▼5節から読みます。 『婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。 「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか』 十字架に架けられて殺されたことを承知しているから、『婦人たち』は墓の中を探しました。何故知っているのでしょうか。この女たちは、イエスさまの十字架を直接目撃しましたし、イエスさまの遺体を、自らの手で、葬ったからです。 自分の目で、耳で、そして指で、そのことを知っているのです。 ▼3.11の大震災の当日から翌日まで、ずっとテレビの前に座り続けていました。あの凄まじい光景を見続けていました。そうしましたら、だんだん鬱々として来まして、テレビを見る気もしないし、新聞も読みたくなくなりました。この事実、出来事を拒否したい、拒否すれば、事実が事実でなくなるような、そんな気がしました。 そういう話をしますと、全く同感だ、自分も鬱々として来たという人が少なくありませんでした。 ▼テレビの前の私たちでさえそうですから、現地の人は、いったいどんな思いだったのか。想像に余ります。 私が、被災地を訪問したのは、4月4〜8日の間ですから、もう既に、20日以上も経っていました。通常の災害の場合だったら、大分片付けられていたと思います。 しかし、20日後のその時点でも未だ、津波の後の瓦礫は殆ど手が付けられない状態でした。そして、瓦礫の間を徘徊する人の姿がありました。 被災当初は、死んでいる人の内に、家族を捜していました。累々たる屍の中に、家族を求めていました。しかし日を経て、人々は残骸の中に、死体を探し求めていたのです。 もう、その遺体を発見することも出来ないでしょう。そんなことは分かっていても、瓦礫の間をさまようのは、何かしらの遺品を探していたのかと思います。 それが見つからないと、気持ちに整理が付かないのでしょう。 ▼1節に戻ります。 『週の初めの日』、日曜日のことになります。イエスさまは金曜日の午後3時、十字架の上に息を引き取られました。その日の日没から翌日、つまり、安息日の土曜日となり、一切の仕事が禁止されますので、金曜日の日没までの僅かな時間に、慌ただしく埋葬する結果となりました。 ために、死体を洗い清め、香油を塗り、白い布にくるむといった葬りの用意が十分出来なかったのも当然です。 ▼ですから『夜明け前に』とは、可能な限り早くという意味になります。流石に真っ暗闇の墓地(しかも洞窟です)では、仕事にならなかったのでしょう。今日のような照明設備などある筈もありません。死体に塗るための香油も「用意していた」とあります。金曜日の僅かな時間のうちに買い整えていたということでしょうか。 マルコ福音書では、当日の朝早く『買い求めた』とあります。いずれにしても、非常時に立ち向かって健気に働き続けるというのは、女性の美徳のように思います。ヨハネ福音書のラザロの復活の箇所で申し上げましたが、兄弟の死にただただ泣き暮らすのも女性ならば、真っ正面から向かい合うのも女性です。 ▼婦人たちは、イエスさまの死に、真っ正面から向かい合っています。死を受け入れることが、死の克服であり、問題の唯一の解決方なのでしょう。 その女に、『なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか』と、天使は言いました。 私たちも、復活のイエスさまを、死人の中に探し求めてはなりません。決して見つかりません。先ず、このことを受け止めておきます。 ▼それでは男どもはどうしていたのか。ルカでは、『石が墓から転がしてあるので』と記すだけですが、マルコでは『誰が、私たちのために墓の入り口から石を転がしてくれるでしょう』と、婦人たちが気を揉んでいます。マタイでは、天使が石を動かし、ために地震が起こったとしています。こんな所にもそれぞれの福音書の特徴が良く出ていて、興味深いのですが、墓の入り口をふさいでいる石を動かすことは、とても女性の手で出来ることではなかったという点は共通しています。 ▼男どもはどうしていたのか。イスカリオテのユダは、最後の晩餐の席を去り、イエスさまを裏切りましたし、他の11人の弟子は、ゲッセマネに於ける捕縛の際に、既に全員が逃げ出しています。また、今日の10節や同じ24章の33節、他の福音書の同じような記述からして、部屋の中に隠れるようにして、閉じこもっていた様子です。 つまり、彼らは、深く深く、この悲しみの中に沈殿していました。絶望していました。まるで、それが、イエスさまを弔うことであるかのように、深く、自分たちの心の中に沈み込んでいました。 ▼一方、それ以外の弟子の中で、アリマタヤのヨセフというこれまで慣染みの無かった人物が登場し、イエスさまの埋葬という重大な役割を果たすというのは、大変に興味をそそられる出来事です。ヨハネ福音書は、その3章に登場するユダヤ人の指導者ニコデモをも、埋葬の仕事仲間に加えています。最近2回の礼拝で読みました。 イエスさまに偉大な教師の姿を見ていた、ヨセフやニコデモといった人たちは、自分の社会的な地位のことなどをおもんぱかって、或はインテリの弱点であるところの決断力の不足によって、イエスさまの弟子として人々の前に自分を表すことができないでいましたが、今、主の十字架の死という肝心要の時には、大事な、また彼らにしか出来ない役割を果たしました。 自分の地位立場を賭けて、イエスさまの埋葬をすることが、彼らの弔意です。 ▼12弟子には何故それができなかったのか。答えは、その絶望の深さにあると思います。12弟子も、主に対する愛が、女たちに負けていたのではないし、ヨセフやニコデモ程には主の教えを理解していなかったというのでもないでしょう。 12弟子は3年半もの間、イエスさまと行動を共にし、他の誰よりもイエスさまを愛し、また、その教えに魅かれていました。これが、大前提だと考えます。にも拘らず、というよりも、だからこそ、イエスさまが彼らの目の前から取り去られたときには、彼らの挫折感・絶望感は誰よりも深い訳です。 ▼ルカ福音書だけではありません。どの福音書も弟子たちの狼狽そして絶望を強調して描いています。つまり、十字架から自然に復活という思想が生まれて来るのではありません。両者の間には、どうしようもない程の断絶があると言っています。「イエスさまを愛する気持ちが、その死を否定する気持ちにつながった。更には、復活という思想を生んだ」と考える学者がいます。しかし、その解釈には聖書的根拠はありません。弟子たちは全く絶望していました。少なくとも聖書はそのように描いています。 とうてい理性では捕らえがたいことかも知れませんが、復活という出来事が起こり、そのことによって、弟子たちの群れも復活したのだということが、強調されているのです。 ▼この後の議論はちょっとややこしくなりますが、その一方で、同じルカ福音書が、そして、他の福音書も同様ですが、復活はたまたま起こったのではなく、イエスさまがそれを予言していた。復活は、一貫した神の救いの計画の業の完成として起こったのだということが、同時に強調されています。 4節がそれに該当します。『輝いた衣を着たふたりの若者が』という表現から、誰でも『山上の変容』の出来事を思い浮かべます。この記事は、十字架が決して敗北ではなく、新しい契約の時代が始まることのしるしとして描かれています。 ▼『香料を用意して』とありますが、香料とは香油と同じものと考えて良いでしょう。そうすれば、そのことを女たちが意識していたかどうかは別として、油注ぐこと、つまり、王としての即位が背景にあると考えられます。 十字架の死においてこそ、キリストが人となられました。神が人となられたとは、神が人間の姿形になられたということに強調があるのではありません。そんな話ならばギリシャ神話に溢れています。 まして神話にあるように、人間の女を娶って子どもを設けた、というようなことではありません。神が人となられたとは、その究極の意味は、人間が人間であるが故の苦しみ悩み孤独というものを神が知ったということです。人間が人間であるが故の苦しみ悩み孤独というものを神が体験したということです。 何より人間の死の悲しみ、絶望を知ったということです。でありますから、私は、神が人となられたことは、クリスマスの物語よりも、十字架の出来事でこそ表現されていると考えます。だからこそ、その分量の半分以上を、最後の一週間、十字架の出来事を描くことに割くマルコ福音書には、クリスマス物語は要らなかったのだと考えます。十字架の出来事こそが、マルコのクリスマス、受肉だからです。 ▼6〜7節の天使たちの話の内容もそうですし、特に注目すべきは、8節の『そこで女たちはその言葉を思い出し』という表現です。これは、弟子たちを通じて女たちに語られたものと考えられます。そうでないとしても、今、現場で天使に会い、虚ろになった墓を見た女たちには、『思い出される』ことがありました。つまり、復活を告げる天使の言葉は、イエスさまの生前の預言と連続性を持ちました。 ところが、女たちから、その話を聞いただけの弟子たちには、『それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった』つまり、不連続な話に終わりました。 ▼今日の聖書の箇所を通じて、一方では、救いの計画性とその成就としての十字架・復活が描かれ、一方で、十字架と復活との不連続性が描かれているのです。 この解決のつかないように見える矛盾を埋めるものがあります。それは、8節の『思い出した』という言葉です。思い出すというのは、「全く忘れていたことを思い出す」というのではありません。雑多なものの中に埋もれていたものが引き出されるということです。闇の中に隠されていたものが、光を与えられるということです。 全く忘れてしまったことは、思い出しようがありません。記憶の隅でも存在していたからこそ、思い出します。 ▼今日の箇所のすぐ後に続く、復活顕現の記事においても、一緒に歩き続けていた人がイエスさまだとは気が付かなかった二人の弟子が、イエスさまがパンを取って裂き二人に渡された時に、初めて主と分かり、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』というふうに思い出しています。他にもたくさんの例を上げることが出来ますが、復活の記事は、この『思い出す』ということと密接に結び付いているのです。 ▼最初に申しましたように、瓦礫の中に、死人の中に、生きている人を探している光景がありました。しかし、それはかないません。 やがて諦めて、瓦礫の中に、死人の中に、死んでいる人を探します。何とも痛ましいことです。 それも見付からない、そこで、人々は、せめて思い出の品を探そうとします。 ▼想い出すということは、信仰生活で、とても大事なことです。 詩編42編5節。 『わたしは魂を注ぎ出し、思い起す 喜び歌い感謝を献げる声の中を 祭りに集う人の群れと共に進み 神の家に入り、ひれ伏したことを』 そして、同じく10節。 『わたしの岩、私の神に言おう 「なぜ、わたしをお忘れになったのか なぜ、わたしは的に虐げられ 嘆きつつ歩くのか」』 詩編42編を注釈している暇はありませんが、『思い起す』ということは、決定的です。 イエスさまとの間に起こった出来事を、イエスさまが語って下さった言葉を想い出すのです。 その記憶が、私たちを、復活のイエスさまの元に導いてくれます。 『思い起す』ことによって、復活のイエスさまに出会うのです。 ▼ 勿論、パウロのように真逆な仕方で復活のイエスさまに出会い、信仰を与えられた人もあります。あまりに卑近な例かも知れませんが、世の中には一目惚れということもあります。ですから、信仰生活・教会生活が長く濃密で、思い出す出来事が沢山ある人だけが、復活のイエスさまを信じることが出来るとは申しません。 しかし、恋愛結婚もそうですが、信仰生活もいろいろとあります。山も谷もあります。その時に、思い出す出来事が沢山ある人は、危機を乗り越えることが容易だと考えます。それがないと駄目だとは申しませんが、なかなか大変だろうとは想像します。 矢張り私たちは、信仰生活上の沢山の想い出があった方がよろしいと思います。教会がそれを提供できたらいいなと思います。 ▼ 私たちは、死人の中に、生きている人を探しているのではありません。まして、死人の中に、死んでいる人を探しているのではありません。 生きて語りかけて下さる方を探して、毎日を歩みます。生きます。 礼拝初め教会の諸集会には、正にそのような意味があります。 礼拝、聖餐式こそ、私たちが復活の主に出会うという意味を語っています。 そのことは、今日の箇所に続く所謂「エマオ途上の顕現」に、説得力豊かに描かれています。今回は使徒信条の学びですので、出来ませんが、早い機会に読みたいと思います。 |