てそちらに行かせてください。」

  29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエス    の方へ進んだ。

  30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と  叫んだ。

  31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。   32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

  33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ』


○ 主イエス・キリストの父なる神さま、私たちは、自分の思いを、主の御心に優先させてしまう者です。自分の小さな物差しで神さまを測ろうとする愚かな者です。主の御心が示されても、脅えてしまい、本当には聞こうとしない、見ようとしない者です。

 どうか、私たちの頑なな石の心を柔らかくし、閉ざされた耳を目を開いて下さい。口が開けて舌がゆるみ、語り出して神をほめたたえることが出来ますように。

 教会の伝道の幻があなたによって用いられますように。

 私たちが、唯主に仕える喜びをエネルギーにして働くことが出来ますように。コロナ騒動の中でも、この礼拝が与えられたことを感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。