○ 26〜27節を先に読んだ方が分かり易いでしょう。 『わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、 砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。 27:雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、 その倒れ方がひどかった』 3.11の大震災から、9年以上が経ちました。しかし、どうしたって忘れられない、忘れてはならない大災害です。 当然ながら、地震の被災者を、『砂の上に家を建てた愚かな人』と呼び、避難するつもりは毛頭ありません。他人のことではありません。私たちの日常の生活が、『砂の上に家を建てた』ようなものではないかと、考えさせられるのです。 何だか忘れられたようになっていますが、東京を大地震が襲うと警告されています。未だ地震は起こりませんが、起こっていない分、その恐れは日々高まっています。今年中に、今月中に、来るかも知れません。 地震だけではありません。コロナウイルスのこと、国家の財政危機のこと、私たちの回りを様々な不安が取り巻いています。 ○ 現代を言い表す言葉は、不安だそうです。そんなことが言われ始めたのは、多分キルケゴールからではないでしょうか。キルケゴール、1813年〜1855年の人です。もう200年近く経ってしまいました。 もしかすると、キルケゴールよりもっともっと以前から、今の時代を表す言葉は不安だと言っていたのではないでしょうか。どの時代の人も、現代を言い表す言葉は不安だと感じていたのではないでしょうか。おそらくはイエスさまの時代から。それ以前から。 箴言27章1節。 『あすのことを誇ってはならない、 一日のうちに何がおこるかを知ることができないからだ(口語訳)』 ヤコブの手紙4章13〜14節。 『13:よく聞きなさい。「今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、 商売をして金もうけをしよう」と言う人たち、 14:あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。 あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません』 ○ 何よりも私たちの教会のことです。私たちの教会は、何処に立っているのか、何の上に立っているのか、それが問われています。 どんなに壮麗であっても、砂の上に建てられているのならば、地震に限らず、何かが起これば、一瞬の内に崩れてしまいます。 表面立派に見える建物程、その崩れ方は激しいでしょう。被害が大きいでしょう。いっそ、粗末なわらの家の方が、被害は少ないかも知れません。 ○『砂の上に家を建てた愚かな人』の逆は、『岩の上に自分の家を建てた賢い人』です。それでは、『岩の上に自分の家を建てた』とはどういうことでしょうか。『わたしのこれらの言葉を聞いて行う者』のことだそうです。 それでは『わたしのこれらの言葉』とは何か、突き詰めて行くと、マタイ福音書の所謂「山上の垂訓」全体のことになります。 しかし、話を分かり易くするために、ここでは、イエスさまの言葉・教えでよろしいでしょう。 更に、聖書を読んだ誰もが連想させられるように、信仰告白のことです。 一応、引用しておきます。 『16:シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 17:すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。 あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。 18:わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。 陰府の力もこれに対抗できない。』 信仰告白こそが、教会を建てるべき岩です。 ○ 私たちの教会は、教育館耐震補強工事を行いました。古び汚れていた物が、綺麗になりました。しかし、肝心なことは、耐震です。このままでは特に子どもを集めた集会などは出来ない、耐震に不安を抱えながら、集会を持つことは無責任だという意見もありました。その通りです。 工事が成りました。これで向こう数十年の間、安心して集会を持つことが出来ます。集会は教会員相互の交わりだけではなく、伝道の意味を持ちます。更に、何十年か後に、礼拝堂を建て替える時、臨時的に教育館で礼拝を守り続けることが出来ます。私は松江北堀で会堂建築を体験しましたが、工事期間中の大体礼拝場所を確保することはとても大きいことでした。工事期間中礼拝を休むわけにはいきません。礼拝場所を確保しないで会堂建築は出来ません。 つまり、教育館の工事は、複数の意味で、教会の近未来を開くものでした。それが適ったのですから、大いにお祝いし、早速に伝道集会を持ちたかったのですが、コロナウイルスのせいで、今は適いません。残念です。 ○ 残念ですが、与えられた有意義な時としなくてはなりません。何故ならば、教会の営みにとって建物はとても大事なものですが、もっと大事なものが存在するからです。それが、建物の土台にあって、ややもすれば隠れてしまい、見逃されてしまう信仰・信仰告白そのものだからです。 教会という建物に集まることが出来ずに、それぞれの家で聖書を開き、お祈りしなくてはならないのは、辛いことですが、教会、信仰の土台そのものを見詰める機会となっていると思います。機会にしなくてはなりません。 会えないからこそ想いが募るということもあります。礼拝できないからこそ、礼拝への想いが募るということもあります。 また、健康のこととか、やむを得ない事情で礼拝に出られない方々が、どんな想いでいるのかということを知らされる機会となりました。この後の、教会の様々な営みに、生かして行かなくてはなりません。 ○ 25節。 『雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。 岩を土台としていたからである』 『雨、川、風』、これらは単に自然災害のことではありません。教会を襲う様々な力のことでしょう。政治的な弾圧かも知れません。経済的な困窮かも知れません。 それらよりも深刻なのは、異端や不信仰が入り込んで来ることです。使徒言行録や使徒パウロの書簡を思い出して下さい。ここには、教会を襲う自然災害については、殆ど何も記されていません。使徒言行録にはペトロが地震に遭遇したことも、パウロが海上で嵐に遭ったことも記されていますが、これらはペトロをもパウロをも滅ぼすことは出来ません。むしろ助けたとさえ言えましょう。教会を襲うのは、政治的な弾圧、経済的な困窮よりも、異端と不信仰です。 ○ 異端と不信仰こそ、岩をもってしか、『岩の上に … 教会を建てる』ことによってしか防ぎようがありません。 逆に言えば、『岩の上に … 建て』られた教会を、自然災害も、政治的な弾圧も、経済的な困窮も、崩すことは出来ません。 ○ 以前にもお話ししましたでしょうか、出版局長をしていた時、『信徒の友』の日課を、校正のために読んでいると、つい教勢報告の方に目が行きます。以前に体験した奥羽、東北、西中国ですと、特にそうです。ここ10〜20年の教勢の落ち込みは、ひどいものです。 その一方で、田舎の小さな小さな教会が、教会の灯火を守り通し、ごく少ない人数で、会堂建築をも成し遂げる様子に、何とも、感動させられます。 やはり、教会は、『岩の上に … 建て』られているのです。自然災害も、政治的な弾圧も、経済的な困窮も、『岩の上に … 建て』られた教会を、崩すことは出来ません。 ○ コリントの信徒への手紙1章18節。 『十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、 わたしたち救われる者には神の力です』 これこそが、私たちの教会を建てるべき岩・信仰です。 ○ 世界中には、様々なキリスト教会があります。建物・礼拝堂も様々です。礼拝の中味、プログラムも多様です。玉川平安教会の礼拝順序や、呼び方も、独特で、日本基督教団の他の教会と随分違いがあります。具体例は時間の関係で申しませんが、少しずつ変えて行きたいと願っています。変えるとは、牧師が自説を主張することではありません。牧師が代わる度に礼拝の式次第が代わるのはどうかと思います。 式次第に多様性があっても、教会が必ず一致しなくてはならないことは、信仰の一致、より具体的には、信仰告白の一致です。日本基督教団を一つに結び合わせるものは、この信仰告白以外にはありません。玉川平安教会も同様です。 ここでの一致、共通理解を欠いていては、どんな手立てをもっても、話し合いを持っても、建設的にはなりません。 使徒信条をはじめとする基本信条に立った日本基督教団信仰告白を、改めて学び、考え、そして、玉川平安教会の教会論への具体化を模索したい願っています。 そのために、クリスマス以降、所謂三要文、主の祈り、十戒、使徒信条を礼拝のテキストとして読んでいます。今は主の祈り、7月は十戒そして使徒信条を読みます。日本基督教団信仰告白で一致するために寄り基本的な信条を学ばなければなりません。 ○ さて、24節、26節について、未だ十分なことをお話ししていません。 24節、『これらの言葉を聞いて行う者は』、26節、『聞くだけで行わない者は』とあります。 聖書研究祈祷会で、或いは教会修養会でどんなに勉強しても、それで話が済むわけではありません。 『聞いて行う』『聞くだけで行わない』とは、実践、非実践ということですが、それよりも、『これらの言葉を』本当に身に付けているか。『これらの言葉』によって、本当に生かされているかということでしょう。 ○ 先程、箴言とヤコブ書から引用しました。しかし、もっと直接的な箇所があります。『これらの言葉』とは、主の山上の説教の言葉のことです。 その中の一節。マタイ福音書6章。31〜34節。つい最近読んだ所です。 『31:だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 32:それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、 これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。 33:何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。 そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。 34:だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。 その日の苦労は、その日だけで十分である。」』 ○ 教会の伝道計画を模索する時に、更には教会創立83周年となり、100年に備える展望・幻を下さいと祈っている時に、『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む』では、矛盾でしょうか。具合が悪いでしょうか。 そんなことはありません。『明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む』とは、その前の『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい』という教えの延長です。そして、『何よりもまず、神の国と神の義を求め』ることこそが、教会の将来計画です。 『何よりもまず、神の国と神の義を求め』ることこそが、必ず一致しなくてはならない共通点、信仰の一致、より具体的には、信仰告白の一致と重なります。 ○ 私たちは、教会創立83周年を迎え、100年に備える展望・幻を下さいと祈ります。具体的な手立てを検討しています。その時にこそ、『岩の上に自分の家を建て』る者にならなくてはなりません。 『何よりもまず、神の国と神の義を求め』、一致した信仰告白の上に、『自分の家を建て』る者にならなくてはなりません。 ○ 28節と29節が残っています。 『イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである』 『これらの言葉を』とは、主の山上の説教全体のことでしょう。『律法学者のようにではなく、権威ある者として』つまり、イエスさまが教えられたのは、単なる知識ではありません。 単なる知識ではありませんから、私たちは、一人の信仰者として、『その教えに』向かい合うのです。 |