○ 申命記そのものについて、詳しいことを解説している時間はありません。今日の箇所を読むのに必要な前提だけを申します。 申命記は、モーセの時代に起きた特別の出来事、神の啓示を、もっと後の時代になってから、振り返り、再解釈し、新たに言葉にしたものです。そして同時に、過去の歴史の再解釈は、過去の出来事の現在化と言いますか、神さまが今、私たちに語っておられることは何であるのかと聞くことになります。 このような申命記の特徴が、今日の箇所には色濃く出ているように思います。 ○ 11節。 『わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、 遠く及ばぬものでもない』 今、モーセ自身が自分の体験を振り返って、説明し直しているという格好ですが、これを本当にモーセが書いたと考える学者は殆どありません。 何れにしましても、この申命記が読まれた時代の人々にとっては、モーセが十戒を授けられた出来事は、遠い遠い昔の出来事であり、伝説の彼方、自分たちの生活には関係ない、そんな気持ちがあったと想像します。 私たちも同様です。あまりにも遠い、あまりにも私たちの現実からかけ離れた世界です。あまりにもかけ離れて遠いということは、当然、難しいということにもなります。二重の意味で難しそうです。読んでも理解することが困難だし、何より、記されていることを行うのが難しいのです。 『わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、 遠く及ばぬものでもない』 決して、『むずかしいものではなく、遠遠く及ばぬものでもない』、つまり、あなたたちの現実と共にあるものだと、著者は強調します。 私たちは、申命記やレビ記、民数記について、漠然とながら、やたらに細かい律法が記されている面白くもない書物で、しかも、現代には通用しない、そんな風な印象を持っています。しかし、本当にそうなのでしょうか。それで良いのでしょうか。『むずかしいものではなく、遠遠く及ばぬものでもない』、このように明言されている以上、一度、偏見を持たずに読まなくてはなりません。 ○ 12節。 【それは天にあるものではないから、「だれかが天に昇り、 わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」 と言うには及ばない】。 『それは天にあるのではない』。人々はこれを、天にあるかのように考えていました。少なくとも、そのように取り扱います。 日本人なら誰でも、西遊記の話を知っています。要するに、有難いお経を得るために、幾多の試練をくぐり抜けて天竺まで旅する話です。遠い遠い天竺まで赴かなければならないからこそ、有難いお経なのでしょう。 遣隋使、遣唐使も同じことです。年月を費やして、命がけで獲得したお経だから大切なのです。遠くにあるから値打ちがあります。 ○ また、日本の宗教ではままあることです。大事なご本尊、宝物だからと、倉の中に深く仕舞い込んで、やたらと人には見せない、お寺や神社でも、特別の人でなければ触ることなど出来ません。そうしている内に、行方不明になって、大掃除の時にひょっこり何百年ぶりかで発見されたなどというようなことになります。これは、本当にあった話です。 まあ、そこまで極端でなくても、例えば聖書を、大事に大事にしまっておいて、頁をめくることもなく、何年も経ってしまうなどということがあります。 ユダヤ人は、律法の勉強をします。させられます。しかし、これは、見方を変えれば、神の言葉、大事な大事な律法を自分の目で直接に見ることが許されているということです。出来るということです。直接に手で触り、調べたり出来るということです。他の宗教ならば、特別の祭司にしか許されないようなことが、自由になっているのです。 宗教改革も同様です。それまで一部の聖職者しか見ること触ることが出来なかった聖書に、誰でも触れることが出来る、読むことが出来るようになったのが、宗教改革の最大の意義です。 ○ 13節。 【海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、 わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」 と言うには及ばない】 主旨は12節と全く同じです。 深い教えだという表現をしますが、ややもすれば、あんまり深くて手が届かないし、見えない、自分には無関係だということになりかねません。しかし、無関係どころではない。とてつもない深さであっても、自分で調べることが出来るのです。 常に座右に置かれているのです。むしろ、それが命じられているのです。 申命記6章6〜9節。 『今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、 寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい』 なければならない、確かにそのように述べられていますが、これは、見方を変えれば、何々することが出来るということにもなります。 ○ 福音書には、イエスさまに教えを問う人が出てきます。その典型は、マルコ10章の富める青年であり、12章の若き律法学者です。彼らは、『永遠の生命を得るためには何をなすべきでしょうか』或いは、『律法の中で最も大事な戒めは何ですか』と、聞きます。これに対するイエスさまの答えは、決して、その答えを見出すために、天に行きなさいとか、海に潜りなさいとか、遠い遠い異国に旅しなさいとかではありません。 そうではなくて、イエスさまの答えは、『永遠の生命を得るためには何をなすべきでしょうか』に対しては、 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』 でありました。これは、青年が言うように、ユダヤ人なら誰もが知っていて、子どもの頃から守って来た戒めです。何の新しさもありません。 『最も大事な戒めは何ですか』に対しては、このように答えられます。 【第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。 主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 30:心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 31:第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これより大事ないましめは、ほかにない】 この出典は申命記の6章、先程の箇所の直前にあります。以前に読みました。これこそ、ユダヤ人なら、誰でも知っているものです。 ○ 人々は、イエスさまに奇跡を求めたり、怪しげな神秘を求めたり、どんな学者も及ばない目新しい学問を求めたりします。しかし、イエスさまはそれらの問いには、お答えになりません。 むしろ、誰でもが知識としては知っていることを、改めて教えられました。 ○ 申命記30章14節。 『御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、 それを行うことができる。』 昨年エレミヤ書1章を読みました。 神さまからの召命に、『ただ若者にすぎず』と抵抗するエレミヤに対して、神さまは次のようにいわれます。 『そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、 「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた』 『見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた』このことこそ、決定的です。 神の言葉がエレミヤの口に入れられたのです。エレミヤが語るのは、エレミヤの体験や信仰や、まして、主義主張ではありません。 イザヤに対しても、神さまは仰います。 『この時セラピムのひとりが火ばしをもって、祭壇の上から取った燃えている炭を手に携え、 わたしのところに飛んできて、 7:わたしの口に触れて言った、「見よ、これがあなたのくちびるに触れたので、 あなたの悪は除かれ、あなたの罪はゆるされた」。 8:わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。 だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、 「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」』 ○『この言葉はあなたにはなはだ近くあって、あなたの口にあり、 またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる』 私たちが、何か修行を積んで、新しい知識を獲得したのではありません。発見したのでも、発明したのでもありません。 誰も、天国に旅して帰って来た者はいないし、地獄から生還した者もいません。私たちの神の国についての知識の全ては、神さまから教えられたもの、授けられたものです。信仰そのものが、神さまから教えられたもの、授けられたものです。 だから、また、神さまに与えられた戒めを守ことが出来ないということもあり得ません。 ○ 現代は規範のない時代だと言われます。世の中には、当たり前ということが無くなってしまいました。何故、盗んではならないのか、何故人を殺してはならないのか、そんなことさえも明確ではありません。何故と問う全てのことが曖昧です。 全てが曖昧で不確かな中で、お金と力だけが確かで正義みたいな風潮がはびこってしまいました。まあ、何も現代に限らない、何時でもそうだったという見方もありましょうが。 ○ 私たちキリスト者はどうでしょうか。ちょっと事情が違う筈です。何故なら、私たちには、絶対の規範が、戒めが存在するからです。 それは、例えば、十戒です。少なくとも、イエスさまが十戒を更に二点に要約された言葉です。先ほど引用した所です。 【第一のいましめはこれである、『イスラエルよ、聞け。 主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。 30:心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。 31:第二はこれである、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。 これより大事ないましめは、ほかにない】 ○ ところが、この戒めさえも、絶対ではないと考える人がいます。確かに、現実の生活に適応しようとすれば、いろいろと難しいことがあります。 律法の書を読むのは大変です。もっと実用的にとなれば、解説書も必要になります。しかし、何も、もう一度律法主義に立ち返りましょうと言うのではありません。 この価値観が混沌としている時代にあっても、私たちには、確かな規範が与えられているということです。必ずしも申命記や律法の書のことではありません。むしろ、もっと広く、聖書そのものです。預言者の教えであり、イエスさまの教えです。 それは、申命記が言うにも拘わらず、結構、難しく感じるし、遠いものに感じられるかも知れません。しかし、確かに、私たちの規範は存在するのです。私たちには、日夜これに向かいあい、手にし、目にし、読み、考え、そして祈ることが許されているのです。 ○ さて、今までお話ししたことを、そのまま今日の説教の結論にしてはならないかも知れません。御言葉は私たちの直ぐ近くにあるということは、御言葉は安直なもので、簡単に手に入るという意味ではありません。 基本は、西遊記に描かれるように、遠い遠い地にあるものでした。常人が手に触れることの出来ない物でした。今日の箇所の12〜13節に述べられていることとは逆です。 しかし、十戒が与えられたことで、手を伸ばせば届く物となったし、また、常に身近に於いて置くべき物となったのです。日常茶飯という言葉があります。聖書は、とても尊い宝物です。しかし、その尊さは、ダイヤモンドのような希少価値を言うのではありません。毎日必要なご飯のように、水のように、空気のように尊いものです。 ○ 葬儀に際して、遺族が聖書を棺に入れる場合があります。それが当たり前と考えている人もあります。しかし、私はあまりお勧めしません。故人が大事にした聖書なら、遺族が手元に置いて、赤い線が引いてある箇所や、破れてしまったペイジを調べて欲しいと思います。メモ書きがあるかも知れません。故人が何を考えていたのか、どんな信仰を持っていたのかが良く分かります。 もし、何十年たってもピカピカ、新品のように聖書だったら、棺に入れた方が良いかも知れません。天国でちゃんと勉強しなさいよという意味になります。 愛用のボロボロになった聖書を棺に入れたいということなら、理解できです。亡くなった人が読み慣れた聖書を棺に入れて、神の国でも読めるようにという発想ならば、反対出来ません。しかし、こういう聖書こそ、遺族に読んで貰いたいものです。 |