○ 昔々の話になります。 神学生の時のことです。引っ越しの手伝いに出かけ、仲間二人と併せて三人、沢山の握り寿司を貰って帰りました。普段口にできないような上等の品が、3人ではとても食べきれないくらいあります。冬休みにも拘わらず寮に居残っていた者を集めて、さあ、いただこうということになりました。 ところが、醤油がありません。寮では原則煮炊きが禁止されていたこともありますし、冬休みで人がいないこともあって、どうしても醤油が手に入りません。 今なら、コンビニに駆け込めば済むのですが、当時、50年近い昔には、神学校の近くにコンビニは一件もありません。 誰かが、ソースならあると言い出しましたが、ソースではどうにもなりません。豪華なごちそうの筈が、何とも味気ないものになってしまいました。 サビ抜きの寿司は有っても、醤油抜きのすしは、本当に何の意味も有りません。 ○ マタイ福音書では、地の塩の譬えと、世の光の譬えとが、結び併せて語られています。マルコ福音書では、地の塩だけです。マタイ福音書は、地の塩の譬えと、世の光の譬えと両者に共通するものを見ています。その共通点こそが、この譬えの意味に直結します。 それは、すしにとっての醤油です。 寿司よりも、鍋物の方が解り易いでしょうか。つまり、鯛やらエビやらカニやら、或いは蛤やら、沢山の贅沢な具を取りそろえていても、ひとつまみの塩がなければ、全ては、無意味になってしまいます。鯛、エビ、カニに比べたら、塩は高価なものではありません。しかし、塩が、決定的な役割を果たす、全体を味付ける、意味づけるのです。 ○ 一本の蝋燭は、安価なものです。しかし、この一本の蝋燭の灯火がなければ、どんなにきらびやかな装飾も、贅を懲らした衣装も、意味を失います。 同様に、私たちキリスト者は、この世の中にあって、塩であり光です。特別に優れた者でも、力有る者でも、知恵有る者でもないかも知れません。しかし、キリスト者の存在がなければ、世は、塩を失い、光を失うのです。 キリスト者の存在こそ、この世を意味づけるのです。 全人口のたった1%以下だとしても、塩の役目を果たし、光の役目を果たします。果たさなければなりません。 ○ 特に留意していただきたい点があります。それは、この譬えの末尾の部分です。 『人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである』 『立派な行い』とは何のことでしょうか。 それを見た結果『あなたがたの天の父をあがめるようになる』『立派な行い』とは何のことでしょうか。 ○ これも古い話です。テレビの水戸黄門を観ていました。 主人公格のお医者さんが一晩中寝ないで、熱病に罹ったこどもの治療をしています。その子のおばあさんも、一晩中寝ないで、神棚に向かって祈っています。 朝、子供の熱は引きました。峠を越えたのです。そうしますと、おばあさんは、神棚に向かうのを止めて、このお医者さんを拝んだのです。 それが自然な反応でしょう。お医者さんが病気の孫のために懸命に治療に当たってくれています。自分には他に出来ることはないから、神棚に向かって必死にお祈りします。 その祈りが聞かれたのか、子供の熱は引きました。 するとおばあさんは、神さまに感謝するのではなく、お医者さんに感謝し、それどころかありがたいと言って、お医者さんを拝むのです。 ○ 単なる良い行いでは、人々が『天の父をあがめるようになる』とはなりません。人々は、良い行いを成し遂げる人間を崇拝します。ごく当たり前の反応です。 人々が、『天の父をあがめるようになる』のは、『良い行い』をする人々が神さまを崇めているからです。むしろ、良い行いとは、礼拝そのもののことかも知れません。 ○ シュテファン・ツヴァィクに『マゼラン』という本があります。 世界一周の旅の半ば、マゼランの一行は、ヒィリピン中部のセブ島まで辿りつきます。大きな船や鉄砲など、その科学の力で、南洋の島々の現地人を圧倒しました。 また、厳かな礼拝を見せることで、現地人を説得しました。マゼランは熱心な信者だったようですが、これはまた、マゼランが行く先々で、人々を懐柔するための常套手段でした。 人々は、船乗りの白人を神の使いと思いこみ、彼らが拝む神を拝み始めました。 ここまでは、 『人々が、あなたがたの立派な行いを見て、 あなたがたの天の父をあがめるようになるためである』 というマタイと一致します。セブ島の住民は、これまで見たことも聞いたこともないような、不思議な力を見せられ、かつその力を持つ人が、礼拝を捧げている様子を見せられました。また、その礼拝は美しい衣装に彩られた荘厳なものだったようです。セブ島民は、たちまちキリスト教に帰依しました。 ○ しかし、その後、セブ島民は別の光景を目にします。 船乗りたちが、つまらない争いを起こしマゼランに反抗し、それが殺人に発展しました。これを見ると、途端に、マゼランの神を捨てて、それどころか、彼らを襲ったのです。この戦闘でマゼランは世界一周を果たせずに、命を落としました。 これも至極当然な反応かも知れません。同じ神を信じて礼拝している人々が、互いに争い殺し合う、これを見たならば、こんな神さまは大した神さまではない、むしろ悪い神さまだと、セブ島の住民が判断しても仕方がありません。 ちょっと乱暴な整理の仕方かも知れませんが、一体に、日本から見て南方の島々の島民は、部族間闘争が激しく、排他意識が強かったようです。しかし、逆に一つ部族間の連帯は強く、仲間同士が争い殺し合うようなことはありません。 どんなにきらびやかな衣装を纏って麗々しい礼拝を捧げていても、仲間で争い殺し合うマゼランの船乗りたちは、セブの人々には、醜くく映ったのです。形式的に整った礼拝を守っていさえすれば良い、そういうことでもないようです。 ○ 聖書からは脱線ですが、日本基督教団の教勢不振も、このことと重なるでしょう。 同じキリスト教の、同じ日本基督教団に属する教会同士が、牧師同士が醜く争っていて、伝道もヘチマもないでしょう。争っている当事者にどんなに義があったとしても、世間の人から見たならば、仲間争い、内輪もめに過ぎません。 そんな教団に関心は持てないでしょうし、それを許している神さまなんて理解出来ないでしょう。 とても辛い現実です。 ○ 一方で、キリスト教の歴史を振り返れば、これは、常に、神学論争に、権力闘争に明け暮れた歴史です。誰も、この事実を否定出来ません。内輪もめと言えば内輪もめです。とても辛い現実です。 ○ またまた話が飛躍します。 アラビアンナイトの『アリババと40人の盗賊』の話で、油商人に化けた盗賊の親玉は、正体を見抜かれて、油壺に隠れた子分たちは、煮えた油をかけられて皆殺しにされます。 どうして正体を見抜かれたのでしょうか。それは、盗賊の首領が、健康のために夕食から塩を抜いてくれと言ったからです。共に食事をとることは、即ち共に塩を取ることです。共に塩を取ることは、当時の中近東では、兄弟のちぎりを結ぶことを意味しました。これから殺そうとする相手と、兄弟のちぎりを結ぶことは、人殺しさえ何とも思わない悪党でもできかねることだったのです。 『アリババと40人の盗賊』の話で、バートン版には、食事の塩を抜く云々が記されていますが、何故か、多くの翻訳では省略されています。しかし、塩云々が略されたら、本当は話が通じません。 ○ アラビアンナイトはイスラム世界のものであって、聖書、特に新約聖書とは無関係かも知れません。しかし、舞台となっているのは同じ中近東世界です。塩に関する考え方は、共通しています。もっとも、アラビアンナイトの中でも傑作と評価される『アリババと40人の盗賊』『アラジンの不思議なランプ』、『船乗りシンドバットの冒険』は、オリジナルのアラビアンナイトにはなく、バートンの創作だという疑いがあるようですが、良くは知りません。 ○ もう少し塩に拘ります。13節を改めて読みます。 『「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、 その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、 外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである』 この塩は岩塩だと言われます。死海の畔にはゴロゴロしています。綺麗なガラスのように見えるものは少なく、大抵は不純物が混じっています。不純物の中に塩が混じっていると言った方が正確な表現かも知れません。 部屋に置いていると、湿気で塩が溶け出し、不純物だけが残ると言われています。私の経験では、10年経っても少しも溶けませんでしたが、一応、学説と言うか通説に従います。溶けた後に石炭を燃やした滓のように残骸が残ります。これを道路に捨てたそうです。雪国では石炭滓をそうしていました。雪を溶かしますし、滑り止めにもなります。 エルサレムでも雪は少しは降りますから、同様かも知れません。 『外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられる』かも知れません。 ○ 一度失われた塩の効果が戻ることはありません。 塩気が無くなった岩塩の残り滓に塩をまぶして塩気を回復させる人はありません。そもそも、物理的に無理でしょう。 もし、地の塩たるべき教会が、塩気を無くしたら、人々の信頼を失ったならば、それを取り戻すことは至難の業です。 もし、教会から信仰を持つ人がいなくなったならば、その残滓はどうなるのでしょうか。建物が残っても、土地が残っても、それは教会ではありません。そのがらんどうになった教会に人が、つまり塩気が戻ることはあるでしょうか。 ○ 14節。 『あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない』 『山の上にある町は、隠れることができない』、微妙な表現です。『隠れることができない』です。聖書時代のパレスチナ地方では、町は山、むしろ丘の上に作られました。ために、山の麓まで水を汲みに行かなくてはなりません。これが当時の女性や子どもに課せられた重労働でした。ならば何故、山麓の水利の良い場所に町を作らなかったのでしょう。危険だからです。襲撃されるからです。ですから、エルサレム初め大きな町は城郭都市でした。城郭・城の中に町がありました。 水利が悪いという、致命的とさえ思われる丘の上に町を築かなければ危険だったのです。 その一方、小高い所にある町は、その灯りや煙が遠くからでも見えます。敵の標的となります。何とも難しいものです。 ○ 隠れることが出来ないなら、むしろ15節。 『また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。 そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである』 隠れて光を失ったら、教会ではなくなります。迫害のローマにあっても、大胆に光を掲げ、その光でローマ中を照らすことが、むしろ教会を教会たらしめること、ひいては教会を守ることになります。こういう理屈だと考えます。 そしてこのことは、現代の教会にも当て嵌まります。 教会は世の中から隠れていてはなりません。光を掲げなくてはなりません。隠れていたら、やがて塩気が無くなり、つまり、教会の中から信仰が失われ、抜け殻になってしまうでしょう。 これを別の言い方で表現するなら、伝道しない教会は、教会の抜け殻になってしまうと言うことです。 ○ ところで、マゼランが反乱に遭ったのは、セブ島が最初ではありません。後にマゼラン海峡と呼ばれることになるパタゴニヤの最南端、フェゴ島との間の、狭く海流が激しく危険な海峡にさしかかった時に、反乱が起き、反乱船はそこからスペインに戻ってしまい、彼らはマゼランの遭難を報告し、英雄・大金持ちになりました。 セブ島でマゼランの世界一周の夢は潰えたかに思われましたが、生き残った船が、残りの航海を成し遂げ、5艘の内、たった1艘が帰り着きました。この船の名は、ビィクトリア号と言います。 先に戻り英雄・大金持ちになっていた反乱者が、財産を没収され、罰せられたことは言うまでもありません。偽りの栄光は汚れ、真実が明らかにされました。 |